三等旅行記
#01
林芙美子の人生Ⅰ
文・神谷仁
大正から昭和にかけて活躍した作家・林芙美子。代表作の『放浪記』は映画や舞台にもなり、長きに渡り女優の森光子が主演を勤めていた事でも知られている。
しかし、あなたはきっと本当の『放浪記』、そして〝林芙美子〟をまだ知らない――。
世間一般の『放浪記』のイメージと言えば、何十年ものロングラン公演と主人公が舞台ででんぐり返しをする、そして林芙美子と言えば「昭和の大作家」、くらいのものだろうか。
確かにそれは間違っていない。しかし、彼女の本質とはある意味ではかけ離れていると言っても過言ではないのだ。
これは芙美子の代表作でもある『放浪記』の冒頭部分にある言葉だ。彼女は、この言葉通りの人生を歩んだ。
芙美子が作家として世に知られたのは、自らが毎日書いていた日々の日記を書籍化した『放浪記』を昭和5年に出版してからだ。
それまでの芙美子の姿を姪にあたる林福江さんはこう語る。
「放浪記が売れるまでは貧乏のどん底で、着るものもろくになくて、水着を着て来客を迎えたようなこともあったようです」
水着を着て来客を迎える――。
当時はまだ無名だったとはいえ後の大作家からは想像もつかないような行動だ。
実は20代の頃の芙美子は、様々な男性とつきあい、カフェー、現在で言うところのキャバクラのような場所で働いていたこともあったという。
そう考えれば、「着るものががなければ水着を着ればいいのよ」というマリー・アントワネットもかくやというノリの軽さは、なんとなく理解でき、さらには〝昭和の大作家・林芙美子〟の見方も少し変わってくるのではないだろうか?
女給の頃の林芙美子/写真提供:新宿歴史博物館
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十月×日
仕事をしまって湯にはいるとせいせいする。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が先湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいつまでも湯を楽しむ事が出来た。
湯につかっていると、一寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりとしてしまう。
秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙の上にゴロリと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれているのだった。
貴女一人に身も世も捨てた
私しや初恋しぼんだ花よ。
何だか真実に可愛がってくれる人が欲しくなった。
だが、男の人は嘘つきが多いな。
金を貯めて呑気な旅でもしよう。
(放浪記より)
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芙美子が書いた『放浪記』は恋をしたり裏切られたり、酒に溺れてみたり、カバンひとつで旅をしてみたりと、とにかく無鉄砲で元気で、そしてとても可愛らしい。そんな等身大の姿が当時の女性の心を掴みベストセラーとなった。
20代から30代くらいで、夢を持ちながらも現実に押し流され、恋人や結婚についての悩みを抱えた女性は現在でもたくさんいる。いや、むしろこの世代の女性のほとんどはそんな悩みを持っているのかもしれない。
芙美子もそんな女性のひとりだったのだ。
誤解を怖れずに言うならば、『放浪記』は現在でいうところの、お金も家庭も持たず、作家になりたいという〝夢〟だけを持った当時のアラサー女子が書いた赤裸々な〝ブログ〟のようなものだった。
大ベストセラーとなった 『放浪記』、『続放浪記』/写真提供:新宿歴史博物館
晴れて作家となった芙美子は数十万部売れた『放浪記』の印税を手に、旅行鞄をひとつだけ持ってパリへと旅立つ。第一次世界大戦の記憶も生々しいユーラシア大陸をシベリア横断鉄道で横断してパリに向かうその姿は、まるで現在のバックパッカーだ。
そんな旅の記録を彼女は帰国後『三等旅行記』というタイトルで発表した。
この連載では長らく絶版になっているその旅行記『三等旅行記』を紹介しながら、芙美子の自由気ままな当時の旅を追体験してみよう。
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林 芙美子 1903年、福岡県門司市生まれ。女学校卒業後、上京。事務員、女工、カフェーの女給など様々な職業を転々としつつ作家を志す。1930年、市井に生きる若い女性の生活を綴った『放浪記』を出版。一躍ベストセラー作家に。鮮烈な筆致で男女の機微を描いた作品は多くの人々に愛された。1957年に死去。代表作は他に『晩菊』、『浮雲』など。 |