ブルー・ジャーニー
#45
アラスカ 北極圏の扉につづく道〈1〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
単調の中にこそ
「ごちそうさまでした」
「おあいそですか。ありがとうございます。少しお待ち下さいね」
和服を着た細身の中年女性は、上品な口調でそう答えると、小走りにレジに向かった。
4月半ば、アラスカ州アンカレッジ。ダウンタウンの片隅の、聞き慣れない演歌が流れる日本食レストラン。
「こちらへはお仕事でいらしたのですか?」
「はい」
「失礼ですが、どのようなお仕事を?」
「文章を書いています。今回はアラスカの紀行文を書くために」
「あら、それじゃあ星野道夫さん、ご存じですか?」
「はい。この旅にも1冊持ってきています」
「星野さんはうちの主人ととても仲がよかったんです」。女将さんはそう言って、カウンターの向こうの男性を見た。「アンカレッジに来たときは、いつも来てくれていたんですよ」
「そうなんですか。幸運でした」
海外では入ることのない日本食レストランに飛びこんだのは、アクシデントが重なって、探し歩く余裕がなかったからだった。
「またどうぞ」
ご主人のさいしょでさいごの言葉に送られて店を出る。
夜10時を過ぎているのにまだ外は明るい。
うっすらと黄昏色に染まった空は高く広く、澄み渡っている。
1778年、激しい潮の流れに苦しめられたイギリスの探検家キャプテン・クックがターナゲン湾に投錨。以後、この地はAnchorage(停泊港、投錨地)と呼ばれている。
定刻の午前8時15分、列車はアンカレッジを離れた。
北米大陸でもっとも北を走るアラスカ鉄道。開通は着工から9年後の1923年。
線路脇に立てられたマイルポストが、現在地を示す。起点は南の港町スワード。終点のフェアバンクスは470・3マイル(約756キロ)。
アンカレッジ〜フェアバンクスは356マイル(約573キロ)。飛行機で1時間余りの距離を11時間15分かけて走る。
ドアが開き、口ひげをていねいに整えた車掌が現れる。
「みなさんにご注意申し上げます。車両間を移動するときは、ドアを静かにゆっくり閉めて下さい。強く閉めると反動でドアが開いてしまいますので」
つづけて、実演。
「これで指をはさんだ人がいるので、くれぐれもご注意ください」
乗客の笑顔を確認すると、満足そうな顔で帽子のひさしに軽く手を触れ、退出。ややあって、となりの車両から笑い声が聞こえてくる。
出発してから15分ほど経ったころ、ふたたび車掌が登場。
「このあたりはムースがよく出るところです」
かすかな陰影を含みながら、どんな白より白い雪の白。豊かさは単調の中にこそあるのだと思える。
ブレーキの音が鳴り響き、列車が急停止。
車掌が登場。
「ただいま、列車がムースと衝突しました」
どよめく乗客を見まわすと、満足そうな顔で帽子のひさしに軽く手を触れ、「うそです」。ドアを後ろ手でそっと閉め、退出。ややあって、となりの車両から笑い声。
犬を連れた人が列車に向かって笑顔で手を振っている。よろこんで走りまわっていた犬が勢いあまって線路の上に侵入してしまった、ということらしい。
冬の間、深い雪をきらうムースが線路上に入りこむことはめずらしくないが、どくのを待つわけにはいかないので、ブレーキをかけることはない。汽車のフロント部分は、衝突に備えて、除雪車のショベルのようなものでガードされている。はねられたムースは、物陰で待ち受けるオオカミの胃に収められる。
ふたたび列車が止まる。
ムースではなく“リクエスト・ストップ”。
アラスカ鉄道には、かつてアメリカ各地にあったルール、“フラッグ・ストップ” 及び“リクエスト・ストップ”が残されている。線路脇で白い旗を振る人がいれば、列車を止めて乗せ、リクエストがあれば、列車を止めて降ろす。
雪原に降り立った、バックパックを背負った中年の男性のすがたが遠ざかっていく。周囲には原野の広がりがあるだけで、生活の気配は感じられない。
目を覚ますと、午後3時。なんだか、おかしい。
冷たくなったコーヒーを口に含む。
そうか。進行方向が逆なんだ。
席を立って車掌にたずねる。
「なにかあったんですか?」
「雪崩が起こって、線路が埋まってしまったんです」
「ということは、ぼくたちは幸運だったということですね」
「イエス」。車掌が表情を崩さず、つづける。「もし直撃されたら、あっという間に谷に流されていたでしょう」
「これからの予定は?」
「とりあえず近くの町にもどります。そこでバスに乗り換えてフェアバンクスに行くことになるでしょう」
「バスが来るまでどれくらいかかりますか?」
「早くて3、4時間というところですね」
「そこからフェアバンクスまでは?」
「この状況ではちょっとわかりません」
車両の雰囲気は変わらずのどかで、ひとかけらのいら立ちもない。
となりの席の足の不自由な老婦人が立ち上がり、足を引きずるようにして通路を往復し始める。「わたしにはエクササイズが必要なの」
午後4時15分。列車は除雪車とすれちがい、それから約1時間後、車掌が登場。
「ただいま除雪に成功したという連絡が入りました」
歓声と口笛。
車掌がつづける。
「ここからバスで行っても電車で行っても、フェアバンクスに到着する時間はおなじです。そこで、みなさんにおたずねいたします」。軽く咳払い。「バスで行きたいという方はいますか? もしもひとりでもバスがいいという方がいたら、即刻、全員バスといたします。しかし、全員がこのまま電車で行きたいというのであれば、希望に沿うようにいたしましょう」。ふたたび軽く咳払い。「電車で行きたいという方は挙手を御願いいたします」
「イェーイ!」
エクササイズを再開した女性が首を横に振り「私は歩いていくわ」
歓声が爆発。
午後5時30分、列車は運転を再開。アンカレッジを出てから14時間後、フェアバンクスに到着する。
黒く大きな瞳が振り返る。
30メートルほど先のブッシュの向こうから、すがたを現した雌のムース(アメリカヘラジカ)。この時期のオスは、額にふたつのコブが盛り上がっている。
“Moose”はイギリス人がネイティブの呼び名を借用したもので、正確な発音は“mong-soa”あるいは“mongsoa”。「木の小枝を食べるもの」を意味する。
ゆっくり、少しずつ距離を詰める。ムースは、嗅覚と聴覚は敏感だが、視力は弱い。目でとらえたものは怖れないが――とりわけ人間の――匂いに対しては野ウサギよりも用心深い。
濃い茶色の毛はビロードのようで、濡れた瞳がこちらをじっと見ているが、動く気配はない。もっとも警戒心の強い動物に数えられているが、まったく人を怖れないムースとの出会いも数多く記録に残されている。
約20メートル。
冬のムースはおもに小枝と樹皮を食べて生きる。空が白み始めると起きあがって食事を開始。日の出のころに終えて、4つの胃袋の中身を反芻。1時間ほど昼寝をしてから2度目の食事。反芻を終えると3度目の食事にとりかかり、薄暗くなると横たわって夜を過ごす。その眠りは、奇妙に思われるほど深いという。
天敵を危険度の大きさの順に挙げると、人間、蚊、シカバエ、マダニ、疾病、深い雪、オオカミ、熊、ジャガー。
蚊の危険は血を吸われることにあるのではなく、森から草地や水辺に追いたてられ、銃の標的になりやすくなることにある。オオカミを怖がるのは、体が沈んでしまうほど雪が深いときに限られる。
約15メートル。
400キロを超える世界最大の鹿が雪を蹴る。
「ゆったり」ではない。「悠々と」でもない。「速い」「遅い」ではまったくない。思いつく限りの言葉のなかでもっと近いのは「ふんわり」。
ずっしりと重量感があるのに軽やかな跳躍。どんどん遠ざかっていくのに四肢の動きはスローモーションのようで、跳ね上げられた雪煙さえもゆっくり舞っているように見える。
残像が薄れていく。
肺に広がる冷気が、気持ちいい。
いったいどれくらい息を止めていたのだろう?
(アラスカ・北極圏編、次回に続く)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |