ブルー・ジャーニー
#13
トルコ ヒュズン(憂愁)〈3〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
雨の転車台
イスタンブールから南へ七二〇キロあまり。地中海に面する古代リキヤの都市遺跡、ファセリス。
一年に三〇〇日以上輝き、多くの人びとを引きつける太陽が、分厚い雨雲に隠れている。
イスラムの予言者ムハンマドが、ある日、昼寝から目を覚ますと、礼拝服の袖のうえに猫が寝ていた。どうしても出かけなければならなかったムハンマドは、はさみで袖を切り落とした。
──猫への愛は信仰の一部である。
イスラムの世界では、猫は汚れなきものとされ、モスクに入ることが許される。猫が食べるものは、イスラム法上、口にすることが認められている食材や料理とみなされ、猫が飲む水は、ウドゥ(礼拝の前に体の一部を清めるための儀式)に使うことが認められている。
世界の“美しい場所”や“住みたい都市”は清潔で光にあふれ、どこも似ている。
グアムのプライベートビーチは、有機物を育て、新たな生態系になる打ち上げられた藻を、少なくない時間と金を費やして取り除く。スイスでは窓辺を花で飾ることを怠ると、隣人に指摘される。ドバイの五つ星ホテルは、群れるカラスを追い払うために鷹匠を雇う。埃はただちに取り払われ、すべては鏡のように磨かれる。
規則的に伸びるコンクリートの歩道を歩く。規則的に刻まれた階段を上る。おなじ道を学校に通い、通勤する。一歩目とおなじ二歩目、昨日とおなじ今日、惰性を拒否することの困難な都会の日々。
ある日、駅前のコンビニが美容院になっていることに気づく。いったいいつから?
感嘆符は一瞬のうちに消え、五感はまた閉じる。
雨に濡れた松の木の樹液の、鮮やかな香りに鼻孔が満たされる。約一四〇〇年前の石畳の不規則な凹凸に、惰性が追い払われる。
嗅覚の約五〇〇万の細胞は、一万種類の匂いをかぎ分ける。触覚を通して初めてわかることもある。だが、視覚は、五感のどれよりも早く、広く、遠く、多くの情報を捕らえる。
あたり一面、時の埃が降り積もり、なにもかもが不規則に波打っている。
光は光と言えるほどではなく、影は影と呼べるほどではない。言い分けることができない無数の灰色に世界は埋め尽くされている。
わくわくし、びくびくし、ようやく三〇メートルほど進む。
リキヤ人がファセリスに住みついたのは、日本が縄文時代のただ中にあった紀元前二五〇〇年ごろ。ヒッタイト人、アレキサンダー大王、ローマ帝国の支配下に置かれながらも、紀元二世紀に大地震に襲われるまで、独立国家的な存在だった。
松林のなかに突然のように現れる水道橋の横を通り抜けると、メインストリートに行き当たる。
日本が飛鳥時代に入った七世紀になると、ファセリスは重要な港町として栄えた。以降。幅約二〇メートル、一直線につづくメインストリートは、当時の公営市場の名残。円柱状の石が規則的に並んでいるのはかつての公衆浴場。燃料は木で、熱い、ぬるい、冷たい、の三種類が取りそろえられていた。
円形劇場の収容人員は二〇〇〇人。舞台の肉声はもっとも後ろの席まで届き、客席の音は、ささやきほどの大きさでも舞台に聞こえた。二階建ての舞台は破壊されて跡形もないが、声や音はいまも鮮明に行き来する。
突き当たりは、かつて港だった入り江。出航する船の積み荷の多くは、バラの香水と木材だった。
人間が船に帆を掲げたのは、馬に鞍をつけるのよりも早かった。
さいしょの船が生まれたのはエジプトで、紀元前七〇〇〇年ごろだった。紀元前五〇〇〇年になるとナイル川をパピルス製の帆船が出現。紀元前三五〇〇年から二五〇〇年にかけて、世界各地で海上交通が始まった。
もっとも盛んだったのはヨーロッパの南海岸とアフリカの北海岸の間に長々と伸びる地中海だった。ファセリスのようなおだやかな入り江とたくさんの島を抱き、さまざまな人と人、国と国を結びつける転車台(ターン・テーブル)の役割をはたした。
正面にタフタル山がかすんでいる。濃紺の黒海(カラデニズ)に対して、白海(アクデニズ)と呼ばれる地中海が、穏やかに揺れている。
人影は無く、四五〇〇年前と違わぬ風景だけがある。
雨のファセリス、幸運だった。
(トルコ編・続く)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |