越えて国境、迷ってアジア
#71
ウズベキスタン・ヒヴァ
文と写真・室橋裕和
砂漠が広がるウズベキスタン南部のオアシス都市。そこにはシルクロードの交易がさかんだった時代の空気が閉じ込められていた。中世の街をそっくりそのまま保存し、いまもそこで人が暮らしている。ここがウズベキスタン最大の見どころかもしれない。
砂漠の国境越えに挑みたかったが……
「あの向こうがトルクメニスタン……」
そう思うと震えた。
視界いっぱいに広がるこの荒野のどこかに、きっと国境線が引かれているのだ。そこを越えると、また知らない国になる。しかし、イミグレーションらしき施設も、なにも見当たらない。360度、茶褐色の大地である。荒地にぽつりぽつりと、村が散らばっている。
手もとのスマホを見れば、僕は確かにウズベキスタンとトルクメニスタンの国境間近にまで迫っていた。目立たないがどこかにイミグレーションもあるのだろう。外国人も通行できる国際国境と聞いている。
しかし、残念ながら今回の旅では、越境は叶わぬ夢であった。旅人としては恥ずべきことなのだが、仕事なんてくだらないものが待っている。あまり時間がなかった。
中央アジア諸国はビザの簡略化や撤廃が進み、この数年でずいぶんと旅しやすくなってきた。そのぶん突破すべき関門がなくなってしまったわけで、寂しさや歯ごたえのなさもまた感じてしまうのだが、そんな中にあってトルクメニスタンはいまだ面倒なビザ制度を保持し、旅人のチャレンジ心を煽ってくれる。観光ビザがややこしいので、トランジットビザ(その国を通過して第3国へ抜けるためのビザ)を取得して旅するしかない、というのもシブい。ビザ申請地点や、タイミングによって発給までの日数がまちまちだったりして、しかも1週間だの10日だのかかるというのもガッツをかきたてられる。
とはいえ日程が読めず現地で長期の足止めをくらうとあっては、いちおう社会人の端くれである僕にはちょっと難しかった。そこで涙を飲んで、せめてトルクメニスタンを見渡せる場所にとやってきたのである。前回(#70)、アラル海を訪れてヌクスの街に帰る道すがら、チャーターした車の運転手にリクエストしたら、この丘に連れてきてくれたというわけだ。
ミズダル・ハーン遺跡というらしい。14~16世紀にかけて中央アジアをシメたティムール朝によって制圧された街の残骸が、斜面に続く。霊廟やら墓地やらが打ち捨てられていて、冷たい砂漠の風に吹かれ、なんだか呪われそうな丘であった。
ミズダル・ハーン遺跡からトルクメニスタンが広がる方向を望む。運転手の背中が煤けている
中世にタイムスリップした
ヌクスに戻って、今度は一転、東に向かう。乗り合いのロシア製おんぼろタクシーにもぐりこみ、トルクメニスタン国境に沿ってひた走る。
行けども行けども砂礫と土くればかりの荒野であった。あの蜃気楼のあたりはもうトルクメンの大地であろうか、ここもかつてティムール帝が駆けたのであろうかとシルクロードのロマンに思いを馳せるが、それもせいぜい30分。地平線のど真ん中、砂漠を突っ切る直線路のみの単調なドライブは、ほどよい揺りかごであった。
肩を揺すられたときは、もう真っ暗だった。あわててヨダレを拭い、夢うつつのまま車を降りる。日が落ちて一気に気温が下がり、冷気が足もとからわいてくる。人影のなくなった旧市街は静まり返っていた。
石畳の街路が伸びている。やはり石づくりの重厚な門をくぐる。高い城壁に沿ってレンガの建物が続いていた。円形のドーム屋根のモスクや、青いタイルを壁にちりばめたマドラサ(神学校)を左右に、歩いていく。石の迷路だった。まだ半分ばかり眠っていることもあってか、数百年ばかり過去にタイムスリップしたような気分だった。ラノベの異世界に入り込んでダンジョンを探検しているのではないかとさえ思った。まわりの街並みすべてが中世なんである。そして無人だった。
だから旧市街を右に左に進んで角を曲がった途端、いきなり老婆に鉢合わせたときには少女のような悲鳴を上げてしまった。腰が抜けて、へたりこみそうになる。婆さんはヨーダのような顔をして、乳母車を押していた。こんな夜更けに、誰も歩いていない石の街で、いったいなにをしているのか。物の怪ではないのか。
こちらの不安を見透かすように、老婆はにやりと笑った。そして乳母車にかけてある毛布を、そろりそろりとめくるのだ。中に入っているのは絶対に赤ん坊ではないだろう。いやな予感がした。だが、足は凍りついたように動かない。
ぱっ、と毛布が取り払われた。
とたんに香ばしい芳香で街路が包まれた。温かそうな湯気が立つ。腹が鳴った。乳母車には、ほかほかのパンがいくつも積まれていたのだ。焼きたてのようだった。ラウンドケーキのように大きくて丸い。婆さんが自慢げに両手を広げる。流れされるままに、ひとつ買ってしまった。
ヌクスからトルクメニスタン国境沿いに荒野を走る。トイレ休憩では地平線に目標を定める
到着した街は中世そのままのたたずまいだった。ここは遺跡でもあり、人が生き、暮らしている現役の街でもある
こちらは昼間のパン&雑貨売り婆さん。乳母車がトレードマークだ
生きている遺跡都市をめぐる
〝博物館都市〟
ここヒヴァの旧市街はそう呼ばれているそうな。街が形成されたのは紀元1世紀にさかのぼるという。大きく発展したのは16世紀で、東西シルクロードの隊商都市、オアシスとしてさかえた。池袋の古代オリエント博物館にたびたび足を運んでしまうマニアとしてはたまらない。
以降ヒヴァはさまざまな王朝の支配下に入り、ときに破壊され、また再興し、歴史を重ねてきた。いま僕を取り囲んでいる石づくりの街並みは、17~18世紀に建設されたものらしい。だがあちこちに、あのモスクの柱は10世紀のものだとか、そこの霊廟は14世紀からそのまんまだとか、貴重なブツが入り混じっているのである。巨大な宝箱なんである。
この旧市街はもちろん世界遺産であって、昼間は観光客が行き交うわけだが、街としてしっかり機能しているところにもソソられた。土壁に囲まれた古びた民家が、250ほどもあるのだという。よく見ればテレビのアンテナが突き出ていたりするし、中に入ってみると現代的でネットだって使えるのだが、見た目はシルクロードのたたずまいをちゃあんと残しているのである。路地に入れば、はためく洗濯物、買い物籠をぶら下げたおばちゃん、サッカーボールを追う子供たち、それにパン売りの婆さん……太古から続く生活の匂いがあった。
旧市街に点在するホテルやレストランも昔の建造物をそのまま利用していて、いちいちインスタ映えするのである。
徹底して往時の姿を保存する。ヒヴァの街並みは観光需要という枠を越えていた。これほどトリップ感を体験できる場所もなかなかないかもしれない。
観光地なので土産物屋も並ぶが、住民のための商店もたくさん。数百年前とあまり変わっていない景色かもしれない
高さおよそ50メートル。ミナレット(尖塔)のてっぺんから見下ろすヒヴァ旧市街
*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」
*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!
*好評発売中!
発行:双葉社 定価:本体1600円+税
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室橋裕和(むろはし ひろかず) 週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。現地発の日本語雑誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを担当、アジア諸国を取材する日々を過ごす。現在は拠点を東京に戻し、アジア専門のライター・編集者として活動中。改訂を重ねて刊行を続けている究極の個人旅行ガイド『バックパッカーズ読本』にはシリーズ第一弾から参加。 |