東南アジア全鉄道走破の旅
#70
ベトナム・サイゴンからファンティエットへ〈1〉
文・写真 下川裕治
ホーチミンシティ近郊の未乗車路線
サパの登山鉄道を乗り終え、ハノイ駅に戻った時点で少し悩んだ。南部のホーチミンシティ近郊に未乗車路線がひとつ残っていた。乗るためにはホーチミンシティまで行かなくてはならない。ネットで調べてみると、午前零時近くにハノイからホーチミンシティに向かう最終の飛行機があった。
前夜は夜行列車でハノイからラオカイに向かった。寝台を確保したが、宿で眠るのとは違う。やはり疲れている。そしてホーチミンシティ行きの最終便……。
到着するのは午前2時少し前である。列車が発車するのは午前6時40分。ホテルに行ったとしても、1時間ぐらいしか眠れないかもしれない。それで1泊分の宿代を払うのも悔しい。
「駅で寝るか……」
溜め息交じりに呟いた。
しかし最近の僕は心のなかに別の人格がある。もう64歳なのだ。もっとしっかり休んで旅を続けないと、そのつけがくる。ラオカイに向かう列車の切符を買うときは後者の意識が勝った。座席ではなく、寝台を選んだ。
節度──。周囲からは年齢のわりにやっていることが若いとよくいわれる。曖昧な笑いでごまかしてはいるが、それが見せかけであることは自分で知っている。
毎朝、4種類もの薬を飲まなくてはならない。ワルファリン、メインテート、ナトリックス……。不整脈という持病を抱えている。すべてそれにかかわる予防薬だ。
体のことを考えれば、ハノイに1泊し、翌日の飛行機でホーチミンシティに向かう。それが64歳の年齢の旅だろう。
頭ではわかっているのだが、買ってしまった。ホーチミンシティ行き飛行機の最終便。ハノイ駅の天井に向かって吐いた溜め息は、そんな自分への諦念だろうか。
飛行機は予定通りにホーチミンシティに着いた。最近のホーチミンシティは路線バスが充実している。いつも2万ドン、約94円のバスに乗っている。しかし深夜の2時。そのバスもない。かつてきちんと運賃メーターを使ってくれるタクシーを確保するために苦労した空港である。優良タクシーをめざしてベトナム人と争う。あの時間が蘇ってくる。
しかしその熱気は、空港前のタクシー乗り場から消えていた。もう、ホーチミンシティはそういう街になったのだろうか。簡単にヴィナサンタクシーに乗ることができた。
ホーチミンシティはかつてのサイゴンである。その名前は鉄道駅に残っている。ガ・サイゴン。サイゴン駅である。その入口に着いたのは午前3時前だった。
まだ入り口のドアが閉まっていた。しかし3時半になると、職員が姿を見せ、扉を開けてくれた。助かった。これでベンチに横になることができる。コンビニも開いていた。そこで水を買い、今日の薬を飲む。バッグを枕に体を横にした。
暑かった。体は疲れているがなかなか眠ることができない。腕に止まるハエもうっとうしい。すると、改札口から乗客がぞろぞろと出てきた。いちばん列車が到着したらしい。ホーチミンシティで働いている人たちだった。いま職場に向かっても早すぎるようで、ほとんど人が待合室のベンチで寝はじめた。皆、送風機の近くに陣どる。どうもそれぞれに寝場所が決まっているようだった。
彼らに寄り添うことにした。たしかに送風機の周りは少し涼しい。1時間ほど寝ることができた。こういう場所で熟睡してしまう自分がちょっと切なかった。
サイゴン駅に着いた。駅はまだ開いていなかったが、外にはなぜか人がかなりいた
「ファンティエットに行って、そのまま帰ってくるんですか?」
職員から2回訊かれた。
5時に発券窓口が開いた。フエやハノイなどへ南北鉄道を使って向かう人の発券オフィスは2階だった。そこは閉まっていたが、ファンティエット行きだけは1回の窓口で販売するようだった。列車は1日1往復である。
ファンティエットはムイネーというビーチリゾートに行く人が利用する駅のようだった。日帰りする客はめったいないのだろう。しかし僕の目的は未乗車区間を乗りつぶすことだからリゾートには縁がなかった。
ファンティエット行き列車が入線していた。平日。乗客は少なかった
6時40分。列車は定刻に発車した。車両は特急型の新しいものだった。運賃は往復で28万2000ドン、約1325円。ベトナムの列車にしたらやや高い気がした。新型車両だからということだろうか。
車内はすいていた。指定された席に座り、目覚ましをセットした。というのも、ファンティエットまでの路線の大半は南北鉄道なのだ。最後のひと区間が未乗車だった。つまり分岐駅まではすでに乗っていた。そこまでは寝ることができる。列車は北に向かって進みはじめた。
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著者:下川裕治(しもかわ ゆうじ) 1954年、長野県松本市生まれ。ノンフィクション、旅行作家。慶応大学卒業後、新聞社勤務を経て『12万円で世界を歩く』でデビュー。著書に『鈍行列車のアジア旅』『不思議列車がアジアを走る』『一両列車のゆるり旅』『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編』『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』『週末ちょっとディープなタイ旅』『週末ちょっとディープなベトナム旅』『鉄路2万7千キロ 世界の「超」長距離列車を乗りつぶす』など、アジアと旅に関する紀行ノンフィクション多数。『南の島の甲子園 八重山商工の夏』で2006年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。WEB連載は、「たそがれ色のオデッセイ」(毎週日曜日に書いてるブログ)、「クリックディープ旅」、「どこへと訊かれて」(人々が通りすぎる世界の空港や駅物)「タビノート」(LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記)。 |