ホセ・ムヒカ突撃記

ホセ・ムヒカ突撃記

#02

 頼みの綱がぶち! っと切れて

文・佐藤美由紀

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担当が、ベテラン編集者Iさん(♂)から、そこそこベテラン編集者Iさん(♀)に変わった。前者のIさんが悠々自適の生活をするために早期リタイアすることになり、後者のIさんがあとを引き継ぐことになったのだ。
というわけで、ウルグアイへは、そこそこベテランのIさん(まどろっこしいので、以下、特にことわりのない場合、「Iさん」とは、「そこそこベテランのIさん」のこととする)も同行することになった。

 

「ラッキー!」

 

多分、最初、Iさんは思っただろう。
だけど、すぐに、安易に引き継いだことを後悔したのでは。いまだ真意は確認できずにいるが……。

 

ウルグアイ行きは、「ムヒカ本人に会って取材をする」が大前提だった。
したがって、何はさておいても、取材のアポイントを取ることが先決だ。
そうは言っても、ウルグアイの事情はまったくわからないし、スペイン語もできない私たちのことである。誰か力になってくれる人を見つけなくてはならなかった。

 

海外取材に行く場合、語学が堪能かつ、よほどその国に精通している場合を除くと、取材のオファーから現地でのアテンドまで、取材コーディネーター(多くは現地に住む日本人)に依頼するのが普通だ。通訳も、多くは、コーディネーターが兼ねる。
だが、しかし。
ウルグアイのような遠く離れた国のコーディネーターをどうやって探せばいいのだろう。ポピュラーな国や地域なら、口コミでも、すぐに優秀なコーディネーターは見つかるが、いかんせん、日本のほぼほぼ真裏のウルグアイである。距離的にも遠いし、日本人にはほとんど馴染みのない国だ。
そもそも、そうそう需要はないだろうから、日本人相手の取材コーディネーターなどウルグアイには存在しないのではないか。
いたとしても、高額なギャラを要求されるのではないか(それまでの経験から、各地にいる取材コーディネーターは、結構いいカネを稼いでいることを、私は知っていた)。
だが、この仕事で、そこまでの予算はない。
そんなことをあれこれ考えると、「現地のプロフェッショナルな取材コーディネーターを雇う」という選択肢は、最初から、私たちには、なかった。

 

頼みの綱は、ムヒカ本第一弾を出すとき、お駄賃程度のギャラでスペイン語の資料の和訳を引き受けてくれた奇特な人、Yさんだった。
Yさんは、日系二世のパラグアイ人。ウルグアイのお隣の、これまた日本人には馴染みのない国パラグアイで生まれ育ち、留学で来日して東京の大学で学んだあと、そのまま日本企業に就職して今に至る妙齢の女性だ。

 

Yさんは、私の出身地の広島県東部に本拠地を置く「Tグループ」傘下の会社「G」で働いている。「Tグループ」は、広島県人、特に東部の人なら、その名を知らない人はいないくらい有名で、私も、子どもの頃から、その名を普通に知っていた。
ローカルな会社だとみくびってはいけない。
尾道市の、ものすごーく辺鄙なところに、瀬戸内海を一望できる「B」というラグジュアリーなリゾートホテルがある。

東京をはじめとする都市部のセレブに人気があり、芸能人もお忍びでやって来るというし、中東の王族なんかも一族で訪れたりするという。超セレブたちは広島空港に旅客機で降り立ち、そこからチャーターしたヘリに乗り換えて来るらしいが、ここを経営する会社は、「Tグループ」のひとつだし、一時期話題になった〝瀬戸内海に浮かぶ高級隠れ宿〟といった風情のクルーズ客船「G」の運営もまた、同グループ傘下の会社。「T」は、たいしたものなのだ(と、私がTの肩を持つのは、単なる郷土愛からです。あしからず)。

 

第一弾で協力してくれる人を探していたとき、たまたま繋がったYさんが、「Tグループ」傘下の会社に勤めていて、しかも、私の故郷の福山市に住んでいるとわかって、なんだか不思議な気持ちになった。
だって、私は、地元の伝をたどって協力者を探していたわけではなく、東京で人探しに奔走していて、たまたまYさんと繋がったのだから。
Yさんとの出会いは、目に見えないものに「導かれた」。そんな気になってしまうのだ。その根拠は、まだ他にもある。

Yさんと知り合って初めて知ったのだが、海運や造船から始まった「Tグループ」は、かつてはウルグアイにも自社の造船所があり、日本から送った技師を駐在させていた。そして、今でも、南米の国々との間に太いパイプを持っているという。
ムヒカが日本のテレビ番組のインタビューの中で、ウルグアイに住んでいた日本人少年のエピソードを話したことがある。
確か、日本人の子どもたちがサッカーをしていて、ひとりの少年がケガをして競技場からつまみ出されたという話。その子は泣いていたけれど、痛みのせいではなくて、最後までプレーできなくて悔しくて泣いていた、といった内容だった。

 

Yさんによると、その子は、昔、ウルグアイの造船所で働いていた「T」の社員の息子らしい。
それだけ「Tグループ」は、ウルグアイと、ひいてはムヒカとも繋がっているということなのだ。
そんな会社に勤めるYさんと繋がったなんて、神さまの思し召しではなかろうか。

 

Yさんを頼らない手はなかった。

 

2015年11月某日。
私は、前の担当のベテラン編集者Iさんと、そのあとを引き継いだ、そこそこベテラン編集者のIさんとの3人で、新幹線のぞみの下りに乗り込んだ。広島県の福山市と尾道市との境にあるYさんの会社を訪ねるためだ。
Yさんとは、Yさんが出張で上京した際、前担当編集のIさんとともに、一度会ったきりだった。
ムヒカ本第一弾を書き始める前のことで、本が出てからは、まだ会っていなかった。
Yさんには、ちゃんと会って再度お礼を言いたかったし、ウルグアイ行きのことも相談したかった。
私たち3人が広島県に向かったのは、それが目的だった。

 

「佐藤さん、最初に言っておきますが、今回、『B』に泊まるのは無理ですからね」

Yさんの会社は、既述したラグジュアリーなリゾートホテル「B」の近くにある。「もしかして、経費で『B』に泊めてもらえるかも」と私はかすかな期待を胸に抱いたが、そこそこベテラン編集者Iさんの先制攻撃であえなく撃沈……。
結局、私たち3人は、「B」から車で数分の「T」というホテルに宿泊することになった。
「B」は尾道市、「T」は福山市。福山は私の生まれ故郷なわけで、土地勘はある。事前に「T」の住所をチェックすると、「なんで、そんなところにホテルが?」と思えるような場所だった。
海が近いことは確かだった。私が知らなかっただけで、「B」ほど豪華でないにしろ、「T」も知る人ぞ知るの、瀬戸内海を臨むリゾートホテル? と、またもや密かに期待したが、なんのことはない。造船所のすぐ近くにある「T」は、造船所に用事がある人たちのために建てられたらしいビジネスホテル(?)だった。実際、泊まってみると、長期滞在と思しき外国の方々もちらほらいたりして、いかにも〝造船関係〟という感じ。経営しているのは、「B」と同様に「Tグループ」傘下の会社だったのだが……。

 

話がそれてしまった。本題に戻そう。
そう、Yさんを頼るという話。

 

「わかりました。そういうことでしたら、できるだけ力をお貸しします」

 

私たちが協力を求めると、Yさんはにこやかに言ってくれた。
私たち4人の目の前には、瀬戸内海の新鮮な魚介類をはじめとする広島県産の食材(広島県は山の幸にも海の幸にも恵まれていて、そんなところが故郷でほんと〜に良かった……と、いつも私は、しみじみ噛み締める)をふんだんに使った料理の数々。
予算の都合上、「B」に宿泊することは叶わなかったが、食事は「B」の中のレストランでとることができたのだった(Yさんの計らいだった!)。

 

私は幸せだった。

美味しいご飯に美味しいお酒。そして、Yさんの心強いお言葉。

 

あとはYさんに任せておけば、大丈夫!!
私たち東京組(特に私と新担当編集Iさん)の酒は進んだ。

 

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尾道市と福山市の境(でもギリギリ住所は尾道市)にあるラグジュアリーなリゾートホテル「B」。宿泊は叶わなかったが、私たちは、瀬戸内海を見下ろすガーデンデッキでしばしくつろいだ。ホテルの中の和食レストランでは、瀬戸内海で獲れた新鮮な魚介類や、広島県産の上質な日本酒を堪能。

 

 

帰京してから2、3日後、Yさんからメールが届く(窓口を一本化するため、Yさんとのやり取りはIさんに任せ、メールは私にもccで送ってもらうことにしていた)。
取材のオファーをウルグアイの代理店に打診したところ、正式な取材依頼書を送れと言われたらしく、それを、まず私(佐藤)の名前で日本語で作成せよ、との内容だった。それをYさんが西訳してウルグアイの代理店に送ると、その代理店がムヒカの関係者に送ってくれるということらしい。

 

「代理店?」
「何、それ?」

 

私とIさんは、顔を見合わせたが、「多分、Yさんの仕事関係の会社かなんか?」ということで深く追求せず(だから、実は、いまだに、その〝代理店〟とやらは謎の存在)、早速、私は、「私はこれこれこういう者で、これこれこういう理由で、ぜひ、ムヒカさんにお会いしてお話をおうかがいしたい」といった内容のレターを書いて、Yさんに送った。
Yさんのレスポンスは早かった。頼もしいぞ、Yさん!

その翌日だかに、私が書いたレターを西訳したものを送ってくれたのだ。
そのメールには、「このレターに、版元の名前と住所と担当編集者のサインも添え、さらに社判を押すと、よりフォーマルな取材依頼書なるはず」と版元への指示が付け加えられていた。
担当編集のIさんは、すぐに指示通りのものをYさんに送った。

これでムヒカへのオファーは済んだようなもの。
私とIさんはタカを括っていた。
その代理店とやらが現地でのアテンドもやってくれるだろう、くらいに考えてもいた。

私たちは、勝手に大船に乗っていた。

 

「来月くらいには取材の時間をもらえるかなぁ」
「えー、もう時間がないですね。じゃあ、航空券の手配とか急いでしたほうがいいかも」
「年明け早々忙しくなりそう」

 

などと言いつつ、呑気にYさんからのメールを待っていた。
その年も残すところあとひと月となった、2015年12月の頭のことである。

 

しかし、ことはそんなに簡単には進まない。
遅くとも中1日くらいで返事が来ていたYさんからのメールがパタリと止まった。
Iさんが何度かメールを出すと、12月も終わりに近づいた頃、やっと返事があり、「ここのところ多忙で、しかも、時差の関係もあって、ウルグアイの代理店とはまだ連絡がついていない。引き続き、トライする」といったことが綴られていた。

 

私たちの頭からは大事なことが抜け落ちていた。
協力してくれるとYさんは言ってくれたが、彼女には大切な本業があることを忘れていたのだ。
しかも、Yさん、一年に一度くらいは南米への出張があり、一度出かけると何か月も帰ってこないというが、年明けに、次の南米出張を控えていて、その準備に追われ、普段以上に忙しい日々を送っているようだった。
そりゃあ、善意で引き受けたことは、二の次になって当然だよなぁ……。
私たちに、Yさんを責める気はなかった。

 

「では、引き続き、代理店への接触をお願いします」
Iさんは、こんなメールをYさんに送った。

 

年の瀬も押し迫っていた。年明け早々、Yさんは南米出張に出かけてしまう。今回は、祖国のパラグアイがメインだが、ウルグアイにも行くという。
「じゃあ、ウルグアイで会えるといいですね」
などと言ってはみたものの、私たちのウルグアイ行きは、まだ白紙の状態だ。
11月から動き出して、1か月以上が経つというのに、何の進展もない。当初は年が明けて1月中には渡航できればいいと思っていたが、とてもじゃないが無理そうだった。
私たちはジリジリし始めていた。
ところが、Iさんが「引き続き、よろしく」のメールを送った翌日、Yさんから代理店と連絡がついたとのメール。それによると、取材依頼書はムヒカサイドへ送り、あとは返事を待つのみ、とのこと。クリスマスあとには返事がもらえるらしい、とも。

 

「ってことは、年内には返事がもらえるってことね」
「えー、もしかしたら、1月ウルグアイ 、って線もまだアリかもしれないですね」
「なんか落ち着かない〜」

 

などと言いつつ、クルスマス後には絶対に吉報がやってくると能天気に信じた私たちは、胸をときめかせながら、Yさんからのメールを待った。

結局、年内にYさんから連絡が来ることはなかった。

Yさんは1月5日に日本を経ってパラグアイに向かうことになっていた。
気が気じゃなかったIさんが、その前日にYさんにメールを送ると、すぐに返事はあったが、「現地からは何の連絡もない」との報告。
「何か進展があったらパラグアイからメールします」という言葉を残し、Yさんは旅立っていった。

私たちはハラハラしていたが、1月8日、パラグアイに到着したYさんから、「代理店から連絡があり、取材の手配を進めており、来週、返事をもらえる予定」との報告があり、ひとまず、心を落ち着けた。
しかし、それ以降、Yさんからの連絡は途絶えてしまう。

 

「どうなってるのかなぁ? 催促のメールを送ってみてくださいよ」
「もちろん送ってますよ。だけど、返事がないんだから、しょうがないじゃないですか」

 

私とIさんの間で、何度、こんな言葉が交わされたことか(交わす度に、2人の語尾には険が含まれるようになっていったのだが)。

連絡がないということは、進展がないということに他ならない。わかっちゃいるけど、やっぱり、どこかで期待してしまう。
でも、何度か催促したのち、1月の末にやっと戻ってきた「まだ代理店からの返事がない」というYさんからの短いメールを読んで、さすがに、私たちも、頼みの綱が切れそうになっていることを認めざるを得なくなる。
いつになったらムヒカに辿り着くことができるのだろう……!?

 

 

次号へ続く…!!

 

 

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私の故郷・福山市が誇る名所「鞆の浦(とものうら)」。古くから潮待ち港として栄え、万葉集にも詠まれているほど。また、鞆の浦は、知る人ぞ知る「猫の町」でもあり、ある場所に行くと、にゃんこに会える。近年では、宮崎駿監督がこの地に滞在して『崖の上のポニョ』の構想を練ったことから「ポニョのふるさと」とも呼ばれている。

 

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早朝、鞆の浦を散策すると、漁師のお父ちゃんが獲ってきた魚介類を、お母ちゃんが海辺に並べて売っていたりする。

 

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福山名物、ちいイカ(文字通り小型のイカ)の天ぷら(写真上右)とネブト(テンジクダイ)の南蛮漬け(写真上左)。居酒屋などでは、「とりあえず」で、みんながよくオーダーする。福山は、くわいの生産量日本一。小粒のくわいを素揚げにして塩を振って食べると美味!これもまた居酒屋でも食べるが、家でも普通に食する。

 

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福山市民の自慢の福山城。福山駅のすぐ側にあり、新幹線のホームからバッチリ見えるのがウリなのに、担当編集Iさん(両者ともに)は、「なんか出来過ぎていて、かえってハリボテかと思っちゃった」とのたもうた。福山市は広島県の東の端ではあるけれど、紛れもなく広島県! 市内のあちこちでカープ坊やを見かける。

 

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福山市はなぜかバラの街。備後地方ではちらし寿司のことを「ばら寿司」と言うが、駅弁の「福山ばら寿司」は、花のバラと寿司のばらをかけたもの。鯛の切り身の酢漬けが、一応、バラの花びらになっている!!

 

 

 

ホセ・ムヒカ氏から日本人へのメッセージ

 

 

 

 

佐藤美由紀(さとう みゆき)

ノンフィクション作家、ライター。広島県福山市出身。各種の雑誌や書籍に人物ルポや社会レポートなど様々な分野の記事を執筆。2015年7月に上梓した『世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカの言葉』がベストセラーに。その後、ムヒカの祖国ウルグアイに2度足を運び、ムヒカ本人と妻ルシアを取材して『世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカ 日本人へ贈る言葉』『信念の女、ルシア・トポランスキー』を上梓。他の著書に『ゲバラのHIROSHIMA』(以上、すべて双葉社)など。また、佐藤真澄名義で児童書も執筆。主な児童書作品に、令和2年度児童福祉文化賞(出版の部)に選定された『ヒロシマをのこす 平和記念資料館をつくった人・長岡省吾』の他、『小惑星探査機「はやぶさ」宇宙の旅』(いずれも汐文社)『いのちをつなぐ犬 夢之丞物語』(静山社)など。

 

 

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