越えて国境、迷ってアジア
#39
シンガポール~マレーシア・ジョホールバル
文と写真・室橋裕和
ここはアジアで最も往来が激しく、忙しい国境かもしれない。車やトラックやバイクや列車が常に行き交い、国を越えていく。そんな両国の大動脈を見聞すべく、バスに乗って国境を目指してみたのだが……。
海峡を渡るコーズウェイを目指す
ふと「ジョホール水道を見てみたいな」と思った。
マレー半島最南端と、シンガポール島の間に広がる、狭い海峡である。両岸を結んでいるのは、橋のように見えるが実は海峡を埋め立てて構築した堤だ。通称コーズウェイと呼ばれているが、これは英語で長堤の意味なのだとか。
そのコーズウェイを、僕は20年ほど前に徒歩で越えたことがある。それ以来、この国境はご無沙汰だった。いまは歩いての越境はできないと聞いていたが、それでも、海峡を眺めてみたかった。そのときはシンガポールでの取材に苦労していたこともあり、なんとなく気分を変えたかったのだ。
シンガポールからは、国境を越えてマレーシア各地に向かうバスが、それこそ数え切れないほど頻発している。しかし、それではコーズウェイを走り抜けるだけだろう。僕はコーズウェイをゆったり眺めて、浸りたかったのだ。人が唐突に、潮風に吹かれたい、山の緑に包まれたいと思うように、マニアは国境が見たくなるのである。
アジアで最も洗練された都市シンガポールは、物価の高さが本当にきつい
僕がシンガポールで根城にするのはゲイランといういかがわしいエリア。あやしい安宿がたくさんある
国境を越えて慌しく行き来する人々
最寄りの駅まで行けば、なにか国境に向かう手段があるだろう。あまり深く考えることなく、ぼくはMRTでウッドランド駅を目指した。なにせアジア最先端の未来都市である。きっと国境行きのきれいなシャトルバスかなにかが走っているに違いない。
快適なMRTは、東京で地下鉄に乗っているのと同じ感覚だ。中心部を離れると電車が地上に顔を出すのも東京っぽい。が、目的は国境だ。
狭いようでけっこう広いシンガポールを30分ほどかけて縦断し、最北端のウッドランド駅に到着する。
コンビニと、スマホショップ、チェーンの小さなレストランがいくつか、ジュースのスタンド。駅にあるのはそんなものだった。整然としたマンション群に囲まれているわりに、静かで目立つものもない駅だった。
裏手に回ると、広々としたバスターミナルがあった。行き先別に20ほどの看板が並んでいるが、そのうちのひとつ、いちばん人が並んでいるところに「Malaysia」という表記がある。ここだろう。電光掲示板には次のバスが来る時刻が表示されており、ストレスもない。いまや当たり前ではあるが、電子マネーでの決済もできる。シンガポールはなにかと楽でいい……が、やってきたバスを見て、 僕は目を疑った。朝の山手線のごとき大混雑なのである。
いまにも車体がはじけそうなくらい、詰め込まれている。これは、乗れるのだろうか……いきなりの東京モードに戸惑うが、後ろから急かされるがままに、強引に肉の壁にもぐりこんでいく。密着したインド系のおじさんの吐息がねっとりと熱い。優雅に車窓を眺めるはずだったが、それどころではない。外の様子はまったく伺えなかった。
ひたすらに息を詰めて、運搬物になりきる。社畜の皆さんには甘いと笑われるだろうが、15分ほど耐えたところでバスは止まった。重石が少しずつ除かれるように、乗客たちが降りていく。僕も続く。そこは巨大な構造物の中だった。ターミナルになっていて、同じようなバスが次々とやってきては乗客を吐き出し、走り去っていく。
とりあえずいったん外に、と思ったが、どこにも出口が見当たらない。バスから降りた人々は、大きな河の流れのように建物の奥に進んでいく。ほかの選択肢はなさそうだった。
いったいどこへ向かっているのか。不安を覚えながらも、人の群れとともに、広いロビーを歩き、何本も並んでいる上りだけのエスカレーターに乗って、上階に進む。まわりの人々は黙々と目的地に急いでいる様子で、南国の陽気さはない。
その奇妙な圧に背中を押されるように階層を上がっていくと、ぱっと空間が開けた。天井が高い。広い。彼方に30以上ものカウンターが並ぶ。そこへ人々は殺到する。制服姿の係官が、端末を操作しながら人波を次々にさばいていく。イミグレーションだった。シンガポールの出国オフィスである。
ウッドランドの駅は近未来チックだが、とりたててなにがあるわけでもなかった
たいへんな交通量のコーズウェイ。混雑の解消のために新しく橋の建設も検討されている(写真は後日、改めて撮ったもの)
引き返すことのできない国境?
いや、ちょっと待ってよ。
今日のところはマレーシアに行くつもりはないのだ。向こう側のジョホールバルに行って、また帰ってきても良かったのだが、この後でシンガポール中心部で人と会う約束があった。マレーシアと往復していては間に合わないかもしれない。今日はほんの少し、国境を見に来ただけなのだ。
出口を探す。しかしバスを降りてからここまで、ひたすらに一方通行なのである。目の前のイミグレーションのほかに道はない。立ち止まっている僕を、後ろからどんどんやってくる人の群れが追い越し、マレーシアに向かっていく。奔流のようだった。
シンガポールとマレーシアの経済の結びつきは、いまや英領マレー時代、両国がひとつの国だった頃以上に密接かもしれない。
24時間絶え間なく、血流のように人が行き来する。ビジネス、通勤や通学、海峡を越えて家族や親戚が暮らしていることも多い。
土地に限りのあるシンガポールの開発が飽和状態になったいま、新天地はマレー半島側に求められた。まだまだ未開拓の土地が広がるジョホールバルを両国で共同開発しようという計画が進められており、往来はさらにさかんになっている。
そんなジョホール国境ではどうも、ベルトコンベアのように効率的に越境者を処理していく機能性が追求されていったようだ。
「あの、シンガポールに戻りたいのですが」
警備の警官に話しかけてみる。イミグレーションのカウンター以外で、唯一フロアにいた人物だ。
「どうして戻る? それならなぜここに来たんだ。目的はなんだ。パスポートは?」
詰問されてしまう。これといった目的を持たずに、旅行者がふらりとやってくる牧歌的な国境ではないようだった。
明らかに警戒している警官にパスポートを見せ「ホテルに忘れ物をしてしまって」と言い繕った。
怪訝な顔をしながらも、警官は関係者専用の通路に案内してくれた。巨大なイミグレ施設の裏側を、右に左に上下に歩いていくと、シンガポール入国オフィスの前に出た。入国してきたばかりの人々が、今度は待ち構えているバスに乗り込み、シンガポール各地に散っていく。礼を言おうと思って振り返ると、警官の姿はもうなかった。
なんという慌ただしさなのか。ここはアジアで最も忙しい国境なのかもしれない。しかし、生きもののように激しく動くアジアの経済を観察する意味では、実に面白いポイントでもあるのだ。
こちらはコーズウェイを越えたマレーシア側ジョホールバルの街。やはり急速に発展している(写真は後日、改めて撮ったもの)
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発行:双葉社 定価:本体1600円+税
*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」
*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!
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室橋裕和(むろはし ひろかず) 週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。現地発の日本語雑誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを担当、アジア諸国を取材する日々を過ごす。現在は拠点を東京に戻し、アジア専門のライター・編集者として活動中。改訂を重ねて刊行を続けている究極の個人旅行ガイド『バックパッカーズ読本』にはシリーズ第一弾から参加。 |