ブルー・ジャーニー
#69
バリゴッティ あの角の向こうへ〈5〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
続・部屋の中の遊歩
Kさんが自分の人生を絵でたどり始めたのは80歳になったときからだった。話しを聞きたくて金山を訪ねたとき、生家から出発した絵は600点を越えていた。
「習うと絵じゃなくなる」からすべて自己流。下書きはいっさいなし。油性のボールペンで直接、紙に書きつける。
「失敗したと思うことはありますか?」
「失敗っていうのはねぇのよ。あまりよくできねぇっていうのはあるけどね」
下書きなし、失敗なし、現実に夢や想像を織りこむ。Kさんの絵の描き方を聞いていると、どうしたって、その人生と重ね合わせたくなる。
1922年(大正11年)6月28日、山形の山林王の3男2女の末っ子としてKさんは生まれた。
幼少のころ、父親が家の近くに私設ゲレンデを開設。ふたりの兄や仲間たちと腕を磨き、中学進学後、ノルディック競技を開始。蔵王スキー場通いが始まった。
「毎年3カ月ぐらい泊まっていたな。蔵王はおれの、いわゆる田舎。おれは蔵王に育てられたんだ」
北海道大学に入学、スキー競技をつづけたが、21歳のときに学徒徴集で入隊。配属されたのは海軍254戦闘機隊。愛機は零式戦闘機、通称ゼロ戦。
両親に宛てて辞世の手紙を書き、酒を断った。
「軍隊っていうのはやけ酒がおおいだろ。よけいに飲んだのは、みんな死んだんだ」
「少尉」「はい、なんでしょうか」
23歳のときだった。
「こんどはちょっと遠いぞ」「沖縄ですか?」「いや、もうちょっと遠い」「じゃあ、台湾ですか?」「残念ながら、もうちょっと遠い」
新たな赴任先はベトナムの東、現在、国際的なリゾート地として知られる海南島だった。
「言うこと聞かなかったから、とばされたんだな。しゃくだから長崎で遊んでいたら見つかっちまってな。けっきょく、現地に着くまで2カ月ぐらいかかったかな」
1945年(昭和20年)1月5日16時53分、電探(電波探知機)が上空に編隊が飛来したことを探知。
「サイゴン方面に向かっている味方の飛行機だろう」
「そんなこと、上がってみないとわからないじゃないか」
ひとり飛び立ったKさんが見たのは敵の編隊だった。戦闘は14分後の17時7分に終了。遅れて飛び立った8機のうち、生還したのは5機だった。
「戦争には“戦”と“争”があんだ。“戦”は空中戦とか目に見えるもの。“争”っていうのはこころの争い。おれなんかは“戦”がほとんど。“争”をやったのはガダルカナルに行って餓死したり、内地で空襲を受けて逃げまどったりしたひとたちだ。両方が合わさって戦争であって、おれにはおれの戦争しかわからない。となりのやつはとなりのやつの戦争をしていたんだ」
「よくもどってきたな」。復員したKさんに父親は言った。「せっかく生きて帰ってきたんだから、なにもしなくてもいい。遊んでろ」
生家のすぐちかくの龍馬山(標高521メートル)に取りついてみたところが、岩の質がもろく、途中からほぼ絶壁。頂上をめざすしか、逃げ道はなかった。「なんとなく登ってみたんだ。戦闘機に乗って死ななかったんだから、なにをやっても死なないんじゃないかと思ってな」
ほどなくして金山を離れ、札幌に1年滞在し、それから銀座で7年を過ごした。プロ野球の大スター、青田昇や別所毅彦、ボクサー、ピストン堀口らと遊び、金山の実家の屋号が入った番傘をさして雨の並木通り闊歩した。
前後してスキーを再開。大会に出場し、頼まれれば指導もしたが、スキー界はオーストリア派とフランス派の技術論争のまっただなか。
そんなこと、どっちでもいいじゃないか。嫌気がさし、「スキーをすぱっとやめて」鉄砲打ちに転進。作家の戸川幸夫と知床半島でトドを追った。
このころ、新庄の駅前に250坪の土地を購入、マツダのディーラーを始めたが「頭金が入ると鉄砲打ちに行き、月賦を取り立てなかったから」2年半で2500万円の赤字を出し、倒産。
「まあ、大損したけどな、この間の人間勉強は、おれの礎になったんだ」
転機はオーストリアからやってきた。
1963年(昭和38年)、オーストリアスキーの礎を築き、世界のスキー指導の中心的存在となっていたシュテファン・クルッケンハウザー教授が来日。苗場スキー場で開催された研修会で、Kさんはそのチーフ・アシスタントを務めることになった。
クルッケンハウザー教授はKさんを「わが息子」と呼び、言った。
「技術はもういい。すでに持っているのだから。スキー学校をやりなさい。教えるためには教える場が必要なんだ」
「やりたいと思いますが、やりかたがわかりません」
「それならわたしのところに来なさい」
翌年、Kさんはクルッケンハウザーがいるオーストリアスキーの総本山に「飛んでいった」。42歳という年齢は、まったく頭のなかになかった。
「わが息子よ、スキーはへたな人ほど速く滑る。じょうずな人ほどゆっくりゆっくり下りてくるんだ。ゆっくり滑る方法を知っているからだ」
「わが息子よ、スキーの楽しさは滑ることではない。雪の上で体を動かすことが楽しいんだ」
「わが息子よ、スキーほど正直なものはない。うしろを振り向けば、跡がついている。スキーから先はなにもない。無だ。自分が思うかぎりの自由がある」
「わが息子よ、遊びは一生懸命、しごとは適当にやるものだ。なぜなら一生懸命というのは自分本位なものだからだ。しかし、仕事はそうはいかない。やりつづけなければならないからだ」
間口が広く、奥行きが深く、どこか味のある指導をしたい。10人にひとり、100人にひとりができるような技術を教えるのではなく、だれもがスキーを楽しめるような指導をしたい。Kさんのなかに漠然とあったイメージは、クルッケンハウザーの言葉をとおして、少しずつ具体的なものになっていった。
「クルッケンハウザーがいなかったら、おれはどうなっていたかわからんな。クルッケンハウザーを信奉してから、迷ったことは一度もない。迷うっていうことは信ずるものを失ったときだから」
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |