ブルー・ジャーニー
#24
カナダ 水の国、夏〈前編〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
海に「包まれる」
カナダ西海岸とバンクーバー島の間を縫い、アラスカのグレイシャー湾に伸びるインサイド・パッセージ(湾岸水路)。
入り海、本湾、小湾、海峡、瀬戸、運河、大海峡、水道、澪、入り江、浦湾、湾口、そして無数の島々。
後退する氷河に形作られた全長約一五〇〇キロの迷宮、その片隅にパドルをくぐらせる。
バンクーバーから北へボートで四時間ほどのところに浮かぶ無人島。
空気は澄みきっていて、水面がまぶしい。
流木の上のシーカヤックをデイビッドとふたりで持ち上げ、二〇メートルほど離れた波打ちぎわに運ぶ。
生まれてはじめて手にするシーカヤックは、想像していたよりも重く、がっしりしている。
ふたつ折りになっていたパドルのシャフトをつなぎ合わせる。
「パドルの先端、フィンの平たい部分が地面と並行になるようにシャフトを握ってください。右手と左手の間隔は肩幅ぐらいで」
デイビッドのまねをしてパドルを八の字に動かす。
「無理をしないで、なめらかに、リズミカルに」
ボストンタイプの眼鏡をかけ、ウールのセーターを着たデイビッドは、プロフェッショナルのシーカヤック・ガイド。おそらく三〇歳の手前、顔立ち同様、口調はおだやかでやさしい。
「カヤックには舵がついていて、足もとのペダルでコントロールできます。右足の下にあるペダルを踏めば右に曲がり、左足のペダルを踏めば左に曲がります」
舵がないと、微風でもまっすぐ進むのはむずかしく、片側をひとかきするたびに反対側をその一〇倍もかかなければならないのだという。
いま、ぼくがいる場所から──デイビッドほどの漕ぎ手なら──シーカヤックで二、三時間ほどのところにあるビーバー入り江で、五二歳のフリーマン・ダイソンと二二歳のジョージ・ダイソンは再会した。細身の体、大きなかぎ鼻、いつも大きく見開かれた両目、針の穴のような瞳孔。だれが見てもふたりは親子だった。
息子と過ごす五日間を前に、フリーマンは言った。
「氷を割るだけだよ」
一六歳のとき、ジョージは、ダイソン方程式で相対性理論と量子力学を量子電気力学的に統合した天才理論物理科学者、フリーマンの元を離れた。一九六九年(昭和四四年)、ベトナム戦争の最中、アメリカの多くの家庭で、親は子どもを、子どもは親を理解し、受け入れることができなくなっていた。
カリフォルニア大学サンディエゴ校に入学したが、肌が合わずに、数週間で北のバークレイ校に転校。やはりなじめず、マリーナをぶらついていると、繋留された小さな帆船ボートが目に入った。“FOR SALE”。フリーマンからもらった学費から三千ドルを払い、身のまわりのものを持ちこんだ。船に住んではいけないというマリーナの規則があったので、出入りには注意が必要だった。
翌年、インサイド・パッセージを見下ろすベイマツに移住。地上三〇メートル、枝が玄関につづく階段で、内側も外側もヒマラヤスギの板張りのワンルーム。建築費用は八ドル。ヘンリー・デイビッド・ソローがウォールデン湖畔に建てた小屋より約二〇ドル安かった。
ほどなくして一〇人用の居住室を持つ全長約一五メートルのブリガンティン型帆船(二本のマストのうちのひとつに横帆を備えた帆船)“ド・ソノカ号”の建造に従事。完成した船に乗って水の国をめぐった。船旅は楽しかったが、大型船は例外なく銀行と問題を起こしていた。『もう十分だ。ひとりでやっていける』一年後、ド・ソノカから降りた。
一九七四年(昭和四九年)秋、グレイシャーベイからベイマツ上の家まで、一二〇〇キロ余りを手作りのシーカヤックで漕ぎきったジョージは、三隻目の “マウント・フェアウェザー”の制作に取りかかった。
「この惑星に広がる水の上を静かに滑っていこうとするなら」ジョージは紙に書きつけた。「きみは風や波に気づかれぬよう、ほっそりとした形をとらねばならない──軽く、すばやく、巧みに動き、水と空気の界面に溶けこんでいく──小さな翼を張り出して、わずかに引っ張られながら、風に乗っていくのだ」
デイビッドがいかにも楽しそうな笑顔で言う。
「行きましょう」
肩ひもがついたスカートのような形のスプレーカバーを頭からかぶり、オレンジ色の救命道具を着る。スプレーカバーはコックピットと体のあいだの隙間からカヤックに水が入るのをふせぐためのギアだ。
海に滑りこませたシーカヤックを、デイビッドが波打ちぎわに対して垂直に支える。
シーカヤックにまたがり、まずお尻をコックピットに沈め、それから片足ずつ、なかに入れる。ひざの上に防水の袋に入れたカメラを置き、シートと舵取りのペダルの距離を調節し、さいごにスプレーカバーをカヤックに取り付ける。
デイビッドに手を上げる。
「オーケー」
シーカヤックがそっと押し出される。
つぎの瞬間、想像とはまるでちがう、一度も味わったことのない感覚が、ティッシュペーパーを水に浸したように全身に広がっていく。
シーカヤックは海に「浮かぶ」のではない。
海に「包まれる」
イギリスの学校は年齢ではなく才能で進級する。つねに先を行くダイソンの目のまわりには、同年代の嫉妬がしばしば青紫に印された。
一二歳のとき、ラテン語、ギリシャ語、数学二科目を含む、全一〇科目の難関を軽々と飛び越え、エリートパブリックスクール、ウィンチェスターカレッジに入学。一八歳でケンブリッジ大学数学科に進み、第二次世界大戦が激化した一九四三年(昭和一八年)、イギリス爆撃空軍司令部に民間科学者として勤務。
爆撃空軍司令部は、死と破壊の雨を降らせることこそが戦争を防止するための唯一の方法だとする“戦略爆撃”という教義にとりつかれていた。
悪は技術によって匿名性を保証されていた。レーダー・スクリーンに映る不鮮明な斑点に向かって爆弾を落とす少年にも、軍司令部で書類をいじくりまわす作戦将校にも、爆撃機が打ち落とされる確率と乗組員の経験との相関関係を計算するフリーマンにも、自分たちが殺す相手は見えなかった。結果に対して個人的に責任を感じることもなかった。
一九四五年(昭和二〇年)八月七日、ニューズ・クロニクル紙の一面はつぎの見出しで始まった。
──新しい自然力が点火。
二年前に設立されたロス・アラモス研究所が広島で成し遂げた仕事だった。
八日後、日本列島に玉音放送が流れ、沖縄勤務を免れたフリーマンは学問の世界にもどった。
ケンブリッジ大学トリニティカレッジを卒業し、一九四七年(昭和二二年)に渡米。入学したコーネル大学大学院には、ロス・アラモスからやってきた若手の物理学者たちがいた。
プリンストン高級学術研究所に迎えられた一九四八年(昭和二三年)、シカゴに向かうグレイハウンドに乗りこんで三日目、ネブラスカを横断しているとき、世界中の物理学者が求めていた解が爆発するように沸き上がってきた。一、二時間で物理学のごたごたはきれいに片づき、ダイソン方程式が立ち上がった。紙も鉛筆もなかったが『すべてがきわめて明らかだった』ので書きとめる必要はなかった。
五年後、三〇歳でプリンストン高級学術研究所教授に就任。その年、ジョージ・ダイソンが生まれた。
水の抵抗に慣性が打ち消され、押し出されたカヤックはほどなくして動きを止める。
岸辺を振り返り、自分のシーカヤックを海に浮かべようとしているデイビッドのすがたを確認し、パドルを握る。
右のフィンを海面に差し入れてひとかき。つづけて左をひとかき。
生まれてはじめてのパドリングをどう言い表そう?
『シーカヤックは音もなくスーッとなめらかに前進した』
まるで桜の開花を告げるテレビのニュースだ。
二日目、ビーバー入り江からハンソン島に渡り、六人乗りの“マウント・フェアウェザー”と対面したフリーマンは、つぶやくように言った。
「美しい」
材料は約九〇キロのアルミ、約一三六キロのガラスと松ヤニ、約九〇キロのベニヤとひも、約七二キロのトウヒの板。
すべては総延長約三六六〇メートルのひもでつなぎとめられていた。釘をはじめ、鉄系の金属はいっさい使われていなかった。
全長約一五メートル、幅約一・五メートル。マストが三本、帆が三枚。前後に縦ふたつずつ、中央に横ふたつのマンホール。
地球上でもっともきびしい気象条件下にあるアリューシャン列島を自在に行き来した先住民族、アリュートのカヤックを参考に仕上げられたシルエットは、ブルーに塗られ、船首は竜の頭の形に彫り上げられていた。
「とても居心地がいいじゃないか」フリーマンは感心したように言った。「岩みたいにがんじょうだ」
風はまったくなかった。
出航してしばらくのあいだ、元気よく八の字を描いていたフリーマンのパドルは、次第に勢いを失い、やがて動きを止めた。
フリーマンはフィンからしたたり落ちる水をじっと見つめた。
しずくは銀色のビーズになって海に落ち、ダーヴィッシュ・ダンスのように円を描き、消えていった。
「どうして水はこのようなビーズ状になるのだろう?」
ジョージが笑顔で天才物理学者のつぶやきに応えた。
「ぼくもずっとそのことを考えている。いつも父さんにたずねようと思っていた」
(カナダ編・続く)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |