ブルー・ジャーニー
#48
アラスカ 北極圏の扉につづく道〈4〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
ただ鍵穴に目を押しつける
カーブを抜けると、いましがた見た景色と変わらぬ景色が広がる。
空、森、雪。
つづくカーブを抜けても。そのつぎを抜けても。
走りつづけるうちに、“いましがた”と“いま”と“つぎ”が重なり、混じり、溶けていく。
アラスカ。コユーコン族が“春のまだ固い大地の月”と呼ぶ4月。
フェアバンクスを出てから約7時間半後、17時を過ぎたころ、地球上でもっとも北に位置するトラック・ストップ、コールドフットに到着。
これまでの最低の気温はマイナス63度、最高気温は36度。現在はプラス7度。列車のように巨大なトラックのあいだを、トレーナー姿の子どもがマウンテンバイクで走りまわっている。
顔の半分ほどもあるハンバーガーをオレンジジュースで流しこみ、20キロあまり北の、人口21人の村、ワイズマンに向かう。
1904年(明治37年)、フランク安田、妻ネビロ、鉱山師カーター、エスキモーの若者セニックとタカブックは、2台の犬ぞりで北米大陸最北端の地、ポイント岬を出発。凍りついた海の上を430キロ離れたフラックスマン島まで走り、ウミアク(大型の革張り船)に乗り換えてカニング川を約160キロ遡上。これ以上は進めないというところで荷物を皮袋に分け、自分たちと犬たちの背中に乗せて、ロッキー山脈の北の端に連なるブルックス山脈を越えた。
――そこには、人が歩く道がちゃんとついていた。草原を越えて、山地へ入ると道は更にはっきりしていた。峠に立つと、足下に町が見えた。カーターは溜息をついた。フランクとミナノ(※旅の途中で知り合った日本人)は原始の森の中に出現した金鉱の町に驚きの声を上げ、そして、他の四人は、生まれて始めて見る町と、そこからはっきりと聞こえて来る様々な雑音に恐怖の色を浮かべた。
ワイズマンは金鉱の基地の町となっていた。その付近には大きな金鉱が五つもあった。金鉱で働く者を対象として出現した町にはあらゆる種類の需要と供給の商売が並び立ち、あらゆる善と悪が雑居していた。(『アラスカ物語』新田次郎著)
1868年(明治元年)、安田恭輔は宮城県石巻町に、医師の3男として生まれた。14歳のときに母が、翌年父親が病死し、三菱汽船石巻支店に就職。19歳のとき、船員の試験に合格。アメリカ航路で2年働き、下船。サンフランシスコ近郊の農場、化粧品製造会社の末端での労働を経て、アメリカ沿岸警備船ベアー号にキャビンボーイとして乗船。22歳、“フランク安田”を名乗った。
3年目の冬、凍結した海に閉じこめられたベアー号を助けるために、11月の北極圏をポイント岬に向かってひとり徒歩で出発。地平線をなめるように消える太陽と星を頼りに、230キロを16日間かけて歩き通し、37人の乗員を救うことに成功したが、露骨な人種差別に下船を決意。エスキモーの村で暮らし始めた。
寡黙で裏のない性格、射撃の腕を見こまれて、29歳のときに鯨猟の組頭に選ばれたが、白人の密漁船の乱獲で漁獲高が激減。さらに白人が持ちこんだ麻疹で500人の村人のうち、娘のキョウコを含む120人が死亡。
集落のリーダーに推されたフランク安田は、生き延びるためには移住するよりほかに方法はないと考え、資金を得るために、カーターの金鉱探しに参加。川や沢や滝壺を渡り歩いた。
生活のためにワイズマンのレストランで2度目の冬を過ごし、3年目の1905年(明治38年)、38歳の夏、シャンダラー川の流域でついに金鉱を発見。カーターによってシャンダラー鉱山が設立された。
――インディアンが最も嫌っているのは、白人ではない、エスキモーだ。インディアンは、生肉を食うエスキモーはもっとも劣等な人間であり、神の教えにそむく人間だと思っている。そのインディアンの縄張りの中に、エスキモーが大挙して踏みこんで来たら、流血の悲劇が必ず発生する。(『アラスカ物語』新田次郎著)
急いでポイント岬にもどり、飢えと病に苦しむエスキモー200人余りをつれて800キロを移動。インディアンの酋長アチシュックとの交渉を成立させ、ワイズマンの南西200キロ、ユーコン川のほとりに切り開き、小屋を建て、ゼロから興したビーバー村への移住に成功した。
川の浅瀬を横切る1本道を、ワイズマンにひっそりと点在するログキャビンのひとつ、ヒッカー夫妻宅へ向かう。
「こんにちは」
「どうぞーっ」
手作りの見本のような室内に、主人の速射砲のような話し声が響く。
「2、3日前にやっぱり日本人がこの村に来ていたよ。自転車に乗っていた。去年はまたべつの日本人が来た。写真家だって言って、オーロラを熱心に撮っていたっけな」
夫人にお茶をすすめられる。主人とは対称的に大柄で物静か。走りまわっているシンシアは4歳。
ドイツ人のヒッカー夫妻がワイズマンに移り住んだのは10年前。家の裏手に建つキャビンでB&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)をやっているが、主たる生活の手段はハンティング。
「ムースの舌はおいしいよ。30センチぐらいあってさ、2、3日はそれで食っていける」
テーブルの上のクッキーをひとつ手に取って、そろそろ近づいてくるシンシアに差し出す。
「ヴィー・ゲート・エス・イーネン?(ご機嫌いかが?)」
キャハーッ。警戒心が笑顔に塗り替えられる。
主人の独演会がつづく。
今日の裏山の新雪の深さのすばらしさについて。カリブーの捕り方について。デンマークの空港のひどさについて。1900年代のワイズマンの様子について。冬のために用意しなければならない薪の量について。
息継ぎをねらって聞く。
「どうしてアラスカに?」
5行分ほどの沈黙。
顔の半分を歪ませ、主人は静かに答えた。
「I just like here」
しばらく待ったが、それ以上、言葉は出てこなかった。
別れ際、シンシアから絵文字が書きこまれた紙を手渡される。
「ダンケシェン」
「ビッテシェン」
ビーバー村は発展をつづけた。1908年(明治41年)に船が桟橋に着くようになった。政府からの援助金で馬走路が建設され、馬車が入ってくるようになると人口は300人を越えた。1913年(大正2年)には郵便局、公立の学校つくられた。
1920年(大正9年)の飛行場の完成を境に、金の価値が降下。シャンダラー鉱山の経営も下り坂に入ったため、1925年(大正14年)、カーターは鉱山の権利を売却、アメリカ本国にもどった。
ミンクの養殖の失敗、農場経営の失敗、交易所での支払いを望めない掛け売り。カーターから受け取った5万ドルは村人のためだけに使い尽くされた。
1942年(昭和16年)日本海軍がオアフ島真珠湾のアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地を攻撃。
年が明けて1月、フランク安田は、逮捕令状を手にした警官に連行された。
学者、宗教家、知識人の嘆願の声は政府に聞き入れられなかった。フェアバンクスを皮切りに、アンカレッジ、ワシントン州タコマ、テキサス州ヒューストン、ニューメキシコ州ローズバーグ、同州サンタフェと、収容所生活は長期に及んだ。
1946年(昭和21年)、ビーバー村にもどってきたとき、フランク安田は78歳になっていた。多くの若者が村を出て行き、人口は激減していた。
収容所でのことはいっさい口にしなかった。以前とおなじように人のために生き、1958年(昭和33年)、一度も日本に帰ることなく、90年の生涯をビーバー村で終えた。
ブルックス山脈の懐に広がる“北極圏の扉国立公園”に向かう。
時計の針は11時を過ぎているが、暮れきっていない。
カーブを抜けた瞬間、想像力の届かない世界に放り出される。
車から離れ、ひざをつく。
淡く深いブルーの世界。
耳が痛いほどの静けさ。
月光に包まれて眠るカリブーの群れ。
ただ鍵穴に目を押しつける。
(アラスカ・北極圏編、次回最終回です)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |