風まかせのカヌー旅
#001
離島情報コラム
パラオ→ングルー→ウォレアイ→イフルック→エラトー→ラモトレック→サタワル→サイパン→グアム
文と写真・林和代
このあたりの離島にはまだカヌー文化がしっかり息づいているが、その多くは近隣に魚やウミガメを獲りに出かける程度で、長距離航海をする島は多くない。
しかし、サタワルと、200キロほど東にあるプルワトは、古くから長距離航海術のライバルとして競い合って来た歴史がある。
ミクロネシア連邦の行政区分でいうと、サタワルはヤップ州の最東端、そのすぐ東隣にあるプルワトはチューク州の最西端と州は別々で、サタワルに向かう連絡船はヤップから、プルワトへの船はチュークから出ている。
とはいえ、かつてサタワルに滞在していた時の日記をまとめた土方久功氏の著書「流木」によれば、日本統治時代のサタワルには、プルワトのカヌーが年中立ち寄り、数週間〜数ヶ月も当然のように滞在している。その逆も多かったはずだ。
航海術が盛んな両島にとっては、私たちが隣町に車で出かけるのと同じような気軽さで、互いに行き来していたのだろう。
若き日のマウは、一時期プルワトに住み、そこのナビゲーターから航海術を習ったと言っていた。
双方に親族がいたり、結婚したり、移り住んだり養子をもらったり。
そういう深い関わりのある島同士である。
しかし、航海術では互いに負けたくないという意識は、昔から根強い。
スペイン、ドイツ、日本、アメリカの統治時代、宗主国の意向により、離島では長距離航海がほとんど行われなくなっていた。
特に、第二次大戦後、日本からアメリカの統治に変わってしばらくは、皆無であったと聞く。
ヤップやチュークからの「連絡船」が誕生したのが最大の原因だろう。
しかし、1960年代に復活が始まった。
きっかけを作ったのはニュージーランド人の航海者デビッド・ルイス。
伝統的な航海術のナビゲーターを探し求めていた彼は、西洋式の帆船でプルワトを訪ねた。
そこで、優秀なナビゲーターに頼み、帆船をプルワトからサイパンへ、伝統航海術を使って航海してもらったのだ。
そのナビゲーターは、もちろんサイパンに航海した「経験」はなかったが、代々伝わる「行き方」は熟知していたのだ。
その帆船がサイパンに伝統航海術でやって来て、サイパンではたちまち噂となった。
その時、たまたまサタワル島の酋長が病気でサイパンの病院に入院しており、この話を耳にする。
そして思った。
プルワトに負けてなるものか。
彼は島に戻ると、サタワルの優秀なナビゲーター兄弟、レッパン・ラップとレッパン・ルクに頼み、帆船などではなく、伝統的な航海カヌーで、サタワルからサイパンへの伝統航海を決行した。
すると今度は、プルワトが負けてはおれぬと、航海カヌーでプルワトからグアムへと航海……。
という、子供じみたライバル心でもって、長距離航海の復活競争の火蓋が切られたそうな。
連絡船による移動が一般的になった今、2島の交流は減りつつあるが、それでもなお「負けてなるものか根性」は根強く残っている。
*参考図書 ケネス・ブラウワー著「サタワル島、星の歌」
今でこそじんわりと貨幣経済が入り込んできているサタワルだが、それでも依然として、島の最大の財産といえば、通年採れる主食を産するタロイモ畑だ。
畑には場所ごとに名前がついていて、所有者がビシッと決まっている。
だから、あの女がこの前、うちの畑から芋を盗んだ、なんて話もよく耳にする。
母系社会のサタワルで、更には女の園であるタロイモ畑は、当然ながら母系による女性が代々受け継いで行く。亡くなってからの相続はもちろん、生前贈与的に娘に与えられることもある。
パンの木は各クランの長が、ヤシの木は男性が所有していると聞くが、やはり最重要な土地、タロ芋畑を女が所有しているため、島は女のもの、というのが一般的な概念になっている。
男が婿入りする習慣も、このことと関係していると思われる。
要は、島に男の財産はほぼないに等しいのだ。
あえていうなら、男の財産はカヌー小屋とカヌー。だからカヌーで別の島を訪れた男の中には、そのまま居ついてしまい、サタワルに戻らない、なんてこともしばしば起こる。
家の外では、男がいると女は腰を曲げ、あるいは地面を這って歩かねばならない、などという、一見すると男尊女卑的な習慣が今も残るが、実のところ、母系社会はやっぱり女が強いのだ。
だって、島は女のもの、海は男のものと言うが、所詮、海を所有することはできないのだから。
重労働のタロイモ畑。でもそこは女の園なのでございます。
聞くところによると、酔っ払いによる喧嘩はよくあるが、サタワルで殺人事件は何十年も起こっていないという。
少なくとも私が見聞きしたのは、素手やココナツ、懐中電灯などその辺にあるもので誰かを殴った、程度の話である。ただし、島に警察はなく、公的な記録があるわけでもないので、定かではない。
第一次大戦後、国際連盟によってグアムを除くミクロネシア一帯は日本の統治下になり、パラオのコロールに南洋庁が置かれた。
日本人向けの学校とは別に、島民用の公学校が置かれ、日本語教育も行われた。
多くの日本人がパラオやサイパンに住み着いたが、サタワルなど離島にはコプラを集める商人が出入りする程度だったと言われている。
そんなある一時期、とある日本人男性のコプラ商人がサタワル島に住み着いた。
その男は「とても悪いやつ」で、島民に対しかなりの横暴を働いたため、島民によって殺害された、という。
それが「何十年も前」に起こった殺人事件だと聞いている。
ちなみに、その「最後の殺人事件」は、当時サタワルに7年間も住み着いていた日本人の彫刻家で民俗学者でもある土方久功(ひじかた・ひさかつ)によって報告(通報?)されたとされている。
サタワルは以下のイラストのような島である。
島の外周は約6キロ。
一番外側のリーフ(水面まで隆起しているサンゴ礁)の外側は急激に深くなっている外海。
一方内側は、水深1メートルに満たないほど浅く、狭く、まともな魚は獲れない。主に女性たちが歩いてタコをとったりする。
男性たちはリーフの上に立って魚を釣ったり、リーフのすぐ外で素潜り漁をしたりする。
砂浜の幅は、最大で20メートルほど。
砂浜が途切れるあたりで、地面が2メートルほど高くなる。
そしてそのすぐ内側は森。ヤシの木、パンの木、バナナの木など南国の木々が生い茂っている。
その森を分け入っていくと、やがて湿地帯となり、島の主食であるタロイモ畑が広がる。
村は、島の西側に連なっている。村の近くには、レモンやパパイヤ、マンゴーなど、どこかよその島から持ち込まれたと思われる果物の木もいくつか生えている。
自給自足の島でとれる食料はざっと以上のようなもの。
これまで立ち寄った離島はみな、広大なラグーンに囲まれた環礁で、穏やかなラグーンでは簡単に魚がたくさんとれる。
しかしサタワルは隆起サンゴ礁島でラグーンがなく、十分な魚をとるのが難しい。
そのためサタワルの男たちは、たくさんの大きな魚をとるため、カヌーで外洋に出る必要が強くあった。
だから航海術が最も盛んなのだと言われている。
離島のカヌー、シングルアウトリガーを作るのも、航海術の知識の一つである。
その中には、新しく作る技術、維持管理の仕方、そして航海中に壊れた時の修理の仕方など、たくさんの知識が含まれている。
PHOTO by Osamu Kousuge
離島では各クラン(氏族)ごとにこうした仕事は行われる。
各クランのカヌー小屋に、そのクランのカヌーが収まっていて、必要に応じて新しいカヌーが作られる。
まずはそのクランに属するカヌーを作る知識を持ってる人が棟梁となり、クランの若者たちが集められ、建造が始まる。
まずは、材料となるパンの木を選んで切る。
ただしパンの木は財産なので、そのクランの人の木が望ましいが、もし適した木がなければ、他のクランに頼んで木をゆずり受ける。
その代金(?)は、ラバラバなどによって支払われる。
そして、木をカヌーのパーツ(大きさにもよるが5、6個のパーツであることが多いという)
に切り分けるのだが、設計図という目に見えるものはなく、全ては棟梁の頭の中にあるのみ。
なので、棟梁が木にえんぴつなどで線を引き、それに合わせて若者たちが手斧を使い、ちょっとずつちょっとずつ、削り出していく。
完成したパーツは、ヤシの実の繊維を乾燥させ、丹念に撚って作ったロープでつなぎ合わせていく。
釘は使わない。
どれも根気のいる作業で、1隻の航海カヌーを作るのに、少なくとも1年はかかる。棟梁のペースや若者たちの集まり具合、働きによって、2、3年かかることもざらにある。
若者たちは、棟梁の指示に従って作業をしつつ、カヌー作りの工程を覚えていく。
子供達の遊びで今も人気が高い「カヌーの模型作り」も、カヌーの全体像を把握したり、各パーツの名前や役割を覚えるのにとても貢献している。
自分が作ったカヌーの模型を海に浮かべて友達とレースをしてみると、やはりバランスの良し悪しやスピードに差が出る。そこから、どうすれば安定感が高まるか、早く走るかを大人に習いながら、習得していく。
気が遠くなるような作業の連続だが、完成したカヌーがスピードが出て、おまけに魚やウミガメがたくさん獲れたりすると、優秀なカヌーだと島で評判になったりするのである。
ミクロネシアに限らず、太平洋のほとんどの島では、高血圧、糖尿病、痛風がとても多い。
脂質異常、いわゆるメタボも相当な割合で、それによる心疾患も大変多い。
中でも、医療設備がほとんど整わぬ離島では、これらの病気が大事に発展する確率が非常に高い。
例えば、糖尿病の人は日本にも多いが、そのために手足を切断する人は少ない。しかし離島では、糖尿で足を切断することが頻繁に起こる。
運動不足とか、医療知識の欠如など、原因はいろいろあるけれど、最大の要因は食生活。
タロイモ、パンの実、ココナツ、魚やウミガメ、貝類など、離島本来の食事=ローカルフードだけを食べていた時代には、肥満の人はほとんどいなかったという。
今も昔も野菜の摂取は極端に少ないが、ローカルフードは奇跡的にビタミンなどのバランスも取れていたと聞く。
しかし現在は、脂質の多い輸入食品を多く摂取するようになった。
ツナ、鯖、コンビーフ、スパムなどの缶詰、サッポロ一番をはじめとするインスタントラーメン(袋麺)、米など。
米にラーメンを乗せるという炭水化物オン炭水化物という食べ方も完全に習慣化している。
精製した砂糖の使用量も多い。かつてはヤシから作るココナツシュガーのみだったが、今はほとんど作られていない。
離島のごく普通のご飯といえば、タロイモ、パンの実と白飯が主食、おかずは何かの缶詰。というのが基本になっている。
その上、糖尿病になってもヤシ酒がやめられない男性が多い。
そのため、多くの優秀なナビゲーターたちが、足を切断して航海できなくなったり、あるいは若くして亡くなり、それが航海術伝承の大きな阻害要因になっている。
以下、ミクロネシア連邦の医療調査報告。参考URL.
新潟医療福祉学会学術集会で示された、「小さな国の大きな人々 -ミクロネシア 連邦の肥満問題と食生活習慣改善」
*http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/45047/1/064_w1301.pdf
航海カヌーとは、オリンピック競技にもあるようなワッセワッセと漕ぐ競技用のものではなく、帆をあげて、風を動力として長距離移動をするもの。そういう意味ではヨットに近い。
ミクロネシアで一般的なカヌーは、シングルアウトリガーと呼ばれるもの。
中央にある1本の船体から片側に腕木が伸びていて、その先にアウトリガーと呼ばれる浮き棒が付いている。浮きと書いたが、実際には重しの役目を果たす。
ミクロネシアの中でも、離島カヌーの最大の特徴は、帆を前後入れ替えられること。
カニの爪のような形に広がる帆の根元。船首にあるそれをエイヤーと持ち上げ、船尾の穴にスポンとはめてしまえば、あっという間にカヌーの前後が入れ替わる。
我がマイスや普通のカヌーは、方向転換したい時、船体ごとぐるりと半回転せねばならないが、ミクロネシアの離島式なら、帆の根元を前後入れ替えるだけで、スイッチバック。今まで前だった方が後ろに、後ろだった方が船首に早変わりするので、より簡単に方向転換できる。
もう一つの特徴は、荷物置き場の翼があること。
アウトリガーの反対側に、マンタのひれのように、三角にせり出した部分である。
荷物置き場であり、簡易的に煮炊きすることもできる。
女子供を乗せる場合は、ここに、かごのようなものを伏せて取り付け、簡易的な個室を作り、その中に女子供をしまって運ぶ。
リーフ内でちょっとした漁をする時に使う1〜2人用のものには、荷物置き場はないが、
ほかの島々へと航海する長距離用のものには必ず付いている。
他に、船首と船尾についているV字の木、マスも特徴的だ。
マスとは、現地の言葉で「目」を表す。
舵取りの時、このV字の中に目印とする星を入れると、方向がずれにくい。
ちなみに舵取りは、船尾のマスの手前に腰をかけ、片足を舵にかけて操る。
その操舵者と、セイルのロープを握るナビゲーターの力量次第で、スピードはかなり変わる。
2004年に私が乗った離島カヌー、シミオンホクレア号。当時、シングルアウトリガーカヌーとしては最大と言われていた。
手前のカゴにしまわれて、小さく手を振っているのが、ワタシ。
舵取りはこんな具合。ここに2〜3時間ぶっ続けで座って舵をとる。みんなお尻が痛くなる。ちなみに、この舵取りは当時のセサリオ。
一方、ポリネシア式と呼ばれるのが、ダブルハル、すなわち双胴カヌー。我がマイスもこれにあたる。
平行に並んだ2本の船体をデッキでつないだもの。マイスは1本マストだが、2本マストもある。
ハワイ、タヒチ、ニュージーランド、クック諸島などポリネシア地域で利用されるもの。
ミクロネシアのシングルアウトリガーと比べると、はるかに安定性が高く、大きいので、人もモノもたくさん運べる=より長距離の航海が可能になる。これがメリット。
広大なポリネシアの島々をポリネシア人が移動できたのは、これを発明したからじゃないか、と言われている。
一方、ミクロネシアのシングルアウトリガーは、走行中に船体のどこかが壊れたとしても、ほとんどの場合、海上で修理ができる。更には、万一ひっくり返ってしまっても、ヒョイっとまたひっくり返して何もなかったような顔をして航海が続けられるという強みがある。
逆に、ポリネシア式のダブルハルは転覆しにくいが、一度転覆したら2度と戻せないというのが弱点。
ちなみにスピードは、ざっくり言えば、船体が大きいほど帆も大きいので早い。マイスは、最高で17ノット(時速31キロ)、シミオンホクレアの場合、最高速度は8ノット(時速15キロ)と言われている。
アメリカに、Federal Emergency Management Agency、略称:FEMA(フィーマ)と呼ばれる組織がある。災害が起きた時に対応する機関だ。
ミクロネシア連邦はアメリカ傘下のため、離島も頻繁にフィーマの援助を受けている。
例えば台風被害でヤシの実やパンの実、タロイモなどがやられた時、フィーマが米などを支給してくれる。
また近年、海面上昇によってタロイモ畑に塩が入り込み、タロイモが腐る現象がおこっているが、その被害が大きい時も、フィーマによって援助物資がもたらされる。
今回本文で記した蚊除けローションも、このところ離島で蚊が大発生していることを受け、フィーマが支給したという。
ちなみにこのあたりでは、マラリア、デング熱などが多いと聞く。
ミクロネシアの多くの島には、まだ酋長がいる。
ミクロネシア連邦の首都がある島、ポンペイでは「酋長の目を直に見ると、目がつぶれる」といわれるほど、強力な霊力があると信じられている。
ただ、大きな島ではいわゆる政教分離が行われ、政治家は政治を、酋長は主に伝統的、宗教的な行事を主に執り行う。
しかし、今回マイスが立ち寄る離島には酋長しかいないので、政治も伝統的儀式もみな酋長が執り行う。
例えば、よそ者の入島を許可したり、誰かが亡くなった場合の葬儀にまつわる段取りをつけたりする。
なかでも最も頻繁に行われる仕事の一つに「ヤシ酒作りの規制」がある。
ヤシ酒は離島男性が最も愛するもののひとつ。だが、酔っぱらいが暴れたり、トラブルを起こすと、酋長たちが相談して島ごとヤシ酒作りを禁止する。
そして人々を観察し、もう大丈夫だと判断したところでヤシ酒作りを復活させる。
そんな権限を持っている。とはいえ、酋長だけで大きな決断をする事はほとんどなく、たいていは長老たちと相談し、内々に合意を取った上で、酋長が島全体に発表する「なんとなく合議制」がとられる場合が多い。
ちなみに酋長は、選挙ではなく世襲で、家系(?)によって決まる。
各島にはクラン(氏族)がいくつかあり、そのうち3〜5の決まったクランだけが酋長を輩出する。
例えばサタワル島には8つのクランがある。そのうち3つが酋長を出すハイクランで、残りの5つは言わば平民のロークランとされる。だからサタワルには3人の酋長がいる。
同様に、ラモトレックにも3人、イフルックには5人の酋長がいる。
今回、マイスが立ち寄る離島は、すべてミクロネシア連邦のヤップ州に属している。
ミクロネシア連邦は、ポンペイ州、コスラエ州、チューク州、ヤップ州の4州から成り、首都は、ポンペイ島のパリキール。
ミクロネシア連邦は大統領制をとる国で、アメリカと自由連合盟約を結んでおり、国防上の権限はアメリカにあるが、米軍基地はない。ただし、米兵のリクルートは盛んである。
国の生産性は低く、生活必需品の多くは輸入に頼っている。
経済は、コンパクトと呼ばれるアメリカからの経済援助により成り立っている。
ただ離島には、貨幣経済があまり入っておらず、基本的な暮らしは、伝統的な自給自足、物々交換などで成立している。
離島には、「ストア」と呼ばれる店が数件あり、そこでは現金でものを買える。
ただ、その商品はすべて連絡船が運んでくるのだが、船の運航がかなり不定期なので、船が来ないから品物もなくなり、いくらお金があっても買えない、という自体に年中陥っている。
主なストアの商品は、ツナ、鯖など魚の缶詰、スパム、米、砂糖、インスタントラーメン(サッポロ一番が大メジャー)、醤油、インスタントコーヒー、クッキーなどの食品と、タバコ、洗剤や紙おむつなどが中心。
離島で現金収入が得られる職業は、学校の先生と診療所の医師や看護師などの公務員(?)。ただ、人口が数百人の島が多いので、警察、消防、役所といった他の公務員的職業はない。
男は、カヌーを作り、海に出て食料を取る。女はタロイモ畑で芋の世話をし収穫し、料理するのが主な仕事。
お金に匹敵する価値があるものの代表は、タバコ
ちょっとしたお礼やお詫びにはタバコが有効で、1本、2本などバラでも使える。
例えば、島に滞在させて頂く外国人が、島の酋長にご挨拶に伺う場合の貢物としては、1カートンが理想的。
サタワル島のストア内の様子。船が着いたばかりで、中はダンボールがてんでに置かれている。ストアの扉には手書きの値段表が貼り出されていた。
電気、ガス、水道、電話など、離島での生活インフラ状況をご紹介しておく。
「ガス=火」
煮炊きには、乾燥したココナツの実の殻を燃やし、かまどで火を焚く。ただし、着火はマッチかライターを使う。
余談だが、ガスがなくなった使い捨てライターにガスを注入する技や、木を使って1分もかからず火を起こす技は、島の男ならたいてい持っている。
「水」
サンゴ礁の島では水は大変貴重。ほとんどが雨水に依存している。
どの家庭にも巨大な雨水タンクが設置されていて、それを生活用水として使う。
そのほかに、軒下にはたいていドラム缶が置かれていて、そこでも雨水をキャッチする。
飲料水や料理に使う場合は、必ず煮沸する。
水浴びは毎日行うが、基本パターンは、まず海に入って石鹸やシャンプーで体を洗い、その後、軒下のドラム缶から雨水をすくって軽く「リンス」する、というもの。
食器洗いや洗濯は、雨水をたらいに汲んで使っている。
問題は、好天続きの時。タンクの水量が半分ほどになると、なんとなーく節水が始まり、水量が5分の1ほどまで減ると、飲料水と料理用以外はすべて、海水になる。
「通信」
固定電話、携帯はまだどこにもないが、無線機はかなり前から普及していて、近隣の島との連絡が行われている。近年、ウォレアイではwifiが診療所、学校などに限って導入された。他島にも普及させようという動きはあるが、大変のろい。
「電気」
この数年で大きな変化があった。
かつては皆無だったが、十数年前、フランスのNGOから送られた小さなソーラーパネル1枚がいくつかの家庭についていて、夜だけ40wほどの蛍光灯が薄暗く灯るようになった。
発電機も各島にいくつかある。時々、発電機を使ってDVD鑑賞会が開かれると、40人も50人も一軒に集まって夢中で鑑賞したりする。
というのが5年ほど前までの状況。2016年現在は、ウォレアイ、ラモトレックなどに曲りなりにも電気が通り始めていて、各家庭でDVDを観たり、パソコンを使うのが普通になってきている。
ただ、あくまで初期段階なので停電も多く、メンテナンスに苦労している模様。
ココナツの実の殻は、ここで乾燥させながら薪のように使う。
日本製(?)「大自然」という名の巨大雨水タンク。下の方に蛇口がついている。
無線でお隣のラモトレックと会話をする村人。無線室には頑丈な鍵がかけられている。
今回マイスが立ち寄るヤップ州の離島に、旅行者は滅多に来ない。
なぜなら、かなりハードルが高いエリアだから。
まず宿問題。ヤップ州の離島では、ヤップ本島にほど近いユリシー島にホテルが一軒あるのみ。
相当不定期らしいが、ヤップ本島から飛行機も飛んでいるので、もし気軽に離島の雰囲気を味わってみたいならユリシーが便利だろう。フライト次第では10日の休みで足りるはずだ。
ただ、それ以外の離島に宿泊施設は一切ない。もし泊まりたければ、まずヤップに行って、離島出身者を見つけて仲良くなり、あなたの故郷の島に泊めて下さいとお願いするしかないのである。
更に難しいのは交通手段。1、2ヶ月に一度、ヤップから出る連絡船があるのみなのだ。
その船は、ヤップ本島からウォレアイやイフルクなどの離島に立ち寄りながら東へ進み、終点のサタワルで折り返し、再び離島を巡ってヤップに戻る。ヤップからサタワルまで片道10日ほど。途中で天候が荒れ、立ち往生することもしばしば。ヤップの出航も平気で1、2週間遅れたりする。
私が初めて連絡船でサタワルに行った時、出航は3週間遅れた。それから10日かけてサタワルに着き、1ヶ月ほど滞在して次の船をキャッチ。10日かけてヤップに戻った。
全行程で3ヶ月弱かかったが、たまたま次の船が早く来ただけで、運が悪ければサタワルから2〜3ヶ月出られない、なんて事も十分あり得る。
こんな感じなので、相当のんきな旅人でないとサタワル旅行は難しい。
ただ、このウォレアイなら、ヤップから5日で到着。その船がサタワルまで行ってまたウォレアイに戻ってくるまでの10日ほどウォレアイに滞在し、戻りの船でヤップに帰る作戦なら1ヶ月半ほどの休暇で実現しそうな気もする。
ただし、島に上陸するにも酋長の許可が必要。だから、勝手に船で出かけるのはお勧めしない。 やはりヤップで誰か知り合いを作ってガイドして頂かねばならないので、なかなか厄介である。
ちなみに、ヤップ州の船のほか、ミクロネシア連邦の船もヤップーポンペイ間を結んでいるが、これまたかなり不定期で、旅行者には使いづらい。
要するに、極めて不便なのだ。
でも、こんな地域だからこそ、伝統航海術と伝統カヌーが今も現役で残っているのである。
地元の重要な足であるヤップ州の連絡船「ハッピルマハール」の船上の様子。10年ほど前に中国から寄贈された新造船だが、すでに不調続きで現在は稼働していないとか。先代の日本が寄贈した中古船は、見た目はオンボロだったが、30年以上も立派に働いていた。
ミクロネシアの島々は、火山島とサンゴ礁島に大きく分けられる。
火山島は、火山活動で誕生した島。
山があるため標高が高く、面積も広い。水が豊富で土壌も豊か。農耕に適し、動植物の種類も豊富。
サンゴ礁島は、サンゴの死骸などが積み上がった島。
標高2〜3メートルと低く、面積も小さい。
最大の特徴は、真水が乏しいこと。雨水に依存するので、雨が降らないと水の確保が難しくなる。
また、農耕に適する土地が少なく、育つ作物が限定されているなど、人間が住むにはかなり厳しい条件が揃っている。
今回訪れるヤップ州の離島はすべてそのサンゴ礁島である。
ちなみに、サンゴ礁島には隆起サンゴ礁島と、環礁の2種類がある。
環礁とは、中央が水没し、外周に平坦なサンゴ礁島がネックレスのように輪状に連なり、内側にラグーン(礁湖)がある。天然のプールとも称されるラグーンは大変穏やかで、魚が簡単に捕れる。
ングルー、ウォレアイ、イフルック、エラトー、ラモトレックなどがこれにあたる。
隆起珊瑚礁島は、地殻変動によって海底の珊瑚が水面上まで隆起した島。ラグーンがないのが特徴。環礁に比べ、魚を捕るのが難しい。
サタワルがこれにあたる。
小島が連なるウォレアイ環礁。文末のリンクにある衛星写真を見て頂くと、ネックレスのように連なっている様子がよくわかる。
太平洋には、ギリシャ語で「たくさんの島々」と言う意味のポリネシア、「黒い島々」と言う意味のメラネシア、そして「小さな島々」と言う意味のミクロネシア、3つの地域がある。ポリネシアは広大だが、民族も言語も同一。一方、ミクロネシアとメラネシアは、島ごとに民族が違い、言葉も互いに通じない。
*ミクロネシア全図
「母系社会の構造」(須藤健一著)より、抜粋編集
ミクロネシアは、東西6000キロ、南北3000キロという広大な海域に、3000もの小さな島々が点在する地域だが、 人が住んでいる島は200にも満たない。その陸地面積は海域の面積の0,03パーセントほどと言われている。
ミクロネシアの中央にある国、ミクロネシア連邦は、ヤップ、チューク、ポンペイ、コスラエの4つの大きな島を中心とする4州から成り立っている。
その4島にはそれぞれ違う民族が暮らし、固有の言葉があって互いに通じない。
今回、私たちが立ち寄る離島はすべて、ヤップ州に属しているが、民族的にはチューク州の離島やパラオの離島と同じ人々で、互いに言葉も通じる。
要するに、大きな島はそれぞれ固有の言葉を、離島は州や国に関係なく同じ「離島の言葉」を話す。
我がクルー、ムライスやロッドニーはパラオ人なので離島の言葉は分からない。
でも、以前マイスに一緒に乗ったパラオのクルーは、普段パラオ語を喋っていたが、サタワルでは離島の言葉をぺらぺら喋っていて驚いた事があった。
聞けば彼はパラオの離島、ソンソロール出身だった。ソンソロールの母語は離島の言葉なのだ。
ちなみに、離島の言葉はチューク語に近いらしく「チューク人とは大体通じる」とはサタワル人の弁。実際あちこちの離島では、チュークの流行歌が流行ったりしている。
逆に、ウォレアイやサタワルはヤップ州に属し、多くの離島人がヤップに住んでいるが、ヤップ人とは言葉が通じない。互いに英語ができないと意思疎通ができないと言う事態に陥る。
という具合に、言葉はかなり入り組んでいて、ややこしい。
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林和代(はやし かずよ) 1963年、東京生まれ。ライター。アジアと太平洋の南の島を主なテリトリーとして執筆。この10年は、ミクロネシアの伝統航海カヌーを追いかけている。著書に『1日1000円で遊べる南の島』(双葉社)。 |