三等旅行記
#20
巴里は軽いところだ
文・神谷仁
「巴里は華やかに荒さみ過ぎてゐる」
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<下駄で歩いた巴里 4 >
巴里へ来て日本が一寸健康に見える。何故だらう……。
各国から来たヱトランゼ達もさう云ふかも知れない。
巴里は華やかに荒さみ過ぎてゐる。
日本では一寸雨が降ると道が悪いのなんのと、変にグチをならべてゐたが、かう歩道がカツンカツンと身にこたへては一里も歩けばくたびれてしまふ。「そう巴里を悪く云ふものではない」そう云つて叱る巴里の日本人もゐるが、まるで自分を仏蘭西人だとでも思つてゐるのだらう。
ところで女のお化粧だが、こつちのお婆さんを一人日本へ連れて行つて銀座を歩かせたら、皆おばけだと云つて笑ふだらう。頬紅が猿のやうで、口唇は朱色、瞳をかこむ青いドウランを引いて、何の事はない油絵の道中だ。たゞしどこの国も若い女は美しいのだが、お化粧のめだたない、働いてゐる女はとても水々していゝ。巴里の働いてゐる女にどれだけの自覚があるのか、まだ日が浅くて判らないが、モンマルトルの下の新宿のやうな街を歩いてゐた時、夜店を出してゐる若い美しい女を見た。
あんな可愛い女ならば、一寸飾つてカフヱーに男を探せばいゝに、と思ふくらゐ一寸類なく良い顔であつた。 辻々の花屋には、カーネーション、すみれ、菊、ミモザなぞがとてもいま盛りだ。土が見られないせいか、パツと咲き出た花屋の色を見ると、せいせいとしていゝ気持ちになる。
私は街を歩いても、古い建築物を見るのが楽しみだ。苔のはへたやうな古風な街並の水道の栓一ツにも何か刻んである。 冬の巴里も、住んでみればなつかしくなるだらう。だが春の木の芽のふき出る巴里はさらにいゝだらう、巴里が荒んでみえるのは夜が長いせいかも知れない。
巴里は絵描きの来る街だ。文学者が来るにしても、言葉を本当に持たなければすぐ淋しくなるだらう。 私の最初の友人デイモンドの云ふ巴里の女は、「貴女が段々好きになつて来て困る。甘い言葉を早く覚えてくれ」中々耳の裏のくすぐつたい事を云ふ。
こんな優しい女が居るのだもの、男達は巴里が面白いに違ひない。「そのうちヱツフエル塔へ連れて行つてやる」と云ふ。ヱツフエル塔に登つたつて面白くないだらうと云へば、「下から風が吹きあげて、いゝ気持よ」巴里は軽いところだ。
貴女は下品なところばかり見てゐる。誰かゞ眉をひそめるかも知れないが、私は不幸にして、お上品なところは知己が無い。
兎に角、パンは六十文、生鰯が三尾六十文、これだけで巴里でやつて行こうと云ふのだ、楽しいおつきあひは当分お休みだ。
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< 解説 >
パリに滞在して数日。やっと生活にも慣れてきた様子だ。街を観察しながら歩き、フランス人の友達もできて、すっかり・パリ・という街に馴染んでいるのが分かる。
もともと、彼女がパリに来たのは、最近の研究では、・好きだった男性に会うため・だったというのが定説になっている。
芙美子が当時つけていた日記は、戦後になってから『巴里の日記』(昭和22年・東峰書房)として出版された。しかし、この『巴里の日記』は、意図的に交流のあったパリ在住の日本人たちのとの交流の記述は減らされ、特に恋愛を感じさせる記述に関しては削除されている。それは現在、ここで連載している彼女の『三等旅行記』なども同様だ。
しかし、2001年に出版された『林芙美子 巴里の恋ー巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙』(著:林芙美子、編集:今川英子 発売:中央公論新社)では、残されていた芙美子の当時の日記の原本を紐解き、その辺りの事情などを詳しく検証している。
後にパリ滞在記として出版された『巴里の日記』からは分からなかった彼女の揺れる心の動きも活写されている。
もちろん、日本人たちのとの交流や恋愛模様が削られているからと言って『三等旅行記』や『巴里の日記』の価値が損なわれることはない。きっと芙美子は、読み物として純粋に異国の空気や人々を描きたかったのであり、そこに自分の恋愛感情は必要ないと考えていたのではないだろうか。
だからこそこの『三等旅行記』は、当時の空気感や・旅・をしたときの胸躍る感覚やふと感じる淋しさが、際だって感じられるのだろう。
*左岸のサンジェルマンデプレ周辺は今も知的な大人たちの社交場。夜遅くまでレストランやバーで賑わっている。
*この連載は毎週日曜日の更新となります。次回更新は12/25)です。お楽しみに。
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林 芙美子 1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。 |