越えて国境、迷ってアジア
#51
香港~中国・シンセン
文と写真・室橋裕和
「一国二制度」のもと、異なった政治体制で統治されている中国と、香港・特別行政区。かつては香港から大陸シンセンに渡ると、荒っぽい人民の群れからきつい洗礼を受けたものだが、時代が代わったいま境界の街の空気は一変した。電子決済の整備が世界でもとくに進む街として発展を遂げていたのだ。
香港の摩天楼の足元で
香港ほど、ビルと地下鉄網と無数の港とが一体化し、ひとつの生きもののように脈動している街を、僕はアジアではほかに知らない。土地が狭く山がちのため、どうしても街は高層化していき、地下空間と絡み合って複雑になっていく。のっぺりと広い東京よりも、さらにギュッと圧縮された印象なのだ。
その迷路をさまようのは楽しい。地下鉄駅からきらびやかなショッピングモールに入り、表に出ると今度は古びた粥の店が現れたりする。ランニング姿のおやじがくつろぐ屋台街から空を見上げれば、摩天楼が天を突いている。それは日本人がかつて想像したサイバーパンクの世界に近いかもしれない。
香港島の夜景はやはり特別だ。何度見ても新鮮な感動がある
返還前のシンセンはとっても疲れる街だった
そんな香港中心部から地下鉄でおよそ1時間北に走れば、そこはもう中国との境界だ。よし、と覚悟を決める。この先は洗練された香港とは違う、荒くれた人民たちの世界。
かつて香港がイギリスの植民地だった20年以上前にこのポイントを越境したときは、イミグレそばにあるシンセンの駅頭はゴミだらけで、行くあてのない盲流たちがとぐろを巻く不穏な雰囲気だった。列車のチケットを取るために厳しい暑さの中えんえんと人民の海に揉まれ、ようやくたどり着いた窓口は英語ひとつ通じず、目的地を漢字で書いて見せても怒鳴られて追い払われたことをよく覚えている。けたたましく罵りあう人々、もうもうたるタバコの煙、一面に捨てられたピーナッツの殻、大声で客を呼ばわる無数の物売り、すばしこい浮浪児……その当時の大陸・中国は、人間ひとりひとりが発散するガサツなエネルギーがむんむんと満ちていた。庶民の肉体から湧き出る得体の知れない湿度というか熱気に圧倒されて、ボロボロに打ちのめされたものである。
紳士の国イギリスの植民地から、修羅の国へ……決意を持ってこれまでに何度かシンセン河を越えてきたが、97年の返還、シンセンを中心とする周辺地域の工業団地化、そして急速に経済成長を遂げた中国にあって、雰囲気はずいぶんと違うものになった。
この日は4年ぶりの訪問になるかと思うが、シンセンのイミグレを出てもさほど香港側と変わりはない。やや薄汚れているのと、密集した香港に比べると広場も建物もどかーんと大陸的な大きさだということが差だろうか。あれほど人民が蝟集していた駅前もさっぱりしたもので、歩く人々の顔からも昔のような険がない。やっぱり経済力という背景から来る余裕なのだろうか。
シンセン側のイミグレーション。鉄道駅、バスターミナル、地下鉄と一体になっている
大陸側に渡って感じるのはそのデカさと広さ。とにかく街の造作が大きい
電子決済が普及した未来都市
そんな新しい時代の中国の象徴が、シンセンの至るところで見られる。QRコードだ。中国はいまや電子決済の先進国であり、スマホで店頭のQRコードを読み取って金額を入力して支払いができるキャッシュレス社会となっていると聞いてはいた。
実際に歩いてみると確かにその通りで、コンビニでも駅の売店でも、あるいはぶっかけ飯を出している極めて庶民的な食堂でも、「Alipay(支付宝)とWeChatPay(微信支付)のQRコードが提示され、大半の人は現金を使わずに決済しているのであった。道端のパイナップル売りも、あるいは地下道でブルースハープを演奏しているミュージシャンも、QRコードに対応している。香港でもかなりの部分このシステムが普及してはいたが、中国に入るとその数はさらに増えた。
とはいえ、当たり前だが完全キャッシュレス化されているわけでもなく、現金はどこでも使えた。地下鉄のチケットを売る券売機は現金も使えるし、商店やレストランでボロボロの中国元の札を出しても別にいやがられるわけではない。日本では「中国は現金での支払いには対応しなくなってきている」なんて報道も見聞きするので心配だったが、スマホ決済の手段がなくてもとくに問題はなかった。
しかし街のあちこちに置かれたシェア自転車はやっぱり乗れたら便利だろうなあと思った。これも自転車にQRコードが取りつけられていて、読み取ると解錠されるのだ。どこでも乗り捨てできるので、身近な足として一気に普及、黄色い鮮やかな「モバイク」が街の風景に欠かせないものとなったのも、シンセンの大きな変化だと思う。
小さな商店でもQRコードは完備されている。この点で中国は日本のはるか先を行っている
QRコードを使って乗るシェア自転車モバイクはあらゆる街角に置いてあるといっても過言ではない
地上69階から見るシンセンと香港
シンセンのランドマークのひとつである地王大厦の1階の受付に出向くと、優しい笑顔の受付嬢が展望台のチケットを売ってくれた。ちゃんと英語だって通じる。昔の中国だったら無愛想に「没有」とか言われて無視されていたかもしれない。
やはり各所で待機している展望台への案内をするスタッフも、いちいち親切なのである。あの厳しい人民はどこへ行ってしまったのか。
エレベーターは極めて快適なスピードで上昇し、展望台から広がる絶景に僕と田舎から上京してきたと思われるカッペはともに声を上げた。69階からはシンセンの摩天楼がすべて見晴らせた。目が眩む。
そして先ほど通過してきた羅湖イミグレーションの赤い建物もばっちり見えるではないか。その向こう、シンセン河の対岸は香港だ。かつての国境、現在の境界線が一望のものだった。ついつい興奮してしまい、展望台の360度すべての方角にカメラを向け、あいにくの天気ではあったが美人モデルの撮影よりも熱心にシャッターを切りまくった。親切な係員も怪しむほどの執拗さで両岸と対面し、たっぷり1時間も過ごして、大満足でビルを後にした。
今後もこの境界線は激しく変わっていくだろう。定点観測していきたい場所のひとつだ。
地王大厦の展望台から。中央奥の赤い建物が中国側のイミグレーション。川が境界だ
*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」
*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!
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発行:双葉社 定価:本体1600円+税
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室橋裕和(むろはし ひろかず) 週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。現地発の日本語雑誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを担当、アジア諸国を取材する日々を過ごす。現在は拠点を東京に戻し、アジア専門のライター・編集者として活動中。改訂を重ねて刊行を続けている究極の個人旅行ガイド『バックパッカーズ読本』にはシリーズ第一弾から参加。 |