ブルー・ジャーニー
#10
ロフォーテン諸島 鯨撃ちとオーロラ〈4〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
ラストナイト
ドアを開けると、大楠から彫りだしたかのような体躯が、待ちかねたように立っていた。
右手を差し出すと、七八歳にふさわしくない力でぐいぐいと握りしめられる。握り返そうとするのだが、まるで力が入らない。
ノルウェーの北極圏、約二〇〇キロ沖合に、突然のようにすがたを現し、連なる白い壁。北欧神話において、死んだ戦士を天上の宮殿へと導く乙女ワルキューレの住み処だとされているロフォーテン諸島、そのさいごの夜。
クジラを撃つ銛の、精巧な金属製の模型が飾り棚に置かれている。
「ひとつつくるのに三日から一週間ぐらいかかるんだ」と、レイコさんのご主人。
一九二一年(大正一〇年)に出版されたノルウェーの作家ヨハン・ボーエルの青春小説『ヴァイキングの末裔』は、ワルキューレの住み処を、こう描写した。
『そこは北極海に浮かぶ新天地。本土沿岸の若者たちがみな、いつかは訪れたいと願い、武勇伝が生まれ、財産が築かれる場所だ。この地から出た漁師たちは、死神と速さを競うかのように高々と帆を揚げて海に乗り出す』
世界有数の捕鯨基地、ロフォーテン諸島。一九五八年(昭和三三年)には一九二隻が出漁、ミンク鯨の捕獲高は四七四一頭を数えた。
父親から銛を受け継いだご主人だったが、一九八六年(昭和61年)、国際捕鯨委員会(IWC)が商業捕鯨を全面凍結したために失職。漁師の多くは銛を竿や網に持ちかえたが、ご主人は鱈漁や鮭漁への転向を拒否。鯨の観光ガイドなどで生計を立てていた一九八八年(昭和六三年)のある晩、だれもいないはずの船から火の手が上がり、またたくまに燃え広がった。一目でそれとわかるラインが引かれた鯨漁用の船をねらった自然保護団体による放火が相次いでいた――ノルウェー本土で三三隻、ロフォーテンで一七隻――さなかのできごとだった。
一九九三年(平成五年)、ノルウェーはIWCの決議に異議申し立てを行い、商業捕鯨の再開を宣言したが、持ち船が古い木造船だったために保険の掛け金が高く、保険に入っていなかったご主人は、鯨撃ちにもどることができなかった。
一九五八年(昭和三三年)をピークに捕鯨は減少の一途をたどり、現在、ノルウェー北部の近海に集まる捕鯨船は二〇隻余り。ノルウェー政府はミンク鯨の捕獲枠を年間一二八六頭に設定しているが、二〇一一年の捕獲数は五三三頭に終わった。
鯨が減ったからではなく――北大西洋のミンク鯨の推定生息数は一三万頭、ノルウェーの捕鯨は十分に持続可能だと考えられている――過激な自然保護活動家に妨害されたからではなく、捕鯨が政治の駆け引きに巻きこまれたからでもなかった。島の若者たちが、安全な仕事と確実な収入を求めて、都会や沖合の油田へと出て行ったからだった。
ロフォーテンさいごの晩餐は、鯨の刺身、一分半から二分焼いた厚さ一・五センチ~二センチの鯨を、ブラウンソースで煮こんだシチュー、そしてマッシュドポテトの付け合わせ。
「大きな固まりを一時間ぐらいローストしたものもおいしいんですよ。それにしても……」シチューを取り分けながらレイコさんが言う。「二〇年前にくらべて、すっかり高くなってしまいました」
「捕獲数か減ったために?」
「ええ」
「ロフォーテンでもっとも一般的なのは、なんの肉ですか?」
「いちばん安いのはラムの肉です」
刺身を指して、ご主人が言う。
「これは若いミンククジラだな」
「どうしてわかるんですか?」
「赤くて柔らかいからさ。歳をとると黒くなる。人間だってそうだろう? ノルウェーじゃ、歳を取ったら二で割れって言うんだよ。四〇歳がふたりより、二〇歳がふたりのほうがいいじゃないか」
きっと何度も聞かされてきただろう冗談を、おだやかな笑顔で受けとめながら、レイコさんがキッチンに立つ。
「レイコはほんとうにすばらしい女性だ」ご主人は海のように青い目を細め、つづけた。「じつは出会ったとき、一五歳若く申告したんだ」
「?」
「ほんとうの歳を言ったら結婚してもらえないと思ったんだよ」
誘われて地下室に下りる。
「ケンカをしたときは、レイコの機嫌が直るまで、ここに避難するんだ」
旋盤をはじめ、さまざまな工具がすき間なく、ならべられている。
「壁にかかっているのは?」
「マールメレン。魚を呼び寄せてくれる幸運の妖精だ」ひと呼吸置いて「いま持っている船は小さくて、魚釣りがせいぜい。鯨を追うことはできないんだ」
無線機のスイッチを入れると、用件を手短に伝えるとき独特の、歯切れ良く、リズミカルな口調がスピーカーから流れる。
「これで鯨撃ちの仲間と交信しているんだ。許可を受けていないから、いけないことなんだけどね」
片隅に捕鯨砲が置かれている。
「そのヒモを引っ張ってごらん」
「これですか?」
「そう」
根本からぶらさがっている白い紐を引く。
ドカン!
空砲の破裂音にすっかり驚いてしまった顔を見て、ご主人が子どものように喜ぶ。
となりの部屋移ると、壁際にドイツ兵が置いていった三丁の拳銃と一〇丁余りのライフル。
スミス&ウェッソンを手に取ったご主人は、手際よく実弾を装填し、フィヨルドに面したベランダへ出る。
星空に銃口を向け、引き金を引く。
バン! バン! バン!
「警察が来ますよ」とレイコさん。
「おれがやったって言うさ」
どこまでもおだやかな笑顔を浮かべながら「しょうがないひとねぇ」
別れ際に聞く。
「鯨はあなたにとってどういう存在ですか?」
「商売に走りすぎて乱獲してはいけない、それから……」深刻な顔で切り出した主人は、ふいに話しを切ると、天井を見上げながら照れたように言った。「好きなんだよ、鯨を獲るのが」
差し出された右手を思いきり握りしめると、ご主人の顔がくしゃくしゃにほころび、潮に洗われた言葉がこぼれ落ちた。
「フレンド」
フロントガラスの向こうの漆黒に、かすかな、だけどたしかな予感をはらんだひと筋の光が浮かぶ。
急いで脇道にそれ、小高い丘を登り詰めたところで車を止める。
揺れ、広がり、光はつよさを増していく。圧倒的だけれど淡く、どこまでも不規則で、一瞬として立ち止まることがない。
凍りついた地面に寝ころぶ。
山間から燃え上がった白い炎は、カーテンのように揺れ、走り、分かれ、寄り添い、漆黒と興奮を残して、口の中の綿菓子のように消えていった。
(ロフォーテン諸島・終)
*ロフォーテン諸島の観光情報は、ノルウェー政府観光局WEBサイト↓をご覧下さい。
http://www.visitscandinavia.org/ja/Japan/Norway/Lofoten/
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |