ブルー・ジャーニー
#66
バリゴッティ あの角の向こうへ〈2〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
地上の線
冬、スキー場に向かうとき、山に近づき、雪が見えると、スキー場に向かっているのだから雪が見えて当たり前なのに、かならず言ってしまう。「あっ、雪だ」。何度スキー行を重ねても、いくつになっても。
海も同じだ。曲がり角の向こうは海だとわかっているのに、思わず歩調をゆるめ、あるいは立ち止まってしまう。歩く速さを変えずにそのまま通りすぎることはできない。
波打ちぎわを歩いているひとがそこここに見える。
どの足どりもゆっくりしていて、時折、立ち止まって水平線を眺め、足下に視線を落とし、また歩き始める。
目の前を通り過ぎていった、初老の男性の後ろにつく。
ぼくの精いっぱいの「ゆっくり」よりもはるかにゆっくりで、どんなにつぎの一歩をがまんしても追いついてしまう。
立ち止まって距離を開け、歩き始めるとまた追いついてしまい、そんなことを繰り返す。
前を歩いている人に追いついてしまわないよう、ぶらぶら歩けるようになると――そのために丸一日使ってしまったけれど――色々なことが目に入ってくるようになる。
背筋がピンと伸びた70歳前後の女性の、日課の散歩の目的地が東のはずれのカフェだったこと。丘に向かう途中の家に住んでいる女の子が双子だったこと。何度もすれちがっていた男性が、入り組んだ路地の奥にある魚屋の主人で、ものすごく愛想がいいこと。どうしても見つけられなかったスーパーマーケットが、それまで何度も通り過ぎていた生け垣の裏側にあったこと。ふたりの兄弟がその店を経営していること。レジを担当している弟は、一見、とっつきにくそうだけれど、時々、吹き出してしまいそうなしぐさを見せること。車の乗り入れが禁止されている町の中を走り回っている軽トラックが、その店の配達の車だったこと。その車を運転する、太い腕にタトゥーを入れた若者は、お得意さんの家の合い鍵を持っていること。そしてその若者が、山の中腹のガレージを改造した家に住んでいること。
もしも、波打ちぎわを歩いているひとや、70歳前後の女性や、双子の女の子や、魚屋の主人や、スーパーマーケットの兄弟やタトゥー入れた若者が、いっせいにべつの人間に入れ替わったら、バリゴッティは、きっとべつのものになってしまうだろう。
つまり、その人たちの存在に気づく前のぼくは、バリゴッティにいなかったということになる。
バリゴッティは並行して延びる国道を車で走れば、5分足らずで通り過ぎてしまうような小さな町で、特別なものはなにひとつない。半日足らずで、すべての路地を歩き尽くすことができるが、どうしてなのか、いくら歩いても飽きることがない。
小さいころ、家の前の道が遊び場だった。長さは約200メートル、幅は車一台が通れるほど。言葉にすればただそれだけの砂利道だったけれど、立ち並ぶ家のコンクリートブロックの塀の上を小走りに伝ったり、家の1階の屋根の上に隠れたり、庭から庭へと走り抜けたり、毎日のように缶蹴りをしたけれど、飽きることはなかった。
自転車を買ってもらってから、行動範囲は一気に広がったが、いつも近所の友だちと競うようにペダルを踏んでいたので、道の両脇の景色はほとんど目に入らなかった。
自転車は1年も乗らないうちに盗まれ、やがて中学に電車で通学するようになり、砂利道は、家と駅を結ぶ線の一部になった。
不意に、どこにいるのか、どこに向かっているのかわからなくなり、足を止め、ぼんやりと立ち尽くす。
初めて訪れた場所や、大都会で迷うのは当たり前のことで、そういう感覚ではない。
かつて道はどこにもなかった。
なんらかの意志にしたがって、地上に線は引かれ、引かれた線の上にさまざまな意志が積み重なり、道は形づくられていった。
効率を求めれば、道は直線になる。ヘンリー・ディビッド・ソローは「道は馬と商売人のためにある」と顔をしかめたが、ここバリゴッティの路地は、その対極で柔らかな曲線を描いている。歩きつづけるうちに、その物語に吸いこまれ、だからぼんやりしてしまうのだろう。
カナダの西海岸に浮かぶバンクーバー・アイランドを北東の端から南西の端に向かって縦断したときだった。
海岸線を離れて、内陸に入り、“大聖堂の森”と呼ばれる温帯雨林(レイン・フォーレスト)に差しかかったとき、時計の針は夜中の12時をまわっていた。最後の町並みを通り過ぎてから30キロ余り走っていた。ずいぶん前から1台も車を見ていなかった。
路肩に車を停め、ドアを開けると、緑の匂いを含んだ冷たい空気と深い静けさが流れこんできた。
樹齢800年、平均約60メートル。道の両側にそびえ立つダグラス・ファー(米松)の巨人のようなシルエット。苔をまとい、無数のしわが刻みこまれた樹皮は亀の甲羅のように固く、一直線に伸びた幹ははるか頭上で枝を広げ、その向こうに丸い月が浮かんでいた。
森の中に踏み入り、2、3メートル進むと、月は重なり合った枝の向こうに隠れ、あたりは真っ暗になった。
腐った木の葉、柔らかな苔やシダ類が厚く積もった地面は、ふわふわ柔らかく、頼りなかった。
ピシリ。
踏み折った小枝の音に足が止まり、思わず片ひざをついた。どうしてもそれ以上進むことができなかった。
引き返すと、ずいぶん森の奥に入ったと思っていたのに、車はすぐ近くに止まっていた。ぼくが地上に引いた線は、蛇行しながら15メートル足らずで終わっていた。
(次回へ続く)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |