三等旅行記
#21
仏蘭西の田舎
文・神谷仁
「モンモランシイと云ふ山の中の町」
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<仏蘭西の田舎 1信>
巴里では毎日無為な日の連続でございました。で、アリアンセの夜学がひときりついたならば巴里を去つて、一寸田舎へ行くのも悪くはないと、常々心の用意にかかりまして、随分空想をたくましゆう地図をあさりました。
仏蘭西と云ふところは、御承知かもぞんじませぬが、世界中で一番汽車賃の高い国でほんの二三円で行けるところも、その二倍はかかりますので、全く道の肥料になるやうな気がして仕方がありませんでした。–ですが、汽車賃の不平は別として、白い房のやうなマロニヱの花が咲き出し、夏近い大きな雲が無数に林立した可愛い朱色の煙突の上を流れ出しますと、誰だつて野や山を見たくなつて来ますでせう。
ところで私の語学の事でございますが、せいらい呑気者のところへ、少しばかりアリアンセの夜学の力量をつけましたせゐか、生兵法ながら、片言も結構通じるやうにまりまして、美しい山野の村落で、取つておきの片言も使つてみたく……これで、仲々野心のある旅行家でございます。
初め、教はつて、地図の上に星をつけましたのは、モンモランシイと云ふ山の中の町でございますが、地図の上で見ると大変山中らしく、案内所には桃果の名所と出てをりました。
北の停車場から、約一時間位で、東京で云ひませば埼玉あたり辺へ行く位の道程ででもありませう、ーーそれはもう並々ならぬ苦心を済ましてやつと列車に乗りましたのでございますが、此日が大変な雨の日で、窓から見える風景は、ひどく東洋風でございました。
あなたはラブラードの風景を御記憶でございますか、白と、エメラルドグリンと、黒の色調を持つたラブラードの絵のやうな、あんな風景の中を、雨に濡れた北方行きの汽車は、仲々に此東洋の女を楽しませてくれたものです。
さてかう書いて参りますと、如何にも長閑さうでございますが、私は地図と時間表は片時も離さず、まるで中腰の状態で駅々の名前に注意するのでございました。すると、私の前にゐた絵描き風の一老人が、全く落ちつきを失つてゐる私を見兼ねたのでありませう、いつたい何処で降りるのかと尋ねてくれました。
「私、モンモランシイで降りますのですが、初めての土地で判りません」 するとその老人は、矢庭(やにわ)に私の頭から私のスーツケースを降ろしてくれて、此汽車はモンモランシイにはまはらないと云ふのです。
「此次のアンギヤンと云ふ駅で乗り換えるといゝ」 で、もうお話にならぬ程悲観してしまつて只「ウイ・ムツシユウ!」の連発です。
アンギヤンと云ふ駅は、待合所に洋燈のついてゐようと云ふ古風さで、降りた客と云へば二三人きりです。砂地のホームの上に雨がしとしと降つてゐますし、緑樹はこゝまで来ますと、あまりつやつや光り過ぎて眼がまぶしい程でございました。
雨の中にうろうろとしてゐる私を見て肥つた駅長が「マドマゼル!」と呼びかけてくれたのですが、もう何も彼も嫌になつてしまつて掘立小屋のやうな、ホームの待合所に腰を据えてしまひました。 隣りに腰かけてゐた百姓の夫婦者は、私の方をチヨイチヨイ盗み見ながら、「安南の娘だらう」と、男の方が上さんに、いつぱし物識りぶつて話してゐます。 一人旅と云ふものは仲々骨なもの、まして片言旅行では、飛んだ失敗をしてしまふものです。
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< 解説 >
パリの生活にもすっかり慣れてきた芙美子は、ふと思い立ってフランスの田舎への小旅行に出発する。
目的地はモンモランシー。パリからは20キロくらい離れている街で、もともとはフランスでも有数の貴族の領地であり、別荘や、高級住宅街、静かな森林や湖があるリゾート地として親しまれていた。
彼女がこの地に行ってみようと考えたのは、18世紀に「社会契約論」で知られるジャン・ジャック・ルソーが隠棲した場所であり、当時より文学の巡礼地として知られていたからかもしれない。 そんなモンモランシーに向かった芙美子だが、列車で小一時間くらいの近場といえども、鉄道の乗り換えなどにも大変苦労したようだ。
「 一人旅と云ふものは仲々骨なもの、まして片言旅行では、飛んだ失敗をしてしまふものです。 」
でも、この最後の一文を読むと、どこかその失敗すらも楽しんでいたように感じられる。
*この連載は毎週日曜日の更新となりますが、年末年始はお休みします。次回更新は1月8日です。お楽しみに。
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林 芙美子 1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。 |