ステファン・ダントンの茶国漫遊記
#06
サラゴサへの旅2−砂漠の街から日本茶を世界へ
ステファン・ダントン
日本とリヨンとサラゴサと
2008年6月14日に開幕したサラゴサ国際博覧会の準備や運営のために、私がサラゴサを訪れたのは全部で5回、それぞれ2週間程度現地に滞在した。
日本からヨーロッパは遠い。成田から12時間も飛行機に乗ってようやくパリに着く。サラゴサへ合理的に向かうならばそこから空路でバルセロナへ、さらに乗り換えてサラゴサに行くのが普通だろう。でも、私は初回のごく短期間の調査以外では、すべてレンタカーを借りて、陸路パリーサラゴサ間を往復していた。
「故郷リヨンやプロバンスの別荘や親戚の家に寄り道しやすい」し、「現地サラゴサに着いてからの生活のために車があったほうが便利」だから車で移動していた。「変わっていく風景や空気感を感じるため」という、ちょっと詩的な理由もあったが。
まずは、パリから故郷リヨンまで400㎞以上。かつてはパリに住んでいたこともあるから慣れた道だ。リヨンで母や旧友と会う。私はホテル経営を専門とするリセに通っていたし、料理やワインを生業とする友人が多い。彼らと旧交を温めつつ、マーケティングもする。
リヨンからサラゴサまではおよそ900㎞。フランス中部に位置するリヨンからアビニヨン方面に南下する。途中、ときにはプロバンスの別荘やマルセイユの友人を訪ねたりもした。地中海に沿った道路を西に向かってスペインとの国境に近いペルピニャンを通過する。地中海の青い空の向こうに見えるピレネー山脈を越えればバルセロナまであと少し。バルセロナも地中海沿いの明るい緑の多い街だ。ところが、サラゴサに向かうにつれて、あたりが茶色の大地に変わっていく。サラゴサは多くのマカロニ・ウエスタンの撮影地にもなった砂漠地帯を抱えている。乾燥した風と強い太陽の中にサラゴサの街はある。私が生まれ育ったフランス中部とも、もちろん日本ともまったく違う風土だ。
車での移動中に立ち寄ったプロバンスの風景。
プロバンスにいる親戚宅を訪問。
プロバンスの親戚宅前で母親と撮影。
サラゴサへ車で移動中の光景。
サラゴサに向かう途中にレストランで休憩。窓から景色を望む。
私のオリンピック村
サラゴサ国際博覧会の会場は、歴史あるサラゴサ旧市街からエブロ川を挟んだ対岸に建設されていた。各国のパヴィリオンの中の日本館も含めて、会期が始まる少し前までどこもかしこも建設中だったけれど、「開会までに形になればオッケー。問題ない」と不安がる同行者にこう言うとき、「私はやっぱりヨーロッパ人だなあ」と思ったりした。
各回10日間あまりの滞在中、私やJETRO、デザイン会社、施工会社、広告代理店といった運営関係者はみんな会場から12㎞ほど離れた宿舎に滞在していた。言って見ればオリンピック村のような感じで、さまざまな国の関係者が同じビルの中に住んで、そこから会場に出勤していたのだ。
宿舎の窓を開け放つと、乾いた風と一緒にいろんな音が聞こえてきた。いろんな匂いが入ってきた。アジア、アフリカ、ヨーロッパ。さまざまな話し声のメロディとリズム、ラジオの音、食事の匂い。国際博覧会の会場には世界中の文化が展示されていたが、宿舎も世界の文化が詰め込まれているおもしろさを感じた。窓越しに感じるだけではなく、長い滞在中には、ナイジェリアやベトナムの人と親しく話をするチャンスもあった。
会場と宿舎はシャトルバスで結ばれていたから、たいがいの関係者はそれを利用していた。職場と家の往復のみといったところだ。私は車があったから、ときには仲間と繁華街に繰り出したり、カルフールに出かけて食材やワインを買い込んだり、仲良くなったスペイン人宅のホームパティに参加したり、かなり自由にサラゴサを楽しんでいた。
もちろん、会場にも車で通勤していた。会場から徒歩5分ほどのフリーパーキングに車を止めていたのだが、実に都合のいいことに、ごく近くに市営プールがあった。会期中、大事な場面(開・閉会式とかジャパンデイとか)には、当たり前だが必ず現場にいたけれど、実はかなりの日数プールで過ごしていた。人生の中で一番泳いだ日々でもあったのは今だから言えることだ。もちろん携帯電話は常にオン。呼び出しがあれば5分で駆けつけられる距離だったし、一度も呼び出しはなかったが。
サラゴサの旧市街にてワインを。
私にとってのオリンピック
6月21日に開幕したサラゴサ国際博覧会。日本館の入り口には透明のカップに入れられた“サラゴ茶”が並んだ。入館者はまず、入り口で“サラゴ茶”を手に取る。
「どうだろう、受け入れてもらえるだろうか?」
最初はドキドキしたが、カップを鼻先に口元に持っていった多くの人の顔がほころぶのを見て、安堵した。
「いい香り!」
「グリーンなすっきりした味ね」
「おいしいわ」
「どこで売っているの?」
感想を聞くたびにうれしくなった。
準備期間に考え抜いたオペレーションは、常に12リットルの水出し茶のタンクを3つ用意し、トレイに乗せたカップに補充していく。それを実行するのは現地で採用した3人の女性たち。お茶をいれ、保存し、タンクへ移し、カップにサーブする。重いタンクを上げ下げするだけでも重労働だったが、現地のホームセンターで調達したシャワーブースの床が役に立った。床高を上げると同時にタンクの移動もスルッと楽になった。綿密に考えたオペレーションや施設に、現地で気づいた問題をその場で解決しながら、スタッフたちとともにたくさんのお客様に“サラゴ茶”を振る舞った。気づけば、93日間の会期中97万杯もの“サラゴ茶”を提供していた。
日本館を訪れるのは、サラゴサ周辺の人、スペイン人を中心としたヨーロッパ人が主体だった。日本からも関係者やマスコミが訪れた。私にとって忘れられないのは、茶葉を協賛してくれた川根町長が来てくれたこと。“サラゴ茶”がどんな産地で作られた茶葉なのかを紹介してくれたことだった。また、7月21日に行われたジャパンデイには皇太子殿下が来館され、“サラゴ茶”を召し上がってくれたときには、なんだかこれまでの努力が報われたような気がした。
「日本の農産物の中でも最高の素材、日本茶をヨーロッパ人の嗜好に合わせて手に取らせ、口に入れさせるために現地のフレーバーをブレンドする」というアイディアをさまざまな人の助けを借りて実現することができた。私にとって大きな一歩だった。金メダルにはまだまだだが、オリンピックに参加できたような、そんな誇らしい気持ちになったものだ。
サラゴサ日本館入り口にて“サラゴ茶”を提供。
“サラゴ茶”を口にする来場者。
サラゴ茶の製作の現場。シャワー、冷蔵庫、タンクを用意し製作した。
本当に相手を考えた商品開発
今思えば、国際博覧会の公式飲料、しかも日本茶を、フランス人である私に作らせた運営責任者はすごい冒険をしたものである。
日本茶の当たり前を、日本茶の伝統を、心の中に固まった状態で持っていなかった。未開拓のマーケットが世界に広がるすばらし素材として捉えていた。伝統を、当たり前を提示するだけでは文化は広まるかもしれないが、マーケットは広がらない。それぞれの場所でさまざまな人が各々のシチュエーションでどんな楽しみ方をしたいか、それに合わせて素材にアレンジを加えることで、手に取ってもらえると思う。アレンジ抜きの素材としての日本茶への関心はそこから先に生まれるはずだ。そんな私の考え方をまっすぐに捉えてくれる人がいたからこそ、“サラゴ茶”は成功したのだと思う。
サラゴサでは、これまで馴染みのなかったであろう日本茶に、現地の人に親しみのあるバレンシアオレンジのフレーバーを加えて、口元に持っていくための仕掛けをした。日本茶を、ただ珍しい外国のドリンクではなく、もしかしたら毎日の生活の中にもあっていいと思えるドリンクだと思ってくれた人も少なからずいた。
サラゴサ万博が閉幕してしばらくすると、スペインやフランスから注文が入るようになった。少しずつ、少しずつ私の思いは形になっていく。
さまざまな場所や人やシチュエーションを考えて作るフレーバー茶は、日本でも求められていた。私は、各地の茶産地の求めに応じて、その土地らしいフレーバー茶の開発もするようになっていく。その一方で、アメリカ、タイ、韓国といった海外へもフレーバー茶の開発やプロモーションのために出かけていくようになっていった。そんな話をまたこれからしていきたい。
*この連載は毎月第1・第3月曜日(月2回)の更新連載となります。次回公開は7月3日(月)です。お楽しみに!
写真/ステファン・ダントン 編集協力/田村広子、スタジオポルト
![]() |
ステファン・ダントン 1964年フランス・リヨン生まれ。リセ・テクニック・ホテリア・グルノーブル卒業。ソムリエ。1992年来日。日本茶に魅せられ、全国各地の茶産地を巡る。2005年日本茶専門店「おちゃらか」開業。目・鼻・口で愉しめるフレーバー茶を提案し、日本茶を世界のソフトドリンクにすべく奮闘中。2014年日本橋コレド室町店オープン。2015年シンガポールに「ocharaka international」設立。2017年路面店オープン予定。著書に『フレーバー茶で暮らしを変える』(文化出版局)。「おちゃらか」http://www.ocharaka.co.jp/ |