沖縄にも暮らす 二拠点生活の日記

沖縄にも暮らす 二拠点生活の日記

#10

二拠点生活の日記 2021 Jan.15~26

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文と写真・藤井誠二 

 

2021

1月15日 [FRI]

 

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 着陸の直前に覚醒。荷物をまとめていたら「藤井さ~ん」と呼ぶ声がする。顔を上げると、なんと写真家の石川竜一さんではないか。機内でもハッセルブラッドを斜めがけにして「完全武装」。降りる客を先にいかして機内でいろいろと話した。飛行機を降りてからもいろいろ近況を話す。宜野湾の大謝名にスタジオ兼バーの絶景社という場をつくったそうなので、今度遊びにいくことを約束して別れた。ぼくはモノレール、彼は空港に愛車のビッグスクーターを置いてあるのでそれに乗って行った。彼の人物ルポを書いて以来(人物ルポ集の拙著『路上の熱量』に所収)の付き合いで、『沖縄アンダーグラウンド』の表紙や章扉もすべて彼の写真を使わせてもらった。『路上の熱量』の表紙も彼の作品。
 ふと思い立ち、モノレールを「県庁前」で降りて喫茶店「クリスタル」でナポリタンスパゲティを食べようと思った。ナポ好きとしては前から気になっていた店だからだ。記念として領収書をもらうと、「栗巣多留」と暴走族の当て字みたいな笑える綴りになっていた。そこから安里の仕事場までタクシーで行って、しばらく昼寝。今朝も早朝覚醒してしまっていたので、飛行機で爆睡しても、まだ眠くて仕方がなかった。目が覚めて、栄町へ「おとん」の池田哲也さんの見舞いがてら(肋骨の骨折)飯を喰いにいく。栄町場内の中をくねくね歩いて行ったら、臨時休業。池田さんから「ごめん」とメールが入る。知り合いの店を何軒かのぞいてみたがけっこう人がいるので、なんとなく一杯飲もうという気が萎えてしまい、「りうぼう」で食料品を買って帰る。晩飯は「りうぼう」で買った鮪丼とオクラのごまあえと、家にあった鯖の水煮の缶詰。

 

1月16日 [SAT]

 

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 午前中、鳩がつがいでやってきた。いつものバルコニーの巨大化したガジュマルの枝にとまっている。一昨年、去年と連続してここで営巣したあいつらだろうか。近づいてもいっこうに逃げる気配はない。また巣をつくるつもりなのかな。
 夕方から近くのホテルのロビーで深谷慎平君にインタビュー。ぼくが時間を間違えていて40分ほど待たせてしまった。普段から飲み歩いている仲なのであらたまってインタビューするとなると照れくさいのだが、彼がやっている沖縄の「古写真」収集の活動について詳細を教えてもらう。「古写真」は貴重で、戦塵に化してしまった村々に奇跡的に残る写真を御老人方らから集め、アーカイブしている。そのあと「おとん」へ深谷君と行き、普久原朝充君と合流。おとんの主、池田さんは肋骨骨折後の痛みに悩まれされつつも、なんとか元気そう。昨日は腹痛だったそう。今年もよろしくお願いします。「おとん」のあとは三人で「ムジルシ」(漢字だと蒸印と書くことに気づいた)に移動して、創作シュウマイをいろいろ食べる。 特製ブタシューマイやプリプリ海老シューマイ、鶏と野菜のシューマイ、牛とゴルゴンゾーラのシューマイなど、どれも美味しい。深谷君と帰り道に、「炭焼き にはち」のオーナーで、元沖縄水産高校野球部の大嶺雄司さんがスナックをリノベーションしてつくった隠れ家的プライベートバーでビールを飲む。「りうぼう」で自炊のための食材を買って帰る。

 


 

1月17日  [SUN]

 

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 終日、資料を読みながら、原稿を書く。ゴミ置き場にゴミを置きにいく以外は外出せず。酒も飲まない。冷蔵庫にある野菜などを炒めるなどして自炊。メールのやりとりだけで、誰とも話さなかった。

 

 

1月18日  [MON]

 

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 早朝覚醒してしまったので、しばらく起きてソファでぐったりして、布団で二度寝。正午ぐらいに起き出して自炊。「琉球新報」連載の記事を仕上げて担当者に送る。今月は『モモト』編集長の、いのうえちずさんに御登場願った。いくつかの媒体の急ぎのインタビューの文字起こしや、アポ取り、リモート取材などで時間が過ぎていく。たまっている本を読むゆとりがない。
 ウェブ「論座」で安田菜津紀さんが中村一成さんの出自や激しい葛藤についてインタビューした記事(2021.1.15)を読んだ。そのラストに、[複雑に絡み合う歴史や思惑の中にあるのは、決して“きれいごと”だけで語れるものばかりではない。その中でも一成さんは、“出来事”以上に“人”を軸に描くことにこだわってきた。「文章は“書く”ものではなく“書かせてもらう”もの。人と会うと突き上げてくるものがある。書かせてくれるのは出会いだと思う」]という一節があり、深く首肯する。同業者のこういう言葉に救われるときがたまにある。ぼくには自分の内側から自然にわき出てくる言葉の泉みたいなものはない。いつも「他者」の存在や言葉に背中を押される。他者と出会ってこその、書き手としての自分がある。人を通して世界を知る。同時に人を取材して、書くという行為は一種の「暴力性」も帯びるから、慎重に注意深く。中村さんのこの言葉は心に沁みる。そういえば去年は人物ルポばかり数十本書いた。
 午後の遅い時刻に、むつみ橋のスタバでしばらく仕事をして、引きこもりなどの問題を抱える若者を支援するNPO団体「kukulu(ククル)」の事務所で代表の金城隆一さんらとある企画について打ち合わせ。終わったあと泊に移動して「串豚」へ。常連さんたちとたわいないことを話しながら、おでんや串焼きを食べていると、スマホのニュースで、沖縄民謡歌手・大城美佐子さんが84歳で亡くなったことをニュースで知った。自宅で倒れていたという。年末に民謡番組でライブで唄っておられるのを見たが、あまり元気そうではないのが気になっていた。思えば、沖縄に通いだした頃、美佐子さんの店「島思い」にはほんとうによく通った。大阪の西九条の沖縄民謡クラブで知り合った大城琢さんが美佐子さんの弟子で、琢さんの出番の日を中心に出入りするようになった。この店でぐでんぐでんになって、よく美佐子先生に「しょうがないわねえ」とあきれられた。店以外のところでお会いして、お話をうかがったこともあるし、辺野古のお姉さんの家を琢さんとおじゃましたことがあった。美佐子先生は大阪大正区で生まれて、辺野古で育った。絹のような歌声といわれたが、唯一無二で誰も真似できないだろう。形容しがたい、その場の空気が虹色に変わってしまいそうな、不思議な声色だった。初めて生で聴いたとき鳥肌が立った。すぐに琢さんにメールした。合掌。

 

1月19日  [TUE]

 

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 あまり寝れなかったので、ダルいし、眠い。近くのホテルのロビーでコーヒーを飲みながら、ゲラ刷りのアカ入れ。昼にジャン松元さんと合流して一路、名護へ。栄町でタイ料理屋を経営していた黄泰灝(ファン・テホ)さんが一転、名護の古民家をリノベーションして始めた「島のおそうざい さんかく屋」へ取材にいく。帰りにジュンク堂書店で降ろしてもらい、物色。そのまま歩いて帰って早めに寝る。

 

1月20日  [WED]

 

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 沖縄で県独自の緊急事態宣言が出た。午後に、鳶職の51歳の男性と会う。今は名前は出さないでおこう。初対面。なぜ彼と会うことになったかというと、まず次の[50年前の沖縄の怒りを再現「コザ暴動企画」で車両転覆パフォーマンス]、[コザ騒動 沖縄 車両転覆](2020年12月12日)という記事から紹介したい。
 [コザ騒動から20日で50年を迎えるのを前に、12日、琉球新報社1階広場あじま~るで、「コザ暴動再現企画」として、軍警察のパトカーを模した廃自動車をひっくり返すアートパフォーマンスを実施した。当時コザ騒動に参加した根保清次さん(71)は「日頃から米軍許さんと思っていた気持ちがあの時、みんな爆発した」と当時を振り返った。当時の様子を撮影した写真展「コザ暴動」那覇展(主催・コザ暴動プロジェクト、沖縄アジア国際平和芸術祭実行委員会、すでぃる)も那覇市泉崎の琉球新報社2階ギャラリーで開催している。貴重な瞬間を記録した写真約60点が展示されている。写真展は13日まで。]
  男性はこれを見に来ていた。するとそこに玉城デニー知事も目の前の県庁からこっそり見に来ていたのだ。男性は知事に話しかけ、いろんな話をした。話しかける方もすごいが、嫌な顔ひとつしないで対応した知事もすごい。そのやりとりを見ていた新報の記者が男性から連絡先を聞いておいてくれて、ぼくに渡してくれたのだ。「おもしろそうな人だから、会ってみたら?」。その男性がきっと持っているであろう「物語」を聞きたくて会うことになったのだ。ホテルのカフェでマスクをしたまま話し込み、「串豚」へ移動して話し続けた。6時間。帰って彼のSNSをのぞいたら、[人と会ってその人の話を聞く、自分の想いを話しする。シンプルだけれども、とても大事な事だと再確認出来た日でした。「アイデンティティー」や「イデロギー」ではお互いの気持ちが埋まることがなくて・・・人と人との生々しい、だけれども尊敬できるやり取り。(後略)]とあった。ぼくもその通りだと思う。SNSでやり合うのもいいが、ぼくは苦手なので、直接会うことができるのなら、とことん本音で互いの人生や考えをぶつけ合ったほうが性に合う。いい日だった。男性に心から感謝したい。

 

1月21日  [THU]

 

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 毎日、鳩のつがいがせっせと小枝なんかをくわえてきて、うちのバルコニーのガジュマルの枝に巣をつくっている。やっぱりあそこが気に入ったみたいだ。バルコニーで洗濯ものを干していてもいっこうに逃げない。仕事を一区切りつけて、夕刻ぐらいにジュンク堂書店一階のカフェへ。森本浩平店長とゆんたく。約束の時間に、医療従事者のSさんという女性が来てくれた。彼女とは長い付き合いだが、恩納村からクルマで来てくれた。医療従事者から沖縄の「底辺」の側面などを聞いた。帰りに一人で「一幸舎」でとんこつラーメンをすすって歩いて帰る。ソファで寝ころんでボン・ジュノ監督の「パラサイト」をネトフリで観る。

 

1月22日 [FRI]

 

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 鳩の雄のほうが洗濯物(棒)を干す鉄製のフックのところにとまっていて、近づいても逃げない。洗濯物を干そうとしてフックにハンガーをかけようとするとやっと逃げてくれる。警戒心ないのか。が、外は雨。しばらくすると舞い戻ってくる。濡れそぼった羽を見ていると、無下に追い払う気にもなれず、いやはや困ったなあ。
 ずっと原稿書き。リモート取材。資料読み。一段落ついので国際通りにある「OPTICO GUSHIKEN(オプティコ グシケン)」で老眼鏡を新調しにいった。ついでに視力検査。右目の乱視が進んでいることが判明。「NATIVE SONS」というブランドのフレームにレンズを入れてもらう。ぼく好みのフレームが置いてあり、昨年末あたりから気になっていた。この場所に間口の狭い眼鏡専門店があることにずっと気づかなかったので「最近オープンしたんですか?」と聞いてみると、「もうオープンして十五年ほどになります。目立たないのでよく言われます」と洗練されたファッションが御主人が笑った。出来上がるのは来週。
 その足でいつもの「すみれ茶屋」で。いつもの常連さんたちもいない。新型コロナ対策で時短営業のため二十時で閉店しなければいけないので、客はぼくだけ。食材もほとんどない。主の玉城丈二さんは「だるま(メダイ)」の刺身と、カシラを蕪といっしょに煮付けてくれた。泡盛を少しだけ。

 

1月23日 [SAT]

 

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 10時すぎに目覚めて、鳩のつがいの営巣活動をしばらく観察して、昨夜「サンエー」で買っておいた肉ジャガをあっためて食べてから、原稿を書き始める。大瀧詠一をずっと聴いている。夕刻に桜坂劇場の「さんご座キッチン」のテラスでアイスコーヒーを飲む。一階で化石や鉱物フェアをやっていたので鮫の歯の化石を買ってしまった。知り合いのスタッフに聞いたら、代表の映画監督・中江裕司さんの趣味らしい。そのまま「コション」で一人でせんべろ晩飯。雨が降ってきたが、濡れたまま歩いて帰る。

 

1月24日  [SUN]

 

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 民謡歌手の大城美佐子さんの弟子、畏友・大城琢さんの家にタクシーを走らせた。美佐子先生を心から敬愛していた彼を慰める言葉をぼくは持たないし、思い当たらない。あるとき酔ったぼくが着ていたTシャツに美佐子先生と琢さんからサインを書いてもらったことがあり大事に保管していた。これはぼくが手元に置いているより、琢さんが持っているほうがいいのではないかとふと夜中に思いついたのだ。真志の家に着くと、琢さんは子どもを少年野球に送り出すところだった。ぼくがTシャツを手渡すと、「ああ、十五年ぐらい前に書いたやつですねー」とうれしそうに受け取ってくれた。聞けば、美佐子さんと連絡が取れないことを不審に思い、鍵を預かっていた弟子の一人が見に行くと、美佐子先生はソファで寝ていたという。なんだ寝ていたのかと思ったそうだが、よく観察してみると息絶えていることがわかり、警察を呼んだそうだ。急性心筋梗塞と報道では伝えられていた。琢さんは弟子代表として訃報記事にコメントしたり、葬儀の準備などに追われたという。彼は思っていたより元気そうで、フォークギターで高田渡の曲をいくつか気持ち良さそうに歌ってくれた。「先生の前でやったら、おまえは民謡忘れたのか」と言ってあきれましたよと笑っていた。ぼくが前に「琉球新報」に彼のことを書いた記事が額装して壁にかけてあった。小一時間で帰宅して原稿を書く。

 

1月25日  [MON]

 

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 午前中にNPO団体「kukulu(ククル)」の事務所でぼくも混ぜてもらっているプロジェクトの打ち合わせ。歩いて数分の桜坂劇場で支配人の下地久美子さんに取材。桜坂劇場は映画監督の中江裕司さんが守り抜いている文化発信の場だ。映画、やちむん、古本、カフェ。ぼくの好きなものたちが揃っている。外のテラス席は開放してあって飲み物を購入していなくても誰でも座っていることができる。この日も老人が一人座っていて、足元には近所を住処にしている猫がうずくまっている。老人に慣れているだろう。桜坂のど真ん中を貫通した道路や外資の高級ホテルなどで街の顔が大きく変わっていくのをくい止めているのがこの劇場だとぼくは思っている。かつて中江さんを取材させてもらって「アエラ」の「現代の肖像」に書いた。(単行本『「壁」を越えていく力』に所収)そのときは下地さんはすでにスタッフになっていたと思うが、いまや支配人という肩書き。一階のカフェ「さんご座キッチン」でインタビュー、ジャン松元さんが劇場前で撮影。スーパーに寄って帰還。

 

1月26日  [TUE]

 

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 ずっと原稿を書く。夕方に栄町に出て、立ち飲み屋の「トミヤランドリー」が期間限定で「寿司とみや」に変身しているというので早めの晩飯を喰いに出かけた。握り8貫で1500円。「アラコヤ」グループの親分・松川英樹さんがカウンターに入っている。知り合いの姿もちらほら。帰りに「チェ鶏」でかるく飲んで帰る。明日の午前中の飛行機で東京へ移動するから、荷造りして早めに布団に入る。

 

 

2月某日  

 

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 大城美佐子先生の高弟である畏友・大城琢さんから、当日記を読みましたよ、と前置きがあって次のような連絡が届いた。私信だが、ご本人の許諾を得て掲載させていただくことにした。

 

[先生が亡くなり空模様もずっと曇り時々雨。寒い日が続き心も沈みがちでが、弟子逹、生前親交のあった人逹がいる安置所は割と明るい雰囲気でした。

 お別れ会の前日夜からは強い雨。

 喪主のマリカ(先生の一人娘)は、「バーベキューのこと覚えてる?美佐子、晴れ女じゃないよね。あの暴風雨。」

 美佐子先生は生前、「あたしは晴れ女よ。」と良く言ってました。実際、雨が続いてるけど先生が出演するイベントの日だけは晴れる、というのも多く、皆のなかでは語り草になってました。しかし、お別れの最後のイベントは大雨。

 先生、最後には晴れなかったですね、と思い  お別れ会の夜に詠んだ歌

 

聞き馴れしはなし

天晴らす貴女

もしか涙落とし

雨になずけ

(※歴史的仮名使いで書いてます。読みは沖縄の読み)

 

 翌日、火葬の日。

 本当にお顔を見れるのは今日まで。

 棺の前で焼香する時に先生に聞かせました。垂れにも聞こえないくらい小さな声で。

 火葬場へ出発する間を待つ間、時間をもてあまし会館の外へ煙草を吹きに出ると、雨も上がり雲の隙間には青空が見えてます。

 ポケットにしまっていた、さっきの歌を書いた紙を 高知からわざわざ来てくれている方に上げました。

 出発の時間、完全に晴れ渡り火葬場に到着するころには少し暑いくらい。

 燃えてなくなるまえに天は晴れたのです。

 最後まで怪女でした。

 だから尚更、ふと寂しくなり、どうしようもなくなります。]

 

  美佐子先生をよく知る人のなかでも、琢さんの寂しさは人一倍だったのだもしれない。ぼくが自宅に会いに行ったときは気丈にふるまっていたが、心のなかはそうではなかったというのは、鈍感なぼくでもわかるつもりだ。古い沖縄の民謡にこめられた「肝(ちむ)」を深く、琢さんはわかっている。いや、きっと、ぼくなんかが「わかる」なんて書いちゃいけないレベルじゃないんだよな、きっと。彼の生き方そのもの。

 

 

 

*筆者の近況はtwitter(https://twitter.com/seijifujii1965)でご覧いただけます。

 

 

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藤井誠二(ふじい せいじ)

1965年名古屋生れ。ノンフィクションライター。2006年から沖縄県那覇市の中心部に仕事場を構え、東京都世田谷区と二拠点生活を送っている。著作は50冊以上。沖縄関係の著作は『沖縄アンダーグラウンド  売春街を生きた者たち』(講談社)、作家の仲村清司氏と建築家の普久原朝充氏との共著で『沖縄オトナの社会見学R18』(亜紀書房)、『肉の王国 沖縄で愉しむ肉グルメ』(双葉社)がある。『沖縄アンダーグラウンド  売春街を生きた者たち』は、2018年に第5回「沖縄書店大賞」沖縄部門で大賞を受賞。

 

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