風まかせのカヌー旅
25 マウとマイスの物語
パラオ→ングルー→ウォレアイ→イフルック→エラトー→ラモトレック→サタワル→サイパン→グアム
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文と写真・林和代
私たちを乗せて太平洋を旅する航海カヌー、マイス。正式名称はアリンガノ・マイスという。
サタワル語で「美しい 落ちたパンの実」という意味だ。
パンの実。
これは背の高いパンの木に成る大きな木ノ実で、タロイモに次ぐ離島の主食である。
パンの木にはすべて所有者がいて、そのファミリー以外は勝手に実をとってはいけない。
しかし、強い風で地面に落ちたパンの実には所有権がなくなり、誰がとってもよい。
だから嵐の後、人々は森に入って落ちたたくさんのパンの実を拾い歩く。
その、「地面に落ちて所有権がなくなったパンの実」のことを、サタワル語でマイスと呼ぶ。
前回ご紹介したサタワル島のナビゲーター、マウ・ピアイルク。
彼がハワイ人に航海術を教え、そのお礼としてハワイからマウに贈られたこのカヌーに、マイスと名付けた理由を、マウはこう話している。
「本来サタワルでは、航海術は門外不出。よそ者に教えていいものじゃない。
でも、近頃の若い者たちは(西洋式の)学校ばかり行って、航海術を学ばなくなってしまった。
このままでは、遅かれ早かれ消えて無くなる。
でもハワイの人々は、熱心に航海術を学びたいと頼んできた。
だから俺は、島の禁を破ってハワイの人々に教えたんだ。
このカヌーは、マイス(落ちたパンの実)のように、望む人は誰でも航海術を学べる、開かれた舟にしようと思ったんだ」
マウはこうも述べている。
「ハワイにはエンジン付きの現代的な船がいっぱいある。でも、みんな機械で動いている。機械は必ずいつか、壊れるだろ? 海でエンジンが壊れたら、GPSが壊れたら、どうなる? 死んでしまうだろう。
でも、航海術を知っていれば、帰って来られるかもしれない。
アメリカ人でも日本人でも、どんなに立派な船があっても、
海に出る者は、航海術を知っていた方がいいんだ。みんなが学ぶために、このマイスを使えばいい」
マイスの船首。イラストがパンの実を表している。
しかしその後、私はサタワルで、マウの娘からこんな話を聞いた。
「マウはね、自分がマイスって呼ばれてたからカヌーにもそうつけたのよ」
この話には、マウの出自が関係している。
航海術の知識は無数にあり、広く知られている基本的なものから、特別なクラン(氏族)の中の、選ばれた人物にだけそっと引き継がれていくスペシャルなものもある。
サタワルには8つのクランがあり、そのうち3つが酋長を排出するハイクラン。残りの5つは平民。
ハイクランには、より多くの、スペシャルな航海術の知識が伝わっている。
つまり、ハイクランに生まれれば、それだけ航海術の習得に有利なのである。
しかしマウは、平民のクランに生まれた。
しかも、普通サタワルの男子は、父親や母方の叔父たちから航海術を学ぶのが一般的だが、
マウの父親は長くパラオに暮らしていたため航海術に疎く、しかもマウが幼い頃、島を出て行った。
叔父たちも、早くに亡くなっていた。
要するに、航海術を学ぶにはとても不利な出自だったと言える。
それでもマウは航海が大好きだった。
いつも、たくさんのウミガメや大きな魚を取ってきて島の人々に賞賛されるナビゲーターに憧れていた。
だから彼は、残された唯一の方法を使って、学ぶことにした。
ヤシ酒を持って優秀なナビゲーターたちを訪ね歩き、航海術を教えてくれと頼んで回ったのだ。
何人かはヤシ酒を飲まなかった、つまりマウの願いを拒否したケースもあったと聞く。
教えるか教えないかは、そのナビゲーターの判断に委ねられているのだ。
それでもマウはヤシ酒を携えて様々なナビゲーターを訪ね、小さな知識のかけらを集めて回った。
この努力の姿勢を人々は、まるでマイスを拾い集めるようだと評し、賞賛した。
自分がそう呼ばれていたことが誇りだったのだろう。
マイスというカヌーの名前には、そんな意味も込められている。
ミクロネシアの航海術で、方角を知る上で重要な存在とされる軍艦鳥=フリゲートバード。マイスはその軍艦鳥が羽ばたいているような姿にしたいと考えたマイス建造メンバーは、船首にこんな顔を彫った。
こうして名前をもらったカヌー、マイスは、2007年、誕生の地であるハワイ島のカワイハエという港を出て、ホクレア号とともにサタワルへと航海、マウとサタワル島のコミュニティに贈られた。
その時、マウはすでに病気であったが、大変喜び、サタワルでは50年途絶えていた儀式、ポウ・セレモニーを行った。これは航海術の学習者が一人前になったと認める卒業式のような意味合いのもの。
ハワイの教え子たち、セサリオ、他数名のサタワル人はこの時、ポウ=一人前の航海者の称号を得た。
この時の儀式についてはまた後日、ご紹介したい。
さて、めでたくマウに送り届けられたマイスであったが、実際問題、ラグーンがないサタワルで、マイスのような大きなカヌーを維持することはできないので、ひとまずセサリオが預かることとなった。
一方、このホクレアとマイスがサタワルを訪れた航海では、周辺のミクロネシアの島々にも立ち寄ったのだが、その途中、ヤップからパラオへ向かう航海に、当時のパラオの大統領がマイスに同乗した。
そして航海術に感銘を受けた彼は、パラオの人々にも航海術を教えて欲しいと依頼。
セサリオは先生として、マイスは実習船としてパラオの学校=パラオ・コミュニティ・カレッジ(PCC)に招かれた。
こうして、セサリオ一家はマイスとともにパラオに移住。現在に至っている。
ただ、 マウ自身は、マイスが贈られた翌年、マイスで一度も航海することなく、亡くなった。
また、最初にマイス建造を約束したハワイ人、クレイ・バートルマンは、2003年、建造途中で他界。
それでも、海に出る者はみな航海術を学んで欲しいというマウの願いは、セサリオによってちょっとずつ、ゆっくりと継承されている。
離島でもマイスのようなポリネシア式のカヌーは珍しいので、停泊中はたくさんの子供たちが乗り込んで、大いに遊んでいる。
離島情報コラム
【カヌー作り】
離島のカヌー、シングルアウトリガーを作るのも、航海術の知識の一つである。
その中には、新しく作る技術、維持管理の仕方、そして航海中に壊れた時の修理の仕方など、たくさんの知識が含まれている。
PHOTO by Osamu Kousuge
離島では各クラン(氏族)ごとにこうした仕事は行われる。
各クランのカヌー小屋に、そのクランのカヌーが収まっていて、必要に応じて新しいカヌーが作られる。
まずはそのクランに属するカヌーを作る知識を持ってる人が棟梁となり、クランの若者たちが集められ、建造が始まる。
まずは、材料となるパンの木を選んで切る。
ただしパンの木は財産なので、そのクランの人の木が望ましいが、もし適した木がなければ、他のクランに頼んで木をゆずり受ける。
その代金(?)は、ラバラバなどによって支払われる。
そして、木をカヌーのパーツ(大きさにもよるが5、6個のパーツであることが多いという)
に切り分けるのだが、設計図という目に見えるものはなく、全ては棟梁の頭の中にあるのみ。
なので、棟梁が木にえんぴつなどで線を引き、それに合わせて若者たちが手斧を使い、ちょっとずつちょっとずつ、削り出していく。
完成したパーツは、ヤシの実の繊維を乾燥させ、丹念に撚って作ったロープでつなぎ合わせていく。
釘は使わない。
どれも根気のいる作業で、1隻の航海カヌーを作るのに、少なくとも1年はかかる。棟梁のペースや若者たちの集まり具合、働きによって、2、3年かかることもざらにある。
若者たちは、棟梁の指示に従って作業をしつつ、カヌー作りの工程を覚えていく。
子供達の遊びで今も人気が高い「カヌーの模型作り」も、カヌーの全体像を把握したり、各パーツの名前や役割を覚えるのにとても貢献している。
自分が作ったカヌーの模型を海に浮かべて友達とレースをしてみると、やはりバランスの良し悪しやスピードに差が出る。そこから、どうすれば安定感が高まるか、早く走るかを大人に習いながら、習得していく。
気が遠くなるような作業の連続だが、完成したカヌーがスピードが出て、おまけに魚やウミガメがたくさん獲れたりすると、優秀なカヌーだと島で評判になったりするのである。
*本連載は月2回(第1&第3週火曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!
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林和代(はやし かずよ) 1963年、東京生まれ。ライター。アジアと太平洋の南の島を主なテリトリーとして執筆。この10年は、ミクロネシアの伝統航海カヌーを追いかけている。著書に『1日1000円で遊べる南の島』(双葉社)。 |