ブルー・ジャーニー
#79
オーストリア 緑のスキー王国〈6〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
大金を得るためでも、有名になるためでもなく
午後4時過ぎ、ケルンテン州の村、バド・クラインキルヒハイムに到着。フランツ・ラウターの家に向かう。前回、話を聞いたのは14年前で、場所はやはり自宅だった。
100年前、オーストリアはヨーロッパでもっとも由緒ある王家を抱く君主国だった。隠然たる大国だったが、第1次世界大戦で領土の半分を失い、小さな共和国に。その後、とびきり尖鋭な社会国家を経て、ナチス・ドイツに「合併」され、国家そのものが消失。第2次大戦終結後、国連軍の駐留下に置かれたのち、独立。同時に永世中立国となり、現在に至っている。
ケルンテンはオーストリアのもっとも南に位置し、イタリアとユーゴスラヴィアに接する州。湖が多く、気候は温暖で、住人たちの気質も陽気。国全体が観光地のオーストリアにあって、とりわけ多くの人が訪れるところだ。
玄関のドアが開き、初孫のアンナを抱いたフランツが登場。
「オジイチャン」と言うと、いつものようにはじけるように笑った。
夫人のドロテアとのあいだに2女。アンナはフランツの家に近くに引っ越してきた長女パトリシアの子どもで、次女のテレサはアートデザイナーをめざしてドイツで勉強中。
1973年、フランツ・ラウターが初めて来日。それから2年後、ぼくはスキーを始めた。
フランツは速くて、強くて、うまくて、なによりかっこよかった。ウェーデルン――このころはショートターンではなくウェーデルンだった――のマキシマムで息を吐き出すときの口の開け方、グリップの上に親指を乗せるストックの握り方、白いリバティベルのスキー・ジャケット。スキージャーナルという出版社から出ていたフランツの単行本『パワー・スキーイング』とその続編は、ぼくのバイブルだった。雪面に触れそうなほどターンの内側に体が傾いた写真の『もちろん、このときもフランツ・ラウターは転ばなかった』というコピーにしびれ、真似をしてさんざん転んだ。
スキーを始めてから5年後、会社を辞めたぼくは履歴書を持ってスキージャーナルに押しかけ、時給430円のアルバイトにありついた。
同じ年の春、桜が散り始めたころだった。会社があった九段坂上のビルの6人乗りのエレベーターに飛び乗ると、そこに本物のフランツが立っていた。なぜだかわからないが、ぼくはとっさにエレベーターから飛び出そうとして、だけどドアが閉まってしまったので、仕方なくドアの上の経過階数を示すランプを見上げた。ようやく5階に着いて、エレベーターから開放されたぼくは編集長のところに行って小さい声で聞いた。「サインをもらってもいいですか?」。編集長はニッと笑って言った。「バカ」
1947年、フランツは、ここバド・クラインキルヒハイムで生まれ、3歳のときに初めてスキーを履いた。両親や兄弟はスキーをやらなかったが、友だちのだれよりも速かった。
やがて草レースを卒業、州単位で行われている大会に出場するようになると、ダウンヒラー(滑降競技のスペシャリスト)としての資質が一気に開花。14歳までの部で上位に入賞し、つづく18歳までの部でもトップクラスの成績を記録。さらにジュニア選手権でも上位に入り、18歳でナショナルBチーム入り。
それまでバド・クラインキルハイムからナショナルAチームに入ったレーサーは、ひとりしかいなかった。地元の声援を一身に受けたフランツは、翌年、19歳でついにナショナルAチームに駆け上がった。
当時、オーストリアのダウンヒルチームは世界最強で、4人のスーパースターが早いスタート順を独占していた。フランツたち若手レーサーは、たくさんのレーサーが滑ったあとの荒れたコースを滑らなければならず、好タイムを出すことはきわめて困難だった。
ある日のトレーニングのことだった。4人のスーパースターのうちのひとり、カール・シュランツ(※冬季オリンピック札幌大会において、アマチュア規定違反を問われ、ブランデージIOC会長から追放された)を見つけたフランツは、その後ろについた。滑るコースの取り方を学ぶためで、当時はそれがもっともポピュラーな学習方法だった。
気配を感じたシュランツは、滑るのをやめ、振り返って言った。
「あっちへ行け!」
特別なことではなかった。当時のオーストリアチームの日常的な光景だったが、フランツの才能はプレッシャーに押しつぶされるほどひ弱ではなかった。若手のリーダーに成長し、バドガシュタイン(オーストリア)でのレースの公式トレーニングでベストタイムを記録し、世界の頂点に立つことに成功。“シュランツの後継者”と呼ばれるようになり、1968年の冬季オリンピック・グルノーブル大会のメンバー入りを果たした。
冬季オリンピック・グルノーブル大会前にメジェーブ(フランス)で行われたダウンヒル。雪の白と霧の白が10メートル先で解け合い、コースを隠していた。レースが始まると転倒者が続出。オーストリアのスーパースターのひとりでオリンピック金メダリスト、エゴン・ツィンマーマンはヘリコプターで病院に搬送され、引退することになった。
『視界の悪さは気になったが、恐怖心はなかった』
勢いよくコースに身を躍らせたフランツだったが、2本のスキーはゴールラインに届かなかった
『かすかに見えるコースをたどっていくと、突然、コースが急激に落ちこんでいるのが見えた。気がついたときは、もう遅かった。体が反応する時間もなかった。つんのめるように落ちこんでいき、つぎの瞬間、ものすごいショックに突き上げられた。頭に尽き抜けるような痛みをいまでもはっきり覚えている』
診断の結果は最悪だった。両足首の靱帯が完全に切れ、骨に巻きついていた。材質の固い現代のスキーブーツでは起こりえない怪我だった。
オーストリアスキー連盟はいつものように怪我人に冷淡だった。
ナショナルAチームから名前を消された22歳のフランツは、失意の中でオフシーズンを迎えた。
『なにをしていいのかわからなかった』
仕事を探したが、心からやりたいと思えることはなかった。
夏が終わり、冬が近づいてきた。
『初雪を見た瞬間、すべてが解決した。ぼくがほんとうにやりたいのは、滑りつづけることだとわかった。大金を得るためでも、有名になるためでもなく、スキーが好きだから滑る、それがすべてだと』
オーストリアスキーの総本山、ブンデススポーツハイム(国立スキー教師養成所)の門を叩いたフランツは、2年後、国家検定スキー教師の資格にアウスゲツィヒネット(主席)で合格。同年、世界のスキー界でもっとも権威のあるオーストリアスキー教程のモデルとなった。(#76、#77のフランチスカ・クラスニッツァーを指導したのはフランツだった)
そして1973年、ブンデススポーツハイムの総帥、クルッケンハウザー教授の「スキー技術が優れているだけでなく、人間的な魅力と深い理解力を持ったスキーヤー」という最大限の賛辞とともに「想像の世界だった」日本に向かったのだった。
(次回につづく)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |