越えて国境、迷ってアジア
#06
韓国・釜山~日本・対馬
文と写真・室橋裕和
韓国から日本へ、船で渡る。陸の国境はないが、日本でも海路の国境越えはできるのだ。釜山からわずか1時間、長崎・対馬には、両国の友好と対立とが交じり合っていた。まさに国境の島だった。
釜山発対馬行きジェットフェリー「シーフラワー」
初夏の釜山で、ぽっかりと時間ができてしまったのだ。
連れのカメラマンと一緒に、どこに行こうかと考えたとき、玄界灘を挟んだ先にある島が思いついた。長崎県の対馬である。釜山と対馬の間にはフェリーが就航しており、わずか1時間で日本に渡ることができる。 日本にも、国境はある。我々は対馬行きジェットフェリー「シーフラワー」に乗り込んだ。
旅は釜山港からはじまる。近くには有名なチャガルチ市場があり、海鮮が絶品
実のところ、僕にとっては5年ぶりの日本帰国だった。
週刊誌での激務に疲れ果ててタイに逃亡した僕は、首都バンコクで日本語情報誌を制作するという仕事にありついた。観光客や出張者を含めれば常時10万人の日本人が滞在しているというタイでは、「在住日本人向けメディア」という商売が成り立つのだ。
ところが、給料は安い上に平気で遅配するし、取材費も渋るブラック企業であったのだ。社長は雑誌の儲けをなにやら怪しげなビジネスに投じ、我々に還元されることはほとんどなかった。「ワーパミ(労働許可証。ワークパーミット)を取ってやるだけありがたいと思え」と嘯く先輩もいた。
それでもタイを中心にアジア各国をカメラマンやライターたちと旅して回り、取材して記事を書くという仕事はなかなかに楽しかった。そんな日々を忙しく過ごしていたことと、薄給に加えて重度のケチであるため日本に帰国するのは金が惜しく、5年間も躊躇していたのである。
そこにきての韓国取材というタイミング。ちょうどいいと思った。長年、海外に暮らし続けるというのは、どこか潜水に似ている。どれだけ深く、長く潜れるようになれても、必ず息継ぎは必要だ。そろそろ母国の空気を吸おうと思った。
釜山の国際フェリーターミナル内。九州各地への船が発着している(写真は取材当時。2015年8月に新しい釜山港国際旅客ターミナルがオープンしている)
いまでは3社が釜山~対馬間に航路を持っている
小雨の降るなか、釜山の国際フェリーターミナルに行ってみれば、乗客のすべてが韓国人のようだった。船全体が免税ゾーンとなっているようで、日本のビールがずいぶんと安い。
ヨッコラショと席についてみれば、座席の背もたれカバーには「独島は我が領土」というプロパガンダが……。全座席にズラーッと韓国旗の翻る島の写真が並ぶ光景に面食らう。がぜん「国境感」が昂ぶる。ここは領土紛争を抱えた海でもあるのだ。
とはいえ我が日本と韓国はいちおう友好国であり、このフェリーは両国を結ぶ国際航路だ。そこにいきなりの「ドクトはウリナラ」である。政治的主張をしたい気落ちはわからなくもないが、お互いの玄関口なのだから、タテマエだけでもフレンドリーにしたほうがいいと思うのだ。これほどにウェルカムではない国境越えははじめてのことである。
「サンフラワー号」内には免税店も併設されている
パスポートに日本の出国スタンプがない、怪しい日本人!?
雨はいつの間には土砂降りになっていた。フェリーは1時間と少しで、対馬北部にある比田勝の港に入った。風雨で煙っているからか、実感が薄い。あれが日本なのだろうか。
小さな港に接岸すると、目の前のささやかなプレハブはイミグレーションだった。アジアの辺境のイミグレのようである。しかし港の端にはアジアの生活ではほとんど目にしない自動販売機が並び、てきぱきとした係員が乗客を誘導している。
イミグレーションの係官にパスポートを示すと、ギョッとした顔で僕を見上げる。
「に、日本人ですか?」
「えっ……はあ、そうですけど」
不審な顔をする。
「日本の出国スタンプがない」
「ああ、バンコクでパスポートの期限を迎えたので、新しくしたんです」
怪しい国のハンコで埋まった我がパスポートを、いかにもウサン臭げにペラペラめくっていたが、やがてシブシブといった様子で入国スタンプは押された。
カメラマンとふたり、イミグレの建屋を出る。とりあえずは雨宿りでもするべえかと話していると「ちょっとキミたち!」次に立ちふさがったのは長崎県警のお巡りさんだった。
「この船で入ってきたんだって?」
「はい。それがなにか……」
「日本人?」
「ええ」
「なにしに来たの。どうしてこの航路で来たわけ?」
そう問われても返答のしようがない。たまたま取材先に手近な国境越えポイントがあったので、そこを利用して帰国しただけなんである。「しいて言えば観光ですかね」
ムムッという顔で巡査はさらに詰問してきた。
「ちょっと話聞かせてもらうよ。現住所」
「えー、タイ国バンコク都プラカノン区……」
「はあっ!?」
「ああ、僕たちタイに住んでるんです」
「?」
「ちょっと仕事で釜山に来たもんで、ついでに対馬に行ってみるかって」
「????」
意味不明、そう巡査の目は言っていた。タイで日本人が労働していること。そいつらが韓国に出張すること。さらにそのついでに、海峡を越えて対馬に遊びに来ること……我々は悲しいかな日本社会からはぐれたアウトサイダーなのだった。
話せば長くなりますが、と、我々の仕事であるとかタイ在住のいきさつであるとか、あれこれ解説するうちに巡査氏も納得したのか、職務質問は終わった。
「いやあ悪かったねえ。この船に乗ってるのはフツウ、ぜ~んぶ韓国人なんだよ。その中に日本人が混じってるし、おまけにタイ在住なんていうから、警戒しちゃったよ」
大方「北」の関係者とでも疑われたのだろう。解放はされたが、キッチリと身分照会をされて、危険人物ではないと判定されてから、自由の身となった。カメラマンもカメラバッグのすみずみまで荷物検査を受けた。久々の母国帰還を、厳重な職務質問が待ち受けているとは思いもよらなかった。
比田勝の港&イミグレーション。日本でもいちばん小さい出入国オフィス?
韓国人観光客で賑わう国境の島
対馬でまず感動したのは、イミグレの建物のなかにあった食堂の安っぽいカレーライスだった。日本のテレビが懐かしい。そこらに積まれたスポーツ新聞と週刊誌、割烹着を着たおばちゃん、日本語の通じる人々。5年ぶりに触れる日本円は、子供銀行の券のように見えた。帰ってきたんだ、と思った。
比田勝から、対馬の中心都市である厳原へ向かう。リアス式海岸のダイナミックな眺望が印象的な、美しい島だった。厳原に着いてみれば、失礼ながら辺境であるのに、インフラはキッチリ整い、コンビニや大型スーパーもあって、店員の接客はとってもスピーディー。旅館の女将さんはホスピタリティーたっぷりと、知性と高い民度を感じる。「日本はすげえなあ」と東南アジアからやってきたカッペは圧倒されてしまうのであった。
対馬では小さな入り江にささやかな港をよく見る
厳原の街を観光して歩いているのは、韓国人ばかりだった。日本人は我々だけだったかもしれない。「韓国から最も近い外国」としていまや対馬は人気を集め、年間20~30万人の韓国人観光客が訪れる。島の人口がおよそ4万人だから、これはたいへんな数だ。
経済効果も高いが、一方でマナーの悪さや、韓国資本による対馬の開発を問題視する日本人もいる。
それも「国境の島」だからだ。ふたつの文化が接する場所では、交流も、諍いも起きる。そこをどう折り合い、うまくつきあっていくか。隣人だからこそいがみ合いもするし、反対に理解できることも多いと思うのだ。
対馬の歴史は、韓国との交流の歴史でもある。朝鮮半島と日本を結ぶ海上交通の要衝として栄えてきたのだ。古来から、ときに友好、ときに交易、そしてあるときは戦いと、日本と朝鮮とのさまざまな形での「コミュニケーション」の舞台となってきた。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、対馬は前線基地となった。また1950~60年代には韓国側との貿易が最盛を迎え、ともに繁栄したこともあった。
現代では、対馬アリラン祭など両国の交流イベントがいくつも開催され、まさに国境の島といった様子だ。
文化が混交する国境の地。だからこその友好と対立とが、対馬にはある。「日本に国境はない」というが、実際はそうではない。人種と文化のミックス地点という意味であれば、確かに国境は存在するのだ。
神社の絵馬にもハングルが。対馬は韓国人に大人気の観光地になった
食文化も日韓折衷? 厳原の中心部にて
*国境の場所は、こちらの地図→「越えて国境、迷ってアジア」をご参照ください。
*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!
![]() |
室橋裕和(むろはし ひろかず) 週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。現地発の日本語雑誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを担当、アジア諸国を取材する日々を過ごす。現在は拠点を東京に戻し、アジア専門のライター・編集者として活動中。改訂を重ねて刊行を続けている究極の個人旅行ガイド『バックパッカーズ読本』にはシリーズ第一弾から参加。 |