風まかせのカヌー旅
37 マリアナトレンチ
パラオ→ングルー→ウォレアイ→イフルック→エラトー→ラモトレック→サタワル→サイパン→グアム
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文と写真・林和代
[Photo by Aylie Baker]
サタワルを出て数日経った頃、急にうねりが強くなった。
相変わらず晴天続きで、風もいい具合には吹いているが海を荒らすようなものではないのに。
「どういうこと? こんなにいい天気なのに、なんでこんなに揺れてんの?」
私が投げた疑問に、ミヤーノが答えてくれた。
「マリアナ・トレンチ」
……おお、そうか! マリアナ海溝だ!!
世界で一番深い海。深さ1万メートルを超す、とてつもない海溝に差し掛かったのだ。
エベレストは8848メートル。
エベレストを逆さまにしても、マリアナ海溝の底にはまるで届かない。
「切り立った大きな崖に当たって海水が跳ね返る。そのせいでうねりが大きくなるんだ」
セサリオがそう教えてくれた。
マリアナトレンチ。うねりが高い。[Photo by Aylie baker]
暗い海の中にそびえ立つ、剣山のごとく尖った山々が脳裏に浮かぶと、ちょっとこわいような、凄みを感じた。
私にはわからなかったが、エリーによれば、マリアナ海溝に入った頃、海の色がかすかに暗く濃いブルーに変化したとか。
そういえば、長年謎だったニホンウナギの産卵地もこの辺だったんだよなー。
と、初めこそマリアナ海溝に興奮していたが、実際、何か景色が変わるわけではなく、ただ揺れが激しいばかりで、寝ていても体が左右にぶつかって鬱陶しい。
翌日には、マリアナトレンチ、早く抜けないかしらー、などとぼやくようになっていた。
結局、この揺れる区間、我がシフトはミヤーノとムライス二人で舵とりをすることになってしまった。 オサムは再び酔ってしまい、私はうねりが強すぎて舵をもたせてもらえなかったのだ。
申し訳ないので、深夜の辛い時間には、ずっと隠し持っていたみんな大好き「カンロ飴」をそっと渡したり、熟れたバナナをココナツミルクで煮込んだ離島で人気のスイーツを作ってみたり。
罪滅ぼし気分でできる限りのサービスをしてはみるが、もちろん彼らに私を責めるような気持ちは微塵もなく、ほとんどの人が眠っている肌寒い深夜でさえ、デッキ上は穏やかな気配に包まれていた。
ミヤーノがサタワルで作ってくれたココナツ削り機を使って、ココナツの白い胚乳部分を削って絞り、ココナツミルクを作る。
この頃になると、パンケーキにも皆工夫を凝らすようになり、バナナや缶詰のピーチを使ったフルーツパンケーキも登場するようになっていた。私のお気に入りは、ココナツミルクを煮詰めたクリーム、アルンをパンケーキにつけていただくバージョン。
深夜3時頃だったろうか。
2時間ほど舵取りをしてようやくムライスに交代したミヤーノにコーヒーを淹れ、残り少なくなって来たタバコを二人でシェアしていた時のこと。
ミヤーノが不意に天頂あたりの星を指差して言った。
「カッツ、あの星はなんだ?」
「え、し、知りません」
「あれはサピだ」
「サピって、ファイティングスターの? じゃ、嵐くるの?」
ファイティングスターは嵐を呼ぶ星と言われている。
1月はこれ、2月はあれ、と、月ごとに嵐の星が決まっていて、その月にその星が北極星がある高さより低い位置にいると嵐が来る、と言われている。
「あんなに高いところにあるんだから、嵐は来ないだろ」
「そっか。そうね。でもサピって何月のファイティングスターだっけ? ってか今月のはなんだっけ?」
「全部忘れたのか? そういうことは俺じゃなくセサリオに聞きな」
ミヤーノは右の眉毛をクイッとあげて、ちょっと意地悪そうに笑った。
これまで4回ミヤーノと航海した経験からいうと、彼は、いろんなことを知っている。
私ごときにナビゲーターの力量を測る術などありはしないが、勘でいうなら
サタワルーサイパンぐらいだったら彼は自分でナビゲートできそうな気もする。
ただ、たとえできたとしても、彼はまだポーじゃない。
だから彼はしきりに、航海術のことは俺に聞くな、セサリオに聞け、と言うのである。
ポーとは、ナビゲーターとして一人前と認められた者に与えられる、ミクロネシアの離島独特の称号。(サタワル語表記ではpwo、発音はプォが一番近いが、便宜上ここではポーと記す)
ポーになるには、ポーセレモニーという儀式を受ける必要がある。
この儀式では、師匠たちから特別講義を受けたのち、島古来の神様の魔力を授かり、晴れて一人前のナビゲーター、ポーになる。
ポーになれば、誰の許可もなく自分の意思でカヌーを出せるし、航海術を教えることもできる。
ポーじゃない者が乗ったカヌーはポーが乗るカヌーを追い越してはいけない、など、航海に関して相対的に「偉く」なる。
その代わり、ポーになったら身内だけでなく、島全体の食料を取ってくるという公的な責任も生ずる。
ミヤーノはまだその儀式を受けていない。だから、自分には誰かに航海術を教える資格はないと言っているのだ。
「ねえミヤーノ、もしセサリオがポーになれって言ったらどうする? なりたい?」
「わかんないよ」
彼はそう言ってしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとこう続けた。
「サタワルにはまだポーになってない叔父や年上のいとこたちが沢山いる。彼らを飛び越えて俺がポーになるのは、良くないだろうな」
いかにもミヤーノらしい、伝統的な立場を重んずる台詞である。
このポーがどれぐらい偉いのか。
実は、いろいろな見方があるのだが、私が初めてその「偉さ」を感じたのは、2004年。
私が初めてカヌーに乗った時のことだった。
そのお話はまた次回。
ミヤーノがポーになる日はいつなのだろう。[Photo by Aylie baker]
*本連載は月2回(第1&第3週火曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!
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林和代(はやし かずよ) 1963年、東京生まれ。ライター。アジアと太平洋の南の島を主なテリトリーとして執筆。この10年は、ミクロネシアの伝統航海カヌーを追いかけている。著書に『1日1000円で遊べる南の島』(双葉社)。 |