ブルー・ジャーニー
#65
バリゴッティ あの角の向こうへ〈1〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
気持ちがふわふわと
角を曲がると、突き当たりはたいてい海。
道が終わるという意味では袋小路なのだけれど、はてしてない広がりへの入り口でもある。
角から角へ渡り歩いているうちに、東西南北が頭から消え、海と自分の関係がすべてになる。
ツェルマットやグリンデルワルトのような、ヨーロッパアルプスの麓の街を歩いていると、曲がり角の向こうや、屋根の上にいつも絶対的な自然が見える。
似ているな。最初はそう思ったけれど、ちがう。山は動かないが、海は変わりつづける。
角の向こうの、さっきとはちがう海に出会うたびに、平衡感覚がこぼれ落ちて、気持ちがふわふわとしてくる。
朝の水晶のような陽の光が、木々の葉の間をくぐり抜け、ふたたび出会い、交差し、くだけ、乱反射し、きらきらとあたり一面を満たしている。
足の裏から伝わってくる石畳の感触に、まだ覚めきっていない体がやさしく揺さぶられる。
次の角の向こうにも、かならず海が広がっている。
突然、おそろしいほど幸せな気分に包まれる。
ただぶらぶら歩きたいだけなのに、ついどこかに向かうような足取りになってしまう。
もっと、ゆっくり。
花柄のワンピースを着た、手足が細く、長く、青いレモンのような女の子とすれちがう。
「パレ・ガルニエ(旧オペラ座)の近くの路地をぶらぶら歩くんだ」。パブロ・ピカソの友人ひとりが、ある時、ピカソに言った。「そして目が合った最初の女性に話しかけろ」
ピカソは友人の助言にしたがい、二番目の妻となる、美しく、独創的なフェルナンド・オリビエと出会った。
視界の隅をカモメが横切る。
ワンピースのすそが角の向こうに消えていく。
ミラノから高速道路に乗り、約150キロ南下。リグーリア海に突き当たったら右折。リグーリア海岸に沿ってフランス方面へ50キロ余り。合わせて3時間ほどのドライブでバリゴッティ(イタリア・サボナ県)に着く。
リグーリア海は地中海の一部で、イタリア半島とコルシカ島に囲まれた海域。南フランスのニースにつづくリグーリア海岸は“リヴィエラ”と呼ばれる。リヴィエラの語源は、イタリア語で「海岸」「湖岸」を指す“riviera”。
バリゴッティの歴史は古く、村の東のサン・ロレンツォ教会では、紀元3世紀から7世紀にかけてのものと見られる墓や陶器のかけらが出土している。
イタリア人のカメラマン、ステファノからマヌエラを紹介されたのは、ここバリゴッティのアラベスクというホテルのレストランだった。もう20年以上前のことになる。
サボナ出身のマヌエラは、そのころまだ10代だった。亜麻色の髪はくりくりとカールしていて、手足がひょろりと長く、恥ずかしがり屋で、ワンピースが似合うとてもすてきな女の子だった。
後日、撮影で家を空けるステファノからダルメシアンを預かるためにやってきたときも同じように細くて、恥ずかしがり屋で、ワンピースが似合う女性だった。サボナは繊細な甘さを持つオリーブの名産地として知られているが、母親がつくるオリーブの実の塩漬けはすばらしくおいしくて、ステファノの家の台所にはいつも塩漬けがバケツに山盛りになっていた。
カナリア編で触れたように、毎年のようにステファノとあちこちに出かけ、仕事をした。会うたびにマヌエラは心を開いてくれるようになったが、ふたりの心は離れていった。
ある晩、ミラノの家で、ステファノが言った。
「すごくいい子で、大好きだけど、でも、女性を感じなくなってしまったんだ」
ほどなくしてふたりは別れた。ステファノはファッションブランド“GAS ”の広報部に勤務する2児の母親アンナと付き合い、つぎに精神科医で1児の母親カルメンとカナリア諸島のフェルテベントゥーラ島で暮らすようになった。
道を隔ててミラノのドゥオーモの前にあるケーブルテレビの会社で働いていたマヌエラは、その会社をやめ、ステファノのアシスタントになった。
南チロルの古城に登山家ラインホルト・メスナーの古城を訪ねたときのことだった。
早足で坂道を上っていったステファノのせっかちな声が響いた。「マヌー、早く!」
レンズとカメラがぎっしり詰まったバック、三脚、レフ板は、どうみてもマヌエラの華奢な体には重すぎた。
「持とうか」
そう言うと、マヌエラは笑顔で答えた。
「だいじょうぶ、これはわたしの仕事だから」
仕事だからではないことがわかっていたから、胸が痛かった。
海と山にはさまれて、細長く延びるバリゴッティ。
九十九折りの坂の途中にぽつんと建つレストランに入る。
「大好きな店なの」
くりくりの亜麻色の髪の下に、変わらず無邪気な笑顔が広がる。
ステファノと同じ夢を見ることができないとわかったマヌエラは結婚し、双子の男の子を生んだ。
「もう本当に大変だったわ」
サボナの郷土料理がテーブルに並べられ、ようやくおとなしくなったダビデとフィリッポをやさしく見つめながら、つづける。
「目を離すとすぐどこかに行っちゃうの。それもばらばらの方向に。最近は、少し言うことを聞いてくれるようになったけれど」
すっかり母親らしくなったマヌエラに聞く。
「ステファノはどうしている?」
「フチンチスカはトスカーナの家に帰ったわ」
別れたあともマヌエラはなにかにつけ、ステファノの相談相手になっていた。フランチスカはカルメンのつぎの彼女で、料理が上手でしっかりものの女性だった。
「ステファノがあまりに自由すぎるから、がまんができなくなったの」
エスプレッソを飲み終えたマヌエラに聞く。
「いま、幸せ?」
少し間を置いてマヌエラは言った。
「わからない」
「ここはわたしの故郷だから」
そう言うとマヌエラは店の女性に向かって手を上げた。
「お財布忘れて来ちゃったの。あとで払いに来るけど、いい?」
「全然問題ないわよ」
テーブルにやってきた女性は笑顔で答え、それから早口でなにかつけ加えた
マヌエラはうなずき、振り返って言った。
「入り口のボードに、なにか日本語を書いてほしいって」
(次回へ続く)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |