ホセ・ムヒカ突撃記

ホセ・ムヒカ突撃記

#03

えっ!? アポなしですか?

文・佐藤美由紀

 

 頼みの綱だったYさんが、長期の南米出張に出かけてしまって音信不通状態になった。
 私と担当編集Iさんはヤキモキして日々を過ごしていたが、さすがに、もうYさんだけを頼っているわけにはいかないと思うようになっていた。

 

 そんなに急がなくても、ゆっくり待てばいいじゃないかと思われるかもしれないが、私たちには〝大人の事情〟があった。

 

 出版社の都合(戦略?)上、ムヒカ本の第二弾は、「遅くとも夏まで」には出せるように進める必要があったのだ。
 できるだけ余裕を持って進行するためにも、1月中には取材を終えておくのが理想だったが、1月はもう終わってしまった。
 こうなったら、1日でも早くウルグアイに飛んでムヒカに会うべく、段取る必要がある。
 取材が延びれば、その分、執筆ほか、作業の時間はどんどん削られてくる。下手すると「遅くとも夏まで」が守れなくなる可能性もある。
そんなことになろうものなら……。
 私はフリーランスの身。いざとなったらどうとても逃げられるが、Iさんは会社員だ。
 その心境、推して知るべし……。

 

 私はシルビアに連絡を取った。
 シルビアは、ムヒカ本第一弾を出したとき、最初に資料の和訳をお願いして、結局、断られてしまった、あの日系ウルグアイ人の留学生だ。
 彼女は、あれからほどなくして早稲田大学を卒業し、祖国に帰っていた。
 ウルグアイ行きを決めたとき、「行くことになったから、現地で会おうね」というメールは送っておいたのだが、再度メールを出して、ムヒカへの取材のオファーが進まないことを伝え、力を貸してくれないだろうかと、お願いをしてみた。
 すると、「自分にはムヒカに繋がる伝はないけれど、なんとかできるかもしれない友人がいるから、ちょっと確認してみる」というような返信があった。
 私は期待した。
 が、後日、「友達はトライしてみてくれたけど、結局、ダメでした」という内容のメールが届く。でも、その終わりに、「ダニエルさん、この人なら力になってくれるかもしれません」という文章とともに、メールアドレスと携帯電話の番号が書かれていた。
 ダニエルは、日本人女性を妻に持つ東京在住のウルグアイ人男性で、職業はカメラマン。ムヒカ本人を撮影したこともあるということだ。
「彼は3月にウルグアイに帰って来ます。佐藤さんに紹介したかった。彼と連絡を取ってみてください。私から、その旨、伝えておきました」
 シルビアのメールは、こう締め括られていた。
 シルビアありがとう!!
 暗闇の中に一条の光を見た気がした私は、ウルグアイの方角に向かって(どっちだか、さっぱりわからなかったので、とりあえず南東の方)、手を合わせた。

 

 

「どうかムヒカさんに会うことができますように」と、花とともに飾ったムヒカ本に手を合わせて祈っていたのだが、さて、その祈りは通じるのか!?

 

ウルグアイはブラジルとアルゼンチンに挟まれた小国(面積は日本の約半分)。首都モンテビデオからアルゼンチンの首都ブエノスアイレスまでは飛行機で1時間弱の近さだが、両都市を挟むラ・プラタ河をフェリーで行く方法もあり、高速艇なら3時間ほどで行くことができる。

 

 

「いいじゃないですか、いいじゃないですか。早速、その人に連絡を取ってみてください」
 シルビアからウルグアイ人カメラマンを紹介されたことを伝え、「どうする? 会ってみる?」と、打診すると、Iさんは嬉々として言った。
 私はシルビアから教えられた携帯番号に電話をかけた。
 実は、ちょっとドキドキしていた。
 もし、相手が日本語を話せなかったらどうしよう? などという情けない不安があったからだ。
 ぷるるる〜という呼び出し音のあと、相手が電話に出る気配を感じた私は、あえて   「もしもし」と大きな声で言ってみる。
 「もしもし」相手からも同じ言葉が帰ってきた。
 この「もしもし」で、私は安心した。
 何の根拠もないけれど、「大丈夫、この人は日本語を喋れる」と確信したのだ。シルビアが事前に話しておいてくれたこともあったのだろう。ダニエルの日本語は少し拙かったけれど、私の言いたいことは理解してくれたようで、翌日、会うことになった。

 

 ダニエルは、ウルグアイの首都モンテビデオの出身だった。カメラマンとしての仕事のベースは日本にあるけれど、ウルグアイはもちろん、第三国でも撮影をすることがあるらしい。
 3月に一時帰国するのは、モンテビデオで写真展を開くため。写真展の開催中はずっと母国にいたいため、4月いっぱいくらいまでは現地にいるという。
私とIさんは、ダニエルに会って、そんな話を聞きながら、ダニエルに日程を合わせてのウルグアイ行きを決めていた。
 まだ、取材は何のメドも立っていないというのに……。
とにかく、「3月の20日前後に日本を出発できるといいね」ということになったのだ。
で、どういう経緯でそうなってしまったのかは、よくわからないのだけれど、ダニエルに、現地での撮影のほかに、コーディネーター的な役割までお願いすることになった。
 つまり、ダニエルが、ムヒカへの取材依頼をし、現地では、私たちのアテンドもしてくれるということだ。
 カメラマンに取材のコーディネートをお願いするなんて、めちゃくちゃ無謀だが、よく引き受けてくれたと思う。
 記憶が定かでなく、もしかしたら、ダニエルのほうから「やりましょうか」と言ってくれたのかもしれないけれど、どっちにしても、よくぞやってくださいました、である。
 今となっては、本当に、感謝! 感謝!
 なのだけれど、実はこれが、またまた……。

 

 「ムヒカと、その奥さん(妻のルシアも国会議員だ)のパーソナルセクレタリー(個人秘書)の連絡先がわかったので、早速、連絡してみたところ、取材の件、本人に聞いてみるので、ちょっと待ってください、と言われました」
早い段階で、ダニエルからは、こんなメールが届いて、私とIさんは小躍りした。
 「こんなことなら、最初からダニエルにお願いすれば良かったね」
 「ダニエルでもこんなに簡単に秘書に辿り着くのに、Yさんがお願いしてくれた代理店とやらは、何をしていたんだろうか」
 その後、Yさんからは何の連絡もなく、どうやら、Yさんルートは完全に途切れてしまったみたいだが、まぁ、新しくダニエルルートがあるから大丈夫だろう。
ムヒカに一歩近づいた気がして、私たちの気分はアガりつつあった。
 「やっぱり宿泊は中心部ですかね?」
 「そうよねぇ、周囲にレストランとか、たくさんあるところがいいよね」
 私たちは、現地でのホテルの相談までするようになっていた。
 私とIさんは、ダニエルからのメールに、ちょっと浮かれていた。

 

 今度こそ、いろいろなことが、ポンポンと前に進んでいく気がしていた(私の頭の中には、取材を断られるという選択肢は微塵もなかった。今思えば不思議だ。なぜだろう?)。

 

在日ウルグアイ大使館でもらったウルグアイ案内のパンフレットによると、ウルグアイにはラグジュアリーなリゾート地もあるらしい。おまけにカジノまで。ムヒカの清貧なイメージとは異なるが、だからこそ、大統領時代の彼は、貧しい市民の味方になる政策を打ち出していったのだろうか……。

 

 

 

 と思ったけれど、道のりは、まだまだ長かった。
 2月中旬に、「セクレタリーから回答があったら、また報告します」というメールがあって以降、しばらくダニエルからの連絡が途絶えてしまう。
私たちは、すでに「日本と同じようにパキパキと物事は進んでいかない」ということを学習つつあったが、それにしても、やっぱりジリジリしてしまう。
Iさんがダニエルに催促のメールを送る。さすが日本人の奥さんを持つだけあるのか、きっちりしている。ダニエルからはすぐに返信があった。
 「まだセクレタリーからの回答はありません。ウルグアイは、先週、今週はカーニバルのシーズンで、ちょっと特別。物事が止まりがちになります。もう少し待ってから、再度、セクレタリーに連絡を取ってみます」
 メールは、そんな内容だった。丁寧に、親切に、書いてくれてはいるが、内心、 「も〜、日本人はせっかちなんだから〜」と、ダニエルは呆れていたかもしれない。
でも、申し訳ないが、こっちとしては必死だったのだ。

 

 次にダニエルからの連絡が来たのは、2月の最後の日だった。前のメールがあってから、ちょうど10日後のことだ。
 「まったく返事がないので、セクレタリーに〝どうなっているのか〟を聞いてみたところ、〝ムヒカのインタビューは日本でやったほうがいい〟とだけ書かれた短いメールが返ってきました」
 ダニエルからのメールには、まず、こんなことが綴られていた。
実は、この少し前から、私の周辺では「出版社だかテレビ局だかの招きでムヒカが来日する」という噂があり、ちょうどこの頃には、「ついにあの男が来日!」とテレビ番組で発表もされていた。ムヒカの秘書の回答は、この事実を受けてのことだろう。
でも、私たちとしては、ムヒカの来日を待っているわけにはいかない。来日時に取材ができるなら、もちろんそうしたかったが、必ずできるという保証はない。それに、あの農園をこの目で見たかったし、できることなら、そこでムヒカと向き合いたいというのが、私の望みだった。おそらく、Iさんも同じ思いだったに違いない。
 ダニエルは、そんな私たちの気持ちを汲んでくれていたのか、しつこさに呆れていたのかはわからないけれど、次のようにも書いていた。

 

 「(秘書から無下にされた)この状況で、どうしても現地でムヒカを取材したいというなら、アポイントなしでムヒカの家まで行ってしまうという方法もあります」

 

 えっ!? アポなしですか?

 

 そのときすでに退任していたとはいえ、一国の大統領経験者の家にアポなしで押しかけるなんて……。私たちには思いも寄らないことだった。
目からウロコが落ちるとは、まさにこのことだ。

 

 「もし、この方法を選択するなら、3月の最終週、僕がモンテビデオでアテンドします」
 ダニエルが秘書とのやり取りで聞き出したところによると、ムヒカの来日は4月5日。どういうルートでやって来るかは不明だったが、フライト時間やら時差やらを考慮しても、ダニエルは、「4月1日までムヒカがウルグアイにいるのは確実」と読んでいた。
 というわけで、出発間際の3月最終週なら、地方に出掛けている可能性も低く、家にいるのではないかというのが、ダニエルの見解だった。

 

 「もちろん、ムヒカの家に行ったとしても、100%取材ができるという保証はどこにもありません。僕は、その可能性は50:50だと思います」

 

 ダニエルは、こうも綴っていた。

 

 「どうしましょう!? さすがにアポなしっていうのはなぁ……」
 ダニエルから想定外の提案をされ、Iさんは困った顔でぶつぶつ言っていた。
メールのやり取りだけでは埒が明かないと、ダニエルを呼び出して、私たち3人は向き合っていた。
 「どう思いますか?」
 Iさんが、ダニエルにたずねる。

 

 「今のベストの選択は、ムヒカの家に行ってしまうことだと思います」

 

 ダニエルは冷静に言った。
 すでに私の心も、五分の可能性に掛けるほうに傾いていた。
 「そうだよね。もう行ってしまいましょう! ここでああだこうだ言ってても、前に進まない。もしムヒカに会えなかったら、会えなかったときのことですよ!」
なぜか私は妙に前向きだった。
 「えー、でも……」
 Iさんの態度は、煮え切らない。
 それはそうだろう。彼女の気持ちもわからなくはない。会社のお金でウルグアイくんだりまで行って、「肝心のムヒカには会えませんでした」となった日には、会社に対して申し開きができない。Iさんの気持ち、再び、推して知るべし。
 なのではあるが、こうなったら、もうIさんの事情を考えている余裕などない。
 原稿を書くのは私だ! 早くムヒカに会わなきゃいけない!!
 「一か八か、掛けるしかないじゃないですか。そうしましょう」
 私は、Iさんの背中を押した。

 

次号へ続く…!!

 

 

 

 

ホセ・ムヒカ氏から日本人へのメッセージ

 

 

 

 

佐藤美由紀(さとう みゆき)

ノンフィクション作家、ライター。広島県福山市出身。各種の雑誌や書籍に人物ルポや社会レポートなど様々な分野の記事を執筆。2015年7月に上梓した『世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカの言葉』がベストセラーに。その後、ムヒカの祖国ウルグアイに2度足を運び、ムヒカ本人と妻ルシアを取材して『世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカ 日本人へ贈る言葉』『信念の女、ルシア・トポランスキー』を上梓。他の著書に『ゲバラのHIROSHIMA』(以上、すべて双葉社)など。また、佐藤真澄名義で児童書も執筆。主な児童書作品に、令和2年度児童福祉文化賞(出版の部)に選定された『ヒロシマをのこす 平和記念資料館をつくった人・長岡省吾』の他、『小惑星探査機「はやぶさ」宇宙の旅』(いずれも汐文社)『いのちをつなぐ犬 夢之丞物語』(静山社)など。

 

 

 

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