ブルー・ジャーニー
#95
アルゼンチン はるかなる国〈14〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
「べつの幻の街を歩いているような」
──緩慢な失明が、すでに子どものころから、わたしに忍び寄っていた。それは暮れなずむ夏の夕べの薄明かりのようなものだった。
曾祖父、父親、母方の祖母と同じように、早くから視力の低下が始まったボルヘス。1927年、28歳のときを皮切りに8回手術を重ねたが、57歳になると「読んだり書いたりするためには盲目同然」となり、作品づくりはボルヘスの言葉を母親レオノールが書きとめ、進められるようになった。
その名前が世界に知られ、講演や講義でさまざまな国をめぐるようになったのは視力を失ってからだった。
初来日は1979年11月、80歳。「茫漠とした光や影かかすかに見えるだけ」で黄色以外は識別できなかった。
「いちばん遠い場所だと思われるところはどこでしょうか?」
詩人で劇作家の寺山修司の質問にボルヘスは答えた。
「わたしがある場所のことを考えると、その場所は遠いところではなくなります。わたしがある場所の名前を言うと、その場所の間近にいることになります。ですから、いまの質問にはお答えできません」
「タンゴというのはブエノスアイレスの下町、売春街だとか、ならず者の音楽です」
やはり来日時、ボルヘスは言った。
「1900年頃、タンゴの発生した昔は、人間というものをふた通りに考え、価値づけたわけです……このひとは勇気がある、このひとは勇気がない。そのように分けた傾向があり、それが私の父親、祖父の時代だったのです。そういう区分けをした理由は、たぶん使う武器も刃物が多かったということがあると思います。飛び道具がなかったですからね。そういう判断のしかたもいまではほとんどなくなってしまった。というのは、鉄砲ができたために、もうナイフで闘うなんていうことはなくなったからです。そこで、あのひとは臆病者だとか、あのひとは勇気があるとかということは言えなくなってしまったわけですね」
はじまりは1600年代初頭、アフリカから「輸入した」黒人とともにやってきた王の行進を彩る音楽と踊り、カンドンベだったという点で多くの考察は一致している。
テンポの早い太鼓、タンバリン、ギター。そこにキューバのダンス音楽、ハバネラが、やはりキューバの──男女が体を密着させ、急に止まって崩れ落ちる──ダンス、ラ・ダンサが、ヨーロッパからやってきたさまざまな音楽が、港町の場末のむせかえるほど濃密なムーファ=憂鬱のなかで解け合い、タンゴは生まれた。
相手をしてくれる娼婦がいないときは男同士で踊った。ふつうの女性は、尾てい骨のあたりを押さえられ、“寝室でしか見られないような姿”で踊ることをいやがった。酒場が混み合っているときは街角がステージになった。当時、酒場の多くは街角に店を構え、外壁は赤く塗られていた。
初期のタンゴには歌詞はなかった。あったとしてもガウチョの即興詩の断片や裏社会で使われていた隠語、ルンファルドが混じり合った間に合わせの卑猥なものだった。
やがて歌詞らしいものが生まれたが、ほとんどは記録されず、忘れ去られた。
〈わたしは誇り高いアルゼンチンのガウチョに/仕える貞淑な女〉
〈おれはタンゴの名手/ダンスでみごとなポーズをとれば/噂はたちまち北に伝わる/南にいればの話だが〉
〈やがておまえは/老いぼれ薬剤師の色女/だがポリ公の小せがれに/有り金全部をまきあげられた〉
タンゴを大きく変えたのはドイツからやってきた蛇腹楽器、バンドネオンだった。扱いがむずかしく、早いテンポの演奏に不向きだったこの楽器は、音色と相まって、タンゴをメランコリックで哀愁を帯びたものに変えた。
〈悲しみに狂って いまおまえを思い出している/わかるよ/おまえは/世間からはのけ者にされているおれに貢いでくれる/いい女だった──『五分と五分、貸し借りは無い』〉
〈よく見てくれよ 部屋が寂れていくのを/クッションのないベッドが威張っている/見ろよ この哀れな男がどんなに落ちぶれたかを──『古いタキシード』〉
〈おれの人生が 一番うまくいっていたときに/おまえはおれを捨てたなあ/おれを傷つけ こころにトゲを残して――『わが悲しみの夜』〉
著書『英雄たちと墓』にブエノスアイレスを歩くボルヘスを登場させたエルネスト・サバトは、タンゴを「文学の場末」と呼び、言った。「まぎれもなく悲観論者の割合はアルゼンチン、特にブエノスアイレスが抜きんでている、そのわけはタンゴがタランテラやポルカ、あるいはその他どの踊りよりもいっそう悲しいものであるその理由と同じだ」
(※第2次世界大戦中、空爆でバンドネオン工場が消失し、製造技術も飛散。音質を大きく左右する金属のパーツの製造方法をいまなお再現することができずにいる。大戦前につくられ、現存するバンドネオンは約5万台。演奏者はそれらを修理しながらつかっている)
「視力が一段と衰え、ほとんど目が見えなくなったボルヘスとともにブエノスアイレスを歩き、話を聞いていると、べつの幻の街を歩いているような錯覚にとらわれた」
ボルヘスの真の伝記を書くことを期待されながら、ボルヘスより2年早く他界したウルグアイの作家、ロドリゲス=モネガル。ふたりは連れだってブエノスアイレスの街を何度も散策した。
「あちらこちらの壁に貼られたペロンやエビータの扇情的なポスターに過剰なまでの憎悪を露わにしながら、苛立たしげに歩いていたボルヘスは、古い家並みやひっそりした中庭の残る南部地区にさしかかると、ようやく落ち着きをとりもどした。そして立ち寄ったカフェで古典タンゴの調べが流れてきたときは、笑みさえ浮かべて、短くて分厚い指でテーブルをとんとん叩いて調子を取り始めた」
ボルヘスがブエノスアイレスの北西約230キロの街に住む親戚を訪ねたのは10歳のときだった。
「もよりの家が地平線上にぼんやりとかすんでいた」
はてしない広がりがパンパと呼ばれているものであることを知り、幅広でだぶだぶのズボンをはき、農場で働いているひとたちが、小説のなかで魅力的に描かれているガウチョであることを知った。
ある朝、馬に乗って家畜を川に連れて行くガウチョについていき、聞いた。
「(そのかっこうで)泳げるの?」
ガウチョは答えた。
「水というものは家畜のためにあるものだ」
それから5年後、視力が衰え、契約書を読めなくなった父親が弁護士を廃業。一家はヨーロッパに渡り、前後してブエノスアイレスに空前の好景気が訪れた。
ジュネーブ、チューリッヒ、ニース、コルドバ、リスボンで生活し、7年後、22歳で帰国すると、ブエノスアイレスは「平屋根の低い建物が、地理学者や文学者がパンパと呼ぶ大草原の西方にどこまでも伸びる大都市」になっていた。
ボルヘスはかつてナイフがきらめいていた場末の下町を脳裏に築き上げ、石畳の道をさまよい歩き、ひとつの確信を手にした。
──ブエノスアイレスのたそがれ時とその夜を体験したものでなければ、タンゴは作曲できないにちがいない。
(引用参考文献:ユリイカ第21巻3号、TANGUEANDO EN JAPON)
(つづく)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |