越えて国境、迷ってアジア
#89
台湾海峡一周〈5〉福建省・福清
文と写真・室橋裕和
福建省の中部に位置する福清。日本にはたくさんの中国人が暮らしているが、この街の出身者が非常に多い。「在日華僑のふるさと」ともいえる地なのだ。そしてまた、日本で学んだ経験を持って福清に戻り、故郷で起業して、財を成した人もたくさんいる。僕はそんな「日本からの帰国組」の皆さんと連日の酒席に明け暮れていた。
高級ワインをガブ飲みするマダム
「さあムロハシさん、どうぞ!」
ご招待いただいたVIPルームには巨大な円卓が置かれ、山海の珍味がテンコ盛りなのであった。高級そうなワインやら紹興酒もどかどか運ばれてくる。
高層ビルの上階であった。下界を睥睨できる窓のそばの上席に座らされ、セレブたちに取り囲まれ、いつも安い屋台で孤独のグルメを満喫している身としては居心地が悪い。隣に侍った美熟女からワインが注がれる。
「かか、かんぱーい!」
僕のかけ声に合わせて、セレブの皆さんも日本語で唱和し、和やかに会食が始まった。
「どうですか、いけますか。私たち毎晩こんな感じの食事なんですよ」
チャンさんが言う。完璧なまでの日本語であった。ほかの人々も程度の差はあれ、かなり流暢な日本語を操る。誰もが日本留学の経験者なのだった。
「さあさあ、アワビの煮付けですよ」
「ムロハシさんのために刺身も用意したんです」
くるくると円卓が回され、料理が取り分けられるが、恐縮するばかりで味もよくわからない。禁酒中なんだけど、とてもそんなことを言い出せる状況ではなく、注がれるがままに飲み干す。
「あたしともカ、ン、パ、イ」
美熟女が甘えてくる。おねだりされたら、グラスを合わせてお互い一気に飲み干すのが中華の作法だ。こうして座にいる人々ひとりひとりとイッキの交換をする。せっかくの高級酒がもったいないと言うのは貧しい日本人くらいのもので、ビジネスに成功した中国の中間層はフランスワインを生ビールのごとく空けていく。
これで3日目であった。
昼も夜も、この調子のリッチな会食なのである。もちろん僕には1元たりとも払わせてはくれない。たいてい、その場の誰かひとりのオゴリであった。現代中国人の財力と、なにより気持ちの大きさやゆとりというものを感じ続けていた。
毎晩こんな感じで宴会が続いた。懐のかわりに胃を痛めた
中国からの苦学生は、やがて日本で社長になった
僕は福建省の福清に来ていた。「華僑のふるさと」と言われる福建省でも、ここ福清はとりわけ海外移住者が多い。いま4000万人とも6000万人ともいわれる華僑のうち実に1000万人が福建省にルーツを持つといわれるが、そのかなりの部分が福清やその周辺の出身者だ。
彼らは日本にもたくさんやってきた。日本で苦労して学び、働き、財を成す人も出てくる。有名なのは、かの『長崎ちゃんぽん』の生みの親、陳平順氏だ。彼もまた福清から日本に渡った華僑だった。1892年のことである。
彼の後を追うように福清人は日本を目指す。チャンさんも、さっきからワインをがぶがぶ飲んでいるリンさんも同じように、日本へと留学をした。80年代のことだった。日本語を学び、アルバイトに励み、「でも寂しくて毎日のように家族に国際電話してたら、月の電話代が60万円を超えたこともあったよ」なんてリンさんは笑う。まだネットもスマホもなかったのだ。電話代はバイト先の店長が立て替えてくれたという。
そんな留学生たちは、やがて日本で就職し、そこで技術や経営のノウハウを学び、今度は自分で会社を興す。チャンさんは学生時代からずっと建設現場でアルバイトし、就職先も同じ業界だったが、その経験を生かして内装会社を立ち上げる。そこでリンさんを雇った。日本で社長になったのだ。
チャンさんはバブル崩壊後、日本人とともに不況にあえぎながら20年あまりを過ごし、それでも会社を大きくした。だけど、親が高齢なこと、それに、
「中国がすごい勢いで経済発展したでしょう。これから大きく稼ぐには、中国に戻ったほうがいいかなと」
そう思い、故郷・福清へと帰国する。
福清はとりたてて特徴のない街だが、ここが在日中国人の故郷のひとつ
日本の経験を生かして、故郷で大成功する
故郷での再出発は2010年代はじめだった。その頃、沿岸部を中心に経済力をつけた中国の中間層は3億人ともいわれたが、彼らがいっせいに求めたもの……それが成功の証マイホーム。福清でも家の内装を請け負う会社をつくったチャンさんは時流に乗った。日本と同じ仕事をしているのだけど、客の数がまさにケタ違いだった。チャンさんは一気に富豪へと駆け上がっていく。
そんな人々が、福清にはたくさんいる。日本で学び、働いた経験を持って帰国し、故郷でビジネスを立ち上げて大成功を収めた元留学生たち。福清はもともと、家の床や壁に使われる石材などの加工業だとか、窓などのガラス製品を扱う工場が多く、伝統産業になっていたこともあった。そこに日本帰りの技術が加わり、評価を得るようになる。大きな波に乗るように、チャンさんも、彼のまわりの帰国組も、どんどん財を成していく。
彼らは日本で知り合い、同郷のよしみで力を合わせて若い頃を過ごしてきた。だから帰国しても協力しあい、ときどき顔を合わせている。僕はその、いわば「同窓会」に呼ばれたというわけだ。
しかし、いくらなんでも毎晩の豪遊はやりすぎではないか。
僕は知人から「福建省に行くなら」とリンさんのwe chatのIDを教えてもらっただけなのだ。ちょっと話でもと思って連絡してみたら、トヨタの新車で福清各地を案内され、豪華な晩餐が三日三晩うち続く。会ったばかりの、紹介されただけの人間でも、徹底的に接待し、盛大に飲み、食べさせる。これが中国流のおもてなしであるようなのだ。
それに僕がメインゲストというわけでもなく、ほかにも「せっかくの機会だし、あいつも呼ぼう」「あの人もそういえば日本にいたことがある」と元留学生つながりの人々が毎晩入れ替わり立ち替わり現れ、懐かしそうな口調で日本語を話して、日本での青春の日々を語ってくれるのだ。
福清もまたビルド&スクラップが続く。古い街路をどんどん破壊してタワマンや最新オフィスビルに建て替えていく
ビル一棟がまるまるマイホーム
リンさんの生まれ育った福清市の郊外、光輝村にも連れていってもらった。だが「村」という感じはまったくしない。福清から南に向かう幹線道路の左手に、えんえんとビルの壁が続いているのだ。近づいてみると、5階建てくらいの中規模なマンションという感じだろうか、そんなビルが建て並んでいる。
「コレ、集合住宅だと思うでしょ。違うの。みいんな個人の家なんだ」
絶句した。リンさんの母が暮らすという実家も、やはり5階建てビルであった。お邪魔してみれば2階まで吹き抜けの天井の高い広大なロビーに、カーブを描く階段、豪華なシャンデリア……屋上のテラスからは台湾海峡がよく見える。
だが、暮らしているのはリンさんの母と祖母のふたりきりなのであった。ずいぶん高そうなマージャン卓も、たくさんあるゲストルームもバスルームも、まったく使われていない。子供たちはそれぞれ独立し、省都の福州や、あるいは上海などで暮らしている。ずいぶんとムダな買い物のようにも思うが、
「隣近所もみんな、子供たちが日本帰りや欧米帰りで、起業して成功してね。競ってこういう家を建てたがるの。うちだけ昔の閩南様式のレンガ造りじゃみっともないでしょ。まあ、見栄だけどね」
リンさんは笑う。その見栄のために、日本円で2億円、3億円のビルを建ててしまうのである。こんな人々がいくらでもいるのだから、そりゃあ内装業は儲かるだろう。そしてここは、北京や上海や広州ではない、もっと地方のイナカなのである。現代中国のパワーを改めて実感させられるが、
「それでも、ウチ以外の業者は細かいところがぜんぜんなっていない。すみまできっちり神経を使って、本当に上質なものをつくりあげる。中国はそれができていない。家でも料理でもなんでもね、日本にはまだまだ追いついていないんですよ」
とも言うのだ。
国境を越えて学び働き、起業して成功したリンさんたちとともに、福清をさらに回っていく。
これらすべてマンションではなく個人の一軒の家。わずかばかりの畑に昔の様子が見える
リンさん宅。小さな村でも、このくらいの環境で暮らす人が増えつつある
(次回に続く!)
*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」
*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!
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室橋裕和(むろはし ひろかず) 1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発日本語情報誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを務め、10年に渡りタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。おもな著書は『日本の異国』(晶文社)、『海外暮らし最強ナビ・アジア編』(辰巳出版)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書)。
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