ブルー・ジャーニー

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#105

アルゼンチン〜チリ はるかなる国々〈24〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「まるで空中に注釈を残すかのように」

 2月18日、ブエノスアイレスを出てから46日目、ゲバラとグラナーダはパブロ・ネルーダの故郷、森と雨のテムコに到着した。

 ひどくパンクしたポデローサⅡ号の修理を終え、ふたりは町中の散策に出かけた。チリの西、3520キロ、太平洋に浮かぶラパ・ヌイ(イースター島)に行くチャンスを見つけるためだった。

 翌日、日刊紙『ジ・アウストル』の第2面にふたりの写真と、つぎの見出しが大きく載せられた。

〈アルゼンチンのハンセン病専門医二人、オートバイで南米の旅〉

〈テムコに滞在中、ラパ・ヌイ訪問を希望〉

 散策の途中、町中で偶然出会った記者によって書かれた記事だった。

 

 ──そこ(※新聞記事)には僕らの厚かましさが凝縮されていた。専門医で、アメリカ大陸のハンセン病の権威で、3000人の患者を治療したことがあり、大変豊かな経験を持ち、南米大陸の重要ないくつかの中心地を熟知しており、そこの衛生状態を調査しているというこの僕らが現在もてなしを受けている。寂れて絵のように小さなこの村を、訪れてくださっているというのだ。(2月18日 ゲバラ記)

 

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 ──歌うのは、昇ったり降りたりするのは、言葉です…… 私は言葉のまえにひざまずく…… 私は言葉を愛し、言葉に執着し、言葉を追い回し、言葉を噛み、言葉を砕く…… 私はこんなにも言葉を愛している…… 思いがけない言葉…… がつがつと待たれ、耳を傾けられ、ついに突如として落ちてくる言葉…… 愛する語彙、それらは、色彩の石のように輝き、プラチナ鍍金(メッキ)の魚のように跳び、泡になり、糸になり、金属になり、露になる……  私は幾つかの言葉を追いかける。あまりに美しいので、私はそれらをみんな私の詩のなかに置きたいと思う……(『ネルーダ回想録』パブロ・ネルーダ)

 

 パブロ・ネルーダはアナゴのスープと玩具が大好きだった。たとえば瓶に入った帆船を船隊を組めるほど持っていた。もっとも立派な帆船は、著書『オード』の印税としてスペインの出版社から送られてきたものだった。家のあちこちに大小さまざまな船首像が置かれていた。後にチリ大統領となるサルバドール・アジェンデが欲しがったのは、いちばん小さくて魅力的な女性の像だった。マリア・セレステという名で、セーヌ川を行き来していた小型の船につけられていたものだった。

 ネルーダは言った。「遊ばない子供は子供ではない。だが、遊ばない大人は、大人のなかに生きている子供という、大人が大いに必要とするものを永遠に失ったのだ」

 

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 ネルーダのノーベル賞受賞から11年後、コロンビア人として初めて同賞を受賞したガブリエル・ガルシア=マルケスは言った。「ネルーダは自らの言葉でこの大陸に光を当てた」

 13歳のときに奨学金を得たマルケスは、海岸線から1000キロ離れた「陰気な町」の暖房も花もない修道院のなかにある学校に入学。本の世界に逃げ込み、ネルーダの影響を強く受けて《石と空》と呼ばれる詩のグループを結成した。

「ネルーダはあらゆる言語を通じて20世紀を代表する偉大な詩人だ。政治的な詩を書いたり、戦争を歌ったりすると、詩人は袋小路に入り込んだようになってうまく書けないものなんだが、彼はそんな場合でもつねに素晴らしい詩を作ったね。以前にも何度か話したようにネルーダはミダス王(ギリシア神話で、触れるものすべてが金に変わったと伝えられる)と同じで、触れるものすべてを光り輝く詩に変えてしまうんだ」

 

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「チェは戦闘服を着て、長靴をはき、腰には拳銃をつけていた。彼の服装は銀行という環境には不調和だった」

 ネルーダがゲバラと会ったのは1960年、キューバ革命の翌年だった。場所はハバナのゲバラのオフィス。ネルーダ55歳、キューバの国立銀行総裁、ゲバラ35歳。最初で最後となる出会いだった。

「チェは色が浅黒く、話し方がゆっくりしていて、疑う余地のないアルゼンチン訛りだった。彼は、パンパでマテ茶とマテ茶のあいだにゆっくりと話をする相手としてふさわしい男だった。彼が口にする言葉は短かった。そして、まるで空中に注釈を残すかのように微笑で話を終えるのだった」

 時刻は夜中の1時。ゲバラの指定の時間より1時間遅れていた。公的会議の議長席に座らせられ、どうしても抜け出すことができなかったからだった。

「私の本『大いなる歌』について彼が私に言ったことが、私を喜ばせた。シエルラ・マエストラ(※キューバ革命におけるゲリラ戦の拠点となったキューバ最大の山脈)で夜になると彼のゲリラ兵たちにこの私の本を読んでやるのが彼の習慣だったというのだ」

 近い将来に起こるだろうアメリカ合衆国のキューバ侵略について話していると、不意にゲバラが言った

「戦争…… 戦争……われわれはいつも戦争に反対している。しかし、われわれは、ひとたび戦争をしたからには、戦争なしには生きることができないんだ。われわれは絶えず戦争に戻って行くんだ」

 7年後、ネルーダの詩『別れ』の朗読音声を残してキューバを離れ、ふたたびゲリラ活動の最前線に身を投じたゲバラは、荒れ果てた峡谷でボリビア陸軍の遊撃兵の一団に捕らえられ、寒村、ラ・イゲラで処刑された。

 

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「耐えがたい事件となったのは、ひどく悲しいボリビアでのチェ・ゲバラの公認の暗殺だった。彼の死の電報は聖なる悪寒のように世界を駆け巡った。(中略)私はキューバのある文学者の少佐から私の詩を求める電報を受け取った。いまでもまだ私はそれを書いていない。私の考えでは、そうした悲歌は直接的抗議だけでなく、痛ましい歴史の深い木霊(こだま)をも含んでいなければならない。私の頭と私の血のなかでこの詩が成熟するまで、私はそれを瞑想するだろう」

 政府軍に捕らえられたとき、ゲバラのリュックサックには2冊の本が入っていた。1冊は数学の教科書で、もう1冊はネルーダの『大いなる歌』だった。

「彼の死に際して、私の詩もまた彼につき添ったのだと考えると、私は身震いする」

 詩が成熟する前に、ネルーダは生涯を終えた。(再調査の結果、病死ではなく、CIAによる毒殺だったという見方が強まっている)

 

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 ラ・イゲラからヘリコプターでバジェグランデに運ばれたゲバラの遺体は洗濯場に置かれ、2日間に亘ってさらしものにされた。

 一目会いたいと洗濯場を訪れた修道尼が、その髪をこっそり切り取り、聖遺物箱にしまいこんだ。遺体が“死せるキリスト”にあまりに似ていたからだった。

 2年後に発表されたマルケスの『この世でいちばん美しい水死人』は、“死せるキリスト”ゲバラへのオマージュだとされている。

 暗殺を公認した軍事政権の大統領、バリエンテスは、乗っていたヘリコプターが墜落して死んだ。チェの捕獲作戦を指揮した陸軍参謀本部長はブエノスアイレスで暗殺された。その後フランス大使に任命された司令官は、白昼、パリで何者かに殺された。処刑を命令したCIAのフェリクス・ロドリゲスは、その後──ゲバラの2歳になる前からの持病だった──重い喘息にかかった。引き金を引いたマリオ・テランはアルコール中毒になって軍隊を追われ、浮浪者となり、精神病院で生涯を終えた。

 

(つづく)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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編著・日本ラグビー狂会

     
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