台湾の人情食堂
#49
わたしの台北 街ものがたり〈1990年代〉
文・光瀬憲子
台湾と関わるようになって25年以上が経過した。私の台湾観はそのときどきの街の風景とセットになって記憶されている。その思い出はときには甘かったり、またときにはひどく苦かったりした。今回から数回に渡り、私の中の台北ストーリーテリングを試みたい。
90年代の台北駅前(左)と新光三越(右)。今は取り壊された歩道橋からバスとタクシーが広い道路を埋め尽くす様子は、日本映画『愛を乞う人』(1998年、平山秀幸監督、原田美枝子主演)で観ることができる。筆者のデビュー作『台北で暮らす』(2000年、双葉社刊)より
『新光三越』と『そごう』が心のよりどころ
初めて台湾を訪れた頃、台北で一番高いビルは新光三越という台北駅前のビルだった。1992年の頃だから、今から25年も前である。威風堂々とした台北駅もさることながら、私はこの三越ビルが大好きだった。日本を離れて暮らしていたので、「三越」という名前のついたビルが自分の故郷みたいに思えたのだ。
三越ビルは上層階はオフィスビルだったが、1階から13階までがデパートになっていた。そして、展望台からは台北市全体を見渡せたので、台北で暮らし始めたばかりの私にとっては、今でいうGoogle Mapよりもずっとリアルに、台北の地理をインプットすることができたのだ。
現在の新光三越の上階から南方向を見ると、昔と変わらない中正紀念堂の姿が
眼下に見える現在の台北駅は、在来線だけでなく、高鉄、MRT、長距離バス乗り場を兼用している
新光三越に代わる新たなランドマーク、台北101がそびえる東地区はおしゃれなデパートやシネコンがひしめく新興ビジネスエリア
もうひとつのランドマークはやはり日本のデパート「そごう」だった。1980〜90年代の台北市の中心はまだ台北駅とその周辺だったが、忠孝東路にできたばかりのそごうデパートは、あっという間に台北市の新しいシンボルとなった。まだ外資系デパートが少なかった台北で、そごうは大いに賑わった。
1階の化粧品売り場ではシャネルだの、資生堂だのといったブランド化粧品が日本よりも高い値段で売られていた。バイクで走れば顔がすすけて黒くなるような台北の街で、そごうデパートや三越デパートはキラキラと輝いて見えた。
ランドマークの座は台北101に譲り渡したが、新光三越デパートは今も健在
日本の味はまだ遠く
今でこそ台北の夜市や食堂で地元の人たちと同じものを何でも食べる私だが、台北で暮らし始めた頃はまだ台湾の食事に慣れず、そうかと言って今のようにおしゃれな洋食店や日本のラーメン屋さんも少なかったので、そごうの地下で日本食品を仕入れては自分のアパートで味噌汁などを作り、日本の味を懐かしんでいた。
当時から日本を訪れる台湾人は多く、台湾を訪れる日本人も多かったが、台北市内に『一風堂』ができたり、日本で魯肉飯が流行ったり……といった食文化の行き来はなく、やっぱり台北は異国の地、というイメージが強かった。
当時の台湾の若者たちはなんとなく垢抜けない感じで、子供っぽかった。大学生なのに日本の高校生みたいな服装で、女の子は化粧っ気もなく、男の子も着るものにこだわらない野暮ったい子たちばかりだった。
そして、大学生たちはどこへ行くにもバイクにまたがり、マスクをしていた。ヘルメットはかぶっていなかった。取り締まりが厳しくなったのは90年代半ば以降だ。私自身、原付の運転は台北で覚えた。中古のバイクを買って乗り回していたけれど、免許はアメリカで取得したものだった。いまだに、日本で原付に乗ったことは一度もない。
台北は今でこそコンビニで日本のペットボトルの緑茶や無糖烏龍茶が買える。しかし、90年代の台北ではまだ烏龍茶や緑茶に砂糖が入っていたし、日本のお菓子よりも台湾のお菓子のほうがたくさん棚に並んでいた。
飲料の甘さは、その国の経済成長と反比例する、と聞いたことがある。つまり、経済が発達するほど人は甘みを求めなくなり、コンビニのお茶やコーヒーが「微糖」や「無糖」になっていくのだと。確かに、当時の台湾はまだ成長過程にあり、お茶もコーヒーも甘ったるかった。
林森北路の栄枯盛衰南
私が台北で暮らそうと決心した22歳の頃、最初に住んだアパートは林森北路という台北市内の繁華街にあった。林森北路は70年代から80年代にかけて日本人向けのバーやスナックが軒を連ねた場所だ。
日本から来たビジネスマンや駐在員たちを相手に、片言の日本語を話す台湾人女性たちがお酒を振る舞う。店名も『かよこ』とか『さくらんぼ』などというもので、もちろん日本のカラオケもあった。つまり色っぽいエリアだったわけで、そんなところに私が居を構えたのは、私の父の事務所が林森北路にあったからだ。
父は80年代にビジネスでもプライベートでもどっぷり台湾にハマった日本人男性だった。まだ二十歳を過ぎたばかりの私にそんな事情がわかるはずもなく、父に勧められるがままに林森北路で寝泊まりをしながら、台北の語学学校で北京語を学んだりしていた。
だが、林森北路の栄華は20世紀の終わりとともに目に見えて廃れていった。陳水扁という、後の台湾総統が台北市長になった1990年代の半ばから後半にかけて、台北の街はぐんぐんと近代化が進んだ。いかがわしい林森北路のバーやスナックは姿を消し、代わりに大きな公園ができた。
艋舺(万華)の紅い燈
台北西部の下町・艋舺(万華)の赤線地帯も撤去が始まり、行き場を失った女性たちがたくさんいた。当時、元夫と付き合って1、2年くらいだった頃だろうか。私は彼とその友だちに連れられて、赤線地帯を見学に行った。見学と言っても、車でこっそりそばを通っただけだ。彼らは「もうすぐ赤線地帯が消える」と知って、冷やかしに行きたかったようだ。
90年代に廃止された艋舺の赤線地帯の残り香が感じられる、現在の廣州街×悟州街辺りの裏路地
私は路地裏に怪しく光るピンク色の風景をいまだによく覚えている。あまりに小さな、掘っ立て小屋のような建物の入り口がぼんやりネオンで光っていて、そこにお姉さんともおばさんともつかぬ女性が数人立って雑談をしていた。こんなに古くて、怪しい建物なんか、取り壊されて当然だと当時は思った。悪所と呼ばれようとも、なくなると誰かが困る場所であることなど、そのときの私には思いもよらなかなかったのだ。
街が洗練されることは、何かを失うこと
学生の頃はそうやって近代化されている台北をうれしく思っていたけれど、実は90年代は台北から大事なものが少しずつ抜け落ちていった時代なのかもしれない、と今は思う。道端に吐き捨てられた檳榔混じりの真っ赤な唾液とか、一家4人でバイクに跨るたくましい家族とか、前後不覚になるほど酔っ払ってどちらが支払いをするか揉めるおじさんたちとか。
台北にスターバックスができ始めて、時代がミレニアムを迎える頃、私の北京語はだいぶ上達していたけれど、台北から檳榔の店は激減し、バイクの数もだいぶ減っていた。
筆者が台北で暮らし始めてから1998年に結婚するまでの日々を綴った『台北で暮らす』のカバー写真。
派手な結婚写真文化は今も変わっていない
急激な近代化が進む台北で、私はようやく台湾人の夫と入籍の手続きを済ませ、開通したばかりのMRT木柵駅のそばに新居を構えた。台北はこれからどんどん住みやすくなり、もっと好きになれるはずだと、私は期待に胸を膨らませていた。
(続く)
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著者:光瀬憲子 1972年、神奈川県横浜市生まれ。英中日翻訳家、通訳者、台湾取材コーディネーター。米国ウェスタン・ワシントン大学卒業後、台北の英字新聞社チャイナニュース勤務。台湾人と結婚し、台北で7年、上海で2年暮らす。2004年に離婚、帰国。2007年に台湾を再訪し、以後、通訳や取材コーディネートの仕事で、台湾と日本を往復している。著書に『台湾一周 ! 安旨食堂の旅』『台湾縦断!人情食堂と美景の旅』『美味しい台湾 食べ歩きの達人』『台湾で暮らしてわかった律儀で勤勉な「本当の日本」』『スピリチュアル紀行 台湾』他。朝日新聞社のwebサイト「日本購物攻略」で訪日台湾人向けのコラム「日本酱玩」連載中。株式会社キーワード所属 www.k-word.co.jp/ 近況は→https://twitter.com/keyword101 |