風まかせのカヌー旅
32 サタワル最終日はココナツキャンディを作るのだ。
パラオ→ングルー→ウォレアイ→イフルック→エラトー→ラモトレック→サタワル→サイパン→グアム
★離島の地理歴史など基本情報はコチラ
文と写真・林和代
[PHOTO by Osamu Kousuge]
出港前、伝統的なお化粧を施されたディラン。
「マール作ろうか?」
サタワルを出る日の朝、ヘンリーナがそう言った。
マールは、パンの実を潰して作る、ちまき状の保存食である。
「うーん、マールはみんなもう飽きてるからなあ……そうだ! ココナツキャンディがいい!」
砂糖を焦がしたカラメルに、ココナツの白い胚乳を削ったものを混ぜてギュウッと固めた、離島伝統のお菓子で、保存もきく。こいつをちびちびかじりながら海を渡るのは、なかなかオツだ。
するとヘンリーナはニカッと笑ってこう言った。
「OK。じゃあカッツ、娘たちと南の浜に行ってココナツとって来て。たんまりね!」
こうして私は、三姉妹とともに森の小道を南の浜へと歩き始めた。
一輪リヤカーを押しながら先頭を行くのは長女、ローリンダ。21歳ですでに1歳児の母親である。
続く次女のコートニーは16歳。その後ろが私。で、最後尾が15になった我が娘、トレイシアだ。
かつては常に私に張り付いていた彼女も、もはや無邪気な子供ではなく、張り付くこともない。
その態度はむしろ素っ気なくさえ見える。更には学校嫌いで英語も解さないから会話もできぬ。
彼女との再会をものすごく楽しみにしていただけに、着いた初日は半ばフラれたような気分になって私はいじけていた。しかし、その夜のこと。
私が寝床に入ると、不意にトレイシアが現れ、無言のままひょいっと私の寝床に潜り込んで来た。
驚いて彼女の横顔を見つめると、ちらっと私を見やった彼女はほほえんで囁いた。
「マユール ヤ(寝ようね)」
「オー、マユール(うん、寝ようね)」
私もそう囁き、すぐそばにある彼女の頬にキスをして眠った。
それから毎晩、彼女は私の寝床にやって来た。
それだけで、いじけた気分はあっさり吹き飛んだ。
さて、我らが進む森の小道は、優しい木漏れ日に包まれたステキな南国の散歩道、と言いたいところだが、ここでも猛烈な蚊の大群が発生。我々は踊るように、泳ぐように、体のあちこちを叩きながら歩いていたが、不意に後ろからペシペシと叩かれた。
トレイシアが、たくさん葉がついた枝をもぎ、私を蚊から守るべく、後ろからはたき始めたのだ。
すかさず私も枝をもぎ、前を歩くコートニーをはたく。コートニーもローリンダをはたく。縦一列に並んだ我等一行は、こうして蚊と戦いながら、時折歌ったりしつつ、森の行進を続けた。
やがて、朽ちたような茶色い老ココナツがたくさん転がる場所に到着。皆でどっさり拾い集めると、再び蚊だらけの小道をはたき合いながら帰宅し、ようやくココナツキャンディ作りが始まった。
まずは、高さ30センチほどのココナツ削り機にまたがるように座ると、前部についた削り金に、割ったココナツの内側、白い胚乳を当ててガリガリと削る。
サタワル語でクルクルというこの作業。キュートな呼び名とは裏腹になかなか腰にくるのだが、私にできる数少ない作業なので、とにかく削る。ひたすら削る。私がのろいため、みんなも削る。
そうして全て削ったら、ヘンリーナの出番である。
まずは大きな鍋を火にかけ、砂糖をどっさり入れて溶かし、よく混ぜながら焦がしていく。
やがて香ばしい飴色になったところで削ったココナツをどかっと投入、がっつり混ぜて完成だ。
これがココナツキャンディ。
今は砂糖を使っているが、砂糖の輸入が始まる前は、ココナツシロップを使っていたらしい。この削った胚乳を乾かしたものは、日本では「ココナツファイバー」という名で製菓用品として売られている。混ぜている棒(?)は、大きなヤシの葉の根元の部分。
しかし、ここからが大仕事。
火からおろした大鍋を、我ら女子軍団がぐるりと囲んで座る。
そして、まだ熱々のココナツキャンディをスプーンですくい、紙みたいな葉で包むと、手でぎゅうっと握って丸めていくのだが、これが熱い。ものすごく熱い。
ひいひい叫んだり唸ったり。私も含め、みんなかなり騒がしい。
と、隣にいたローリンダが、握ると出る熱い砂糖汁をわざと私の足にかけて来た。
あまりの熱さにバタバタ暴れると、みんなゲラゲラ笑う。
仕返ししてやる、と、私もローリンダに汁をかけようと熱々を握りしめたが、うっかり自分にかけてしまい、再び悲鳴をあげて笑われる。
するとトレイシアが私の味方をしようとローリンダに汁をかけ……。
こうして繰り広げられる凶暴な離島の調理は、笑ってばかりでなかなか終わらないのであった。
[PHOTO by Osamu Kousuge]
左は凶暴な調理の様子。右は包む前のココナツキャンディ。葉に包んで丸めることが多いが、航海中に食べやすくするため、私は握りやすい棒状にした。冷めると固まるが、歯でかじれる程度の柔らかさ。
ようやくキャンディづくりを終えて伸びていると、家の前を通りかかった男が、私の名を呼ぶと物をポンと投げてよこし、足早に通り過ぎて行った。
私がキャッチしたのは拳大のタッパー。その中には……タバコの葉がぎっしり!
去りゆく男の背に私は叫んだ。サンキュー、アタリーノ!
彼はママの息子で、ヘンリーナの弟。要するに、私の弟ポジションである。
みながよく漁に行く無人島ウエスト・ファユで彼がタバコを栽培し始めたと噂には聞いていたが、こうして分けてくれるとは。
あまり愛想はよろしくないが、案外親切。
それに彼、マウの孫らしく航海術が大好きで、なかなかの腕前なのである。
7年前、サタワルのカヌー2隻と一緒にマイスで航海した時のこと。
マイスの方が舟も帆も大きいので、当然ながら早い。なので、我がマイスは時折、帆を降ろしてサタワルカヌーが追いつくのを待っていた。
そんなある時、サタワルカヌーの一隻が不意にスピードを上げ、みるみるマイスに近づいてきた。
よくみると、船尾の舵取りが、誰かからアタリーノに交代していた。
アタリーノが舵取りになった途端、カヌーがスピードを上げたのだ。
私はセサリオに尋ねた。
「なんでアタリーノだと速いの? 何が違うの?」
「前の舵取りは船尾に座って、舵に足を乗せてただろ? でもよく見ろ。アタリーノはほぼ立ってる。それだけ舵に体重を乗せて、舵を鋭く切ってる。だから早いんだ。疲れるけどな」
すごい速さでマイスを追い抜いて行くアタリーノは、とってもかっこよかった。
サタワルカヌーの最後尾(右端)で舵を取るアタリーノ。向こう側にある舵に足を乗せている。長時間やるので、舵取りを終えた足は、完全にふやけてシワシワになっている。
タッパーのフタを開けると、天然タバコのいい香りがした。
英字新聞の切れ端に巻いて一服していると、またアタリーノが通りがかり、声をかけてきた。
「カッツ、うまいか?」
「イギリガッチ!(最高でーす) ところでさ、アタリーノたちはいつサタワルを出るの?」
「4日後だよ」
「今回はナビゲーターなんでしょ? すごーい!」
「ウエインもだよ」
「気をつけてね。よい航海を!」
「おお。そっちもな。サイパンでまた会おう!」
今回のフェストパックには、サタワルからもシングルアウトリガーのカヌーが2隻参加する。
そのうちの一隻は、このアタリーノとウェインというまだ30代の若者が共同ナビゲーターとして初めて長距離航海に挑む。
ちょうどミヤーノと同世代。未来の航海術を支えて行くネクストジェネレーションのデビューである。
左がアタリーノ。右がウエイン。
そうこうするうちにみるみる時は過ぎ、荷造りや挨拶回りを終えるとすでに出航時間になっていた。
慌てて家を出ようとすると、軒先にリティが座っていた。
いつも浜で先頭に立ち、マイスへの積荷の指示出しをしていた彼も、今は足を悪くしたから今日はここでお別れだ。
第27話で紹介したこのたまらんおっさんは、ママの夫であり、ヘンリーナの父。
つまり私の父的ポジションで、仲良しではあるが、相変わらずホラ吹きでお調子者。
彼にしんみりした会話は似合わない。私はご陽気に言った。
「次に来るまで、ちゃんと生き延びててよね」
「おう、なんとかやってみるよ」
そう言って握手を交わすと、不意に互いの目に涙が浮かんだ。
我ながら意外だった。
なんだか慌ててしまった私は、軽くハグをして別れた。
浜でヘンリーナや娘たちにも別れを告げ、マイスに乗り込むと、しばし積み荷の整理に大わらわ。ようやく一息ついて顔をあげると、目の前は小さなカヌーで埋め尽くされていた。ざっと30〜40隻!
成年男子はもちろん、5、6歳の少年少女からおばちゃんまで、みんなきゃあきゃあはしゃぎながら、木の棒のオールを漕いでマイスに近づいてくる。
他の離島でも小さなカヌーが見送りに出て来るが、2、3隻がいいところ。
さすがサタワル。やっぱりカヌーの島なのだ。
古くから東隣の島プルワトと共に、航海術の島として名を馳せてきただけのことはある。
いくつもの知った顔が乗った無数のカヌーに私はいつまでも手を振り続けた。
そして最後の長丁場、サイパンまで480キロの航海が始まった。
[Photo by Osamu Kousuge]
離島こぼれ話 航海術ナンバー1はサタワルか、プルワトか?
このあたりの離島にはまだカヌー文化がしっかり息づいているが、その多くは近隣に魚やウミガメを獲りに出かける程度で、長距離航海をする島は多くない。
しかし、サタワルと、200キロほど東にあるプルワトは、古くから長距離航海術のライバルとして競い合って来た歴史がある。
ミクロネシア連邦の行政区分でいうと、サタワルはヤップ州の最東端、そのすぐ東隣にあるプルワトはチューク州の最西端と州は別々で、サタワルに向かう連絡船はヤップから、プルワトへの船はチュークから出ている。
とはいえ、かつてサタワルに滞在していた時の日記をまとめた土方久功氏の著書「流木」によれば、日本統治時代のサタワルには、プルワトのカヌーが年中立ち寄り、数週間〜数ヶ月も当然のように滞在している。その逆も多かったはずだ。
航海術が盛んな両島にとっては、私たちが隣町に車で出かけるのと同じような気軽さで、互いに行き来していたのだろう。
若き日のマウは、一時期プルワトに住み、そこのナビゲーターから航海術を習ったと言っていた。
双方に親族がいたり、結婚したり、移り住んだり養子をもらったり。
そういう深い関わりのある島同士である。
しかし、航海術では互いに負けたくないという意識は、昔から根強い。
スペイン、ドイツ、日本、アメリカの統治時代、宗主国の意向により、離島では長距離航海がほとんど行われなくなっていた。
特に、第二次大戦後、日本からアメリカの統治に変わってしばらくは、皆無であったと聞く。
ヤップやチュークからの「連絡船」が誕生したのが最大の原因だろう。
しかし、1960年代に復活が始まった。
きっかけを作ったのはニュージーランド人の航海者デビッド・ルイス。
伝統的な航海術のナビゲーターを探し求めていた彼は、西洋式の帆船でプルワトを訪ねた。
そこで、優秀なナビゲーターに頼み、帆船をプルワトからサイパンへ、伝統航海術を使って航海してもらったのだ。
そのナビゲーターは、もちろんサイパンに航海した「経験」はなかったが、代々伝わる「行き方」は熟知していたのだ。
その帆船がサイパンに伝統航海術でやって来て、サイパンではたちまち噂となった。
その時、たまたまサタワル島の酋長が病気でサイパンの病院に入院しており、この話を耳にする。
そして思った。
プルワトに負けてなるものか。
彼は島に戻ると、サタワルの優秀なナビゲーター兄弟、レッパン・ラップとレッパン・ルクに頼み、帆船などではなく、伝統的な航海カヌーで、サタワルからサイパンへの伝統航海を決行した。
すると今度は、プルワトが負けてはおれぬと、航海カヌーでプルワトからグアムへと航海……。
という、子供じみたライバル心でもって、長距離航海の復活競争の火蓋が切られたそうな。
連絡船による移動が一般的になった今、2島の交流は減りつつあるが、それでもなお「負けてなるものか根性」は根強く残っている。
*参考図書 ケネス・ブラウワー著「サタワル島、星の歌」
*本連載は月2回(第1&第3週火曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!
![]() |
林和代(はやし かずよ) 1963年、東京生まれ。ライター。アジアと太平洋の南の島を主なテリトリーとして執筆。この10年は、ミクロネシアの伝統航海カヌーを追いかけている。著書に『1日1000円で遊べる南の島』(双葉社)。 |