ブルー・ジャーニー
#12
トルコ ヒュズン(憂愁)〈2〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
時のレリーフ
イスタンブールから中央アナトリアのカイセリに飛び、空港で新たなガイド氏と合流。エルジエス山に向かって一本道をひた走る。
富士山に似たシルエットの標高はトルコで四番目の三九一七メートル。もっとも高いのはノアの箱船が漂着したアララト山の標高五一三七メートル。
道の両側にポプラの木が立ち並び、アプリコットのつぼみがほころびかけている。
平均海抜一二〇〇メートルを越える中央アナトリアは半砂漠状のステップ地帯。年間降水量約四〇〇ミリのほとんどは秋から冬に集中する。
雪が溶け始めると、ポイラズと呼ばれる北東の強風が吹き、春がおとずれる。乾いた夏は、ブドウの季節。地を這うつたに実り、名産のワインになる。
「カエサルにはローマの遺跡はもとより、ビザンティン、イスラムの遺跡も点在しています。町の名前は、ローマ時代に皇帝ティペリウスが、その美しさに『カエセリア(皇帝カエサルの町)!』と言ったことに由来します」
端正な口調が耳に心地よい。
「どこで日本語を勉強したのですか?」
「さいしょは秋田。ほかに二カ所行きました。全部で一年間ぐらい日本にいました」
「どうして秋田へ?」
「ここで知り合ったおじいちゃんとおばあちゃんが秋田の大きな農家の人だったのです。ホームステイさせてもらい、田植えを手伝いました。口をあまり開けないで話すので、はじめはなにを言っているのかわからなくて、なんだか、いつも怒っているように聞こえました」
「帰りたいと思ったことは?」
「それはなかったです。秋田はトルコに似ているので」
「似ている?」
「ええ。おじいちゃん、おばあちゃん、子ども夫婦、その子どもたちと、大家族がいっしょに暮らしているところ、靴を脱いで家に入るところ。絨毯と畳のちがいはありますけれど」
「それにしても、たった一年でそんなに話せるようになるものですか?」
「日本語とトルコ語は文法が同じなので、入りやすいですよ。なんとなく通じるぐらいの日本語はすぐに話せるようになります」
ワンボックスカーの対面式のシートの足もとにちいさな絨毯が敷かれている。
ペルシア絨毯は経糸一本にパイルになる糸を結びつけるシングルノット。トルコ絨毯は経糸二本にパイルをからませて結んでいくダブルノット。細かな柄にはシングルノットが向いており、じょうぶさではダブルノットが優る。ここカイセリはヘレケと並ぶ、シルク絨毯の産地だ。
「トルコでは絨毯はかならず敷かれるものですか?」
「かならず。車が無くても絨毯はあります。絨毯がなかったら、あの家はおかしいのではないかと思われます。結婚したら、洗濯機、冷蔵庫、そして絨毯をかならず買います」
「家のどこに敷くんですか?」
「かならず敷くのは、お客さんを招き入れるサロン。大きな肘掛け椅子を何脚か置いて、真ん中に絨毯を敷き、その上にテーブルを置きます。日本人よりも派手で、家具にお金をかけます」
エルジエス山の麓にさしかかると、車窓の景色は一変した。
「たびかさなる噴火が、この地に溶岩、凝灰岩、玄武岩の層を積み重ね、それが雨、風、雪によって削り取られ、カッパドキアの、子どもが描いた絵のような地形は生まれました。赤は鉄分、緑は銅の成分、茶色は硫黄の化合物から生み出されています」
総面積約三〇〇平方キロ。東京二三区の半分ほどの広さを持つ大奇岩地帯、カッパドキア。ローマ帝国の迫害からキリスト教の修道士たちが、ここに洞窟を掘って隠れ住んだのは一六〇〇年余りまえの紀元四世紀ごろ。七世紀に入り、イスラム教徒のアナトリア侵攻がはじまると“人口”は六万人を超えた。
曲がり角のすぐ向こう、急で細い坂を登りつめたところ、凝灰岩の壁をボルダリングのように這い上がったところ、あらゆるところにちいさな礼拝堂が設けられ、そのいくつかにフレスコ絵が遺されている。
「カッパドキアはペルシア語で“うつくしい馬たちの場所”。地元の多くのひとたちは“妖精の煙突”と呼んでいます。それにしてもカイセリの周辺にもエルジエス山から吹き出した火山灰が降り積もったのに、地形はふつう。どうしてここだけがこういうふうになったのか。考えてみると不思議ですよね」
ギョレメ谷に向かう。
「ここは観光客が、かならず立ち寄る場所です」
何件かの土産屋とゴテゴテと飾り立てられたラクダが一頭。その向こう側はちょっとした崖になっている。
日本人女性の一団を乗せたバスが入ってくる。
代わる代わるラクダにまたがり、記念撮影。料金は約三〇〇円。
「こんなことを言っては失礼かもしれませんが、彼女たちの態度、ちょっと変わってますね。話すときのトーンがみんなおなじでしょう?『そーですかー』とか『わからなーい』とか」ひと呼吸置いて「ガイドをしていて感じるのですが、最近の日本の文化、どんどんな変わってきていますね。文化というか、人間かな。アメリカの悪い影響を受けているように感じます」
ガイド氏に休憩をとってもらうように頼み、岩肌の起伏を頼りに崖を降りる。
卒業旅行の歓声が遠ざかり、耳がツンとするような静けさに包まれる。
やわらかく暖かな日ざし。あるかなしかのそよ風。砂地を踏む自分の足音のほかに、生物の気配はない。
とんがり帽子のような岩の塔に近づく。
地面に近いところに一メートル四方ほどの穴が開いている。ほかに出入り口が見あたらないので、身をかがめてもぐりこむ。
入り口の向こう側は六畳ほどのスペース。壁に爪が当たると、白い粉がこぼれて舞う。
部屋の片隅の石の階段を上ると、中二階ほどの高さに四畳半ほどの空間。
修道士たちが見た景色が、差しこむ光の向こうに、どこまでもつづいている。
窓枠に縁取られた時のレリーフを前に、イスタンブールで出会ったガイド氏の言葉を思い起こす。
──知っていることと感じることはちがいます。感じるためには、立ち止まり、しばらく時間を過ごすことです。よく見て、耳を傾けることです。
空気がひんやりと冷たい。閉ざされているが、息苦しくない。
ちいさな部屋、狭い通路、かがんでやっと通れるような出入り口の向こうにまた小さな部屋。部屋の奥には、さらに下につづく通路がぽっかりと黒い口をあけている。直線も平面もない。すべてが不規則に波打っている。
カッパドキアの乾いた大地の下に潜む地下都市の数は、確認されているものだけで三〇カ所。未発掘のものを含めると、総数は二〇〇とも四〇〇ともいわれている。
ここは一般に開放されている三カ所──カイマクル、デリン・クユ、マヴルーシャン──のひとつ、カイマクル。地下八階、深さ三五メートルは発掘済みの部分で、通路はさらに地底の奥深くにつづいていると考えられている。
地下一階は家畜用のスペース。生活空間は地下二階以下に設けられている。
居間、寝室、広間、共同炊事場、共同洗濯場、食堂、集会場、礼拝堂、ブドウの貯蔵庫、ワイン醸造場。生活に必要なスペースがほとんどすべて揃っている。
ただひとつ欠けているのは、二〇〇〇人(一万二〇〇〇人という説もある)の生活の痕跡。
発見されたとき、この地下都市には陶器も金属も布も皮革も遺されていなかった。火を燃やした跡もなかった。落書きひとつ残されていなかった。
長雨で小高い丘の一角がくずれ、カイマクルの入り口がすがたを現したのは約六〇年前、ポイラズが吹く日のことだった。
宇宙に手を伸ばす現代科学の足下は、あまりに深く、広く、疑問符に満ちていた。調査した学者たちが推測できたのは、その空間が一二〇〇年~一三〇〇年前に役割を終え、それ以後、だれにも知られることなく、ひっそりと時を刻んでいたということだけだった。
地下都市の中心に掘られた井戸は、通気口と非常口を兼ねていた。姿を見られ、追われた修道士たちは、井戸に垂らしたロープを伝って、地下に脱出した。
たとえばカイマクルの南にあるデリン・クユ(深い井戸)の井戸の深さは約一二〇メートル。
長いあいだ、ただの井戸だと思われていたこの縦穴が、地下都市につうじていることがわかったのは、一九六〇年代に入ってからのことだった。
ロープにつかまって潜ると、井戸の壁のあちこちに横穴が開いていて、その奥にどこまでもつづく広大な空間。現在、発掘済みの部分だけで地下八階、通気口を通じて地下一二階まで、地下都市の存在が確認されている。
デリン・クユには非常用のトンネルと思われる、人ひとりがかがんでようやく通れる横穴が何本も掘られており、カイマクルにもおなじようなトンネルが確認されている。そして、ふたつの地下都市はこのトンネルによって──途中でくずれているために、まだ実証されてはいないが──つながっていることが確実視されている。
ほんとうにつながっているとするならば、東京~横浜間に相当する距離を、どうやって掘り進んだのか。どのようにしてたがいの位置を知ったのか。中世の戦乱時代のテクノロジーを知る手がかりは、いまのところ、ない。
(トルコ編・続く)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |