アジアは今日も薄曇り
#08
台湾〈8〉紅葉谷温泉
文・下川裕治 写真・廣橋賢蔵
いい野渓温泉とは……
夕方の船で台東に戻った。そして台東に1泊。翌日、紅葉谷温泉に向かった。
「いい野渓温泉があると聞いています」
廣橋賢蔵さんが説明してくれる。彼と僕では、温泉というもの感覚が違うことが、これまでの台湾の秘湯めぐりでわかっていた。彼のいうことは、疑ってかかったほうがいい。
紅葉谷温泉はかつて紅葉温泉といった。しかし水害に遭って消滅。紅葉谷温泉と呼ばれるようになったが、温泉施設があるわけではないという。野渓温泉はあるはずという不確かな情報しかなかった。
紅葉橋を越えた道沿いに車を停めた。そこに河原にくだる石段があった。途中までおりてみた。イオウのにおいがたち昇ってくる。これは温泉がありそうだ。
河原が見えた。中洲に人がいた。窪みが掘られ、そこに湯が溜まっているらしい。台湾人のカップルだった。湯に足を入れている。
河原で水着に着替え、中洲に向かおうと、流れに足を入れた。
「熱ッ」
あわてて足を引いた。中洲との間にあるのは狭い流れだったが、そこを流れているのが温泉だったのだ。50度近いかもしれない熱さだった。
朝の10時をすぎ、気温は35度を軽く超えていた。気温が高いから、温泉川から湯気がでない。ただの川の流れのように見え、足を入れてしまった。台湾の温泉は油断できない。
「熱ッ。熱ッ。熱ッ」
と短い声を発しながら、つま先歩きでなんとか温泉川を越えた。
河原におりていく。このときは、まともな野渓温泉があると思っていた
台湾人カップルが足を入れる湯を触ってみた。かなりの高温だ。これでは、とても体を浸すことはできない。できるのは廣橋さんぐらいだ。と思っていると、彼はもう、腰まで湯に浸かっていた。しかしかなり熱いらしい。早々に湯から出、こういった。
「温泉川は流れながら温度がさがっていくと思うんです。この流れに沿って歩いていけば、湯に浸かることができると思うんです」
説得力はあった。しかし、なにもそこまでして湯に浸ろうとも思わない。しかしそういう雰囲気でもなく、彼の意見に従った。
温泉に入るつもりで、ビーチサンダルに履き替えていた。石がごろごろと続く河原は歩きにくい。
ときおり、川の流れに手を浸し、温度を確認する。
まだ熱い。
20分ほど歩いただろうか。歩きにくい河原だったから、実際は10分ぐらいかもしれない。流れに手をいれた廣橋さんがいった。
「もういいんじゃないかな」
僕も手を入れてみた。45度ぐらいにはなっただろうか。まだ熱いが、歩きにくい河原を思うと、このへんかと思う。
そうは決めたものの、さて、どうやって浸る。窪みを掘る道具はない。
すると廣橋さんがTシャツを脱ぎ、流れに腰をおろした。そのまま体を横たえ、全身を湯に浸す発想らしい。たしかし状況を考えれば、その方法しかないのだが、上から見ればなんという間抜けな男に映るだろうか。日本からやってきて、川の小さな流れに、海水パンツ姿で横たわる……。
しかしそれしかない。僕も廣橋さんに倣った。
河原入浴は思った以上に快適だった。少し大きめな石を首の下に置く。湯が体の周りを流れていく。これって意外と優れた入浴法かもしれない。
しかし、そう思ったのは2分ほどだった。河原だから、日射しを遮る木がない。前日の朝日温泉と同じ状況になってしまった。磯が河原になっただけだ。
頭上からは、強烈な日差しががんがんと照りつける。湯に浸かっていない部分の皮膚の表面温度も40度を超えてしまう。そのうちに、どこまでは湯なのかわからないような錯覚に陥る。
身を起こした。あたりを見渡しても日陰はない。このままいったら熱中症が待っている。温泉に浸かって熱中症? そんな話は聞いたことがない。
照り返しの強い河原をとぼとぼ歩いた。上流になるほど、温泉川の温度はあがっていく。どのへんで渡ろうか。しかし渡った先は崖になっていて、河原よりも歩きにくそうだった。
結局、最初に渡った地点しかなかった。
「熱ッ、熱ッ」
また声が出てしまった。
窪みの温泉にさっと入った廣橋さん。真似をしないように
この河原が温泉川の舞台。うるさいほどのセミの声。暑かった
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著者:下川裕治(しもかわ ゆうじ) 1954年、長野県松本市生まれ。ノンフィクション、旅行作家。慶応大学卒業後、新聞社勤務を経て『12万円で世界を歩く』でデビュー。著書に『鈍行列車のアジア旅』『不思議列車がアジアを走る』『一両列車のゆるり旅』『東南アジア全鉄道制覇の旅 タイ・ミャンマー迷走編』『東南アジア全鉄道制覇の旅 インドネシア・マレーシア・ベトナム・カンボジア編』『週末ちょっとディープなタイ旅』『週末ちょっとディープなベトナム旅』『鉄路2万7千キロ 世界の「超」長距離列車を乗りつぶす』など、アジアと旅に関する紀行ノンフィクション多数。『南の島の甲子園 八重山商工の夏』で2006年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。WEB連載は、「たそがれ色のオデッセイ」(毎週日曜日に書いてるブログ)、「クリックディープ旅」、「どこへと訊かれて」(人々が通りすぎる世界の空港や駅物)「タビノート」(LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記)。 |