ブルー・ジャーニー

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#98

アルゼンチン はるかなる国〈17〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「行き当たりばったり」

 インカ帝国の公用語だったケチュア語で「木のない草原」を意味する“パンパ”。インディオは馬の上に立って牛を探し、ガウチョは牛を殺して馬をつないだ。

 水辺に群れる渡り鳥はにぎやかだけれど、パンパに生きる鳥はあまり鳴かない。遠くからでも互いのすがたを確認できるので、絶えず呼び合う必要がないからだ。

 日本列島を飲みこんでも、まだ北海道ふたつ分近く余る約53万5000平方キロの大平原、パンパ。ブエノスアイレスからアンデスの麓の始まりまで、直線距離で約1350キロ、所々に起伏はあるが、端から端までの標高差はわずか7メートル。だから「ビリヤード台のような」と形容される。

 

1701

 

“ラ・プラタの博物学者”、ウィリアム・ヘンリー・ハドソンは「ぐるり一面、どちらを向いても平らな」パンパで生まれ、青少年期を過ごした。「大地の果ては青くかすみ、完全な円を描いていて、その上に水晶のように青く澄んだ、大空の丸屋根がかかっている」

 青い光は赤い光よりも多く散乱する。だから風景は遠くに向かうにつれて青く染められる。

 空の青さは大気の透明度と大気に含まれる水分の量で決まる。パンパの空の青さはパンパにしかない。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘスがはじめてパンパを旅したのは10歳のときだった。

「もよりの家が、地平線上にぼんやりかすんでいたのを記憶している。このはてしない距離がパンパというものであることを知った」

『コンキスタドール』でピューリッツァ賞を受賞したアメリカの詩人、アーチ・ボルトは言った。

「あまりにも平板に伸びているので、時間さえ節目をつけがたく、ある世紀が前の世紀と変わらない国。空があまりに巨大なので、その青さから家を被うために、人びとが高くそびえるユーカリの林を育てている国。石のない草ばかりの国」

 アルゼンチン生まれの作家、エルネスト・サバトは、パンパを“無”と表現し、アルゼンチン人の心に深く根ざすムーファ(憂鬱)は無に助長されていると指摘。さらにキリスト教、イスラム教が砂漠で誕生したことは偶然ではないと述べる。

 

1702

 

「この旅は常に『行き当たりばったり』という大まかな方針に従ってつづけられることになった」

 1952年1月4日、23歳のエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、6歳年上のアルベルト・グラナードとブエノスアイレスを出発。「本でしか知らなかった南米大陸」に向かって、中古のモーターバイク“ポデローサ2号”のアクセルを開けた。

“ポデローサ2号”はイギリス製の1939年式ノートン500ccで、ポデローサは「強力な」を意味するスペイン語、ポデローサ1号は自転車だった。

 最初に南アメリカを縦断の旅を夢見たのはグラナードだった。

「どうしても世界が見たくなった。観光客の目ではなく、そこに住む人の眼と魂で見てみたかった」

 2年後、14歳のゲバラがその夢に加わった。

 グラナードが人生に迷うたびにゲバラは言った。

「そうか、じゃあ旅はどうする?」

「なにをやっても失敗する可能性はある。でも、あれだけはべつだ」

 ゲバラの家族は母親を除いて旅に反対だった。「踏みならされた道を行くべきだ」。

 母親はグラナードに言った。「かならずもどってきて、学業をまっとうするように説得してちょうだい。学位は邪魔にはならないわ」

 ゲバラはブエノスアイレス大学医学部卒業間近で専門はハンセン病、グラナードはすでに医者で生化学者だった。

 

1703

 

 出発の約1カ月前に行われたアルゼンチン大統領選挙で、エビータの強力な援護の下、フアン・ペロン・ドミンゴが圧勝で再選。

 独裁に抵抗する数少ない要塞のひとつだったアルゼンチン作家協会は、ペロンによって閉鎖された。会長だったボルヘスは絶えず尾行され、70代の母親は自宅監禁となり、妹と甥のひとりは監獄に送られた。

 ペロンが政界に登場してから、公然と反ペロンの立場を取っていたサバトは大学教授の職から追放されていた。

 反ペロン運動に参加し、投獄されたことがあるフリオ・コルタサルはアルゼンチンを離れ、留学生としてパリに向かった。

 グラナードも反ペロン運動に参加し、投獄されたひとりだった。

「民族主義の服を着たアルゼンチンのナチズムに、民主主義が脅かされていた。そしてアルゼンチンの真の英雄とも呼べるひとたちは迫害、投獄され、学生と反動的な教師が衝突した。おかげでわたしたちは身の安全を考えて卑屈に追従する教師よりも、もっとましなことをしようという思いに駆り立てられた」

 留置場に面会に行ったゲバラの胸に現実が刻み込まれた。

 

1704

 

 ブエノスアイレスを出発したゲバラとグラナードは大西洋岸に沿って南下、約640キロ離れたバイーア・ブランカに向かった。

 チャールズ・ダーウィンが、ほぼ同じルートを、逆方向から12日間かけてたどったのは約120年前のことだった。

「単調きわまりない一様な眺めをさえぎる木や灌木は1本もなく、しなびた草むらがパラパラと散在するだけだった。アザミで焼いた肉をさす串さえつくれない」

 ある晩、ダーウィンは「一目瞭然の証拠がなかったら、とても信じられないような事実を教えられた」。事実とは小型のリンゴぐらいの大きさの、途方もなく硬い雹が降ったことで、証拠とは打ち殺された野生動物──パンパスシカ20頭、ダチョウ15羽(1羽が夕食になった)、たくさんのカモ、タカ、ヤマウズラ──の姿だった。さらには、なにごとかと頭を外に出した道案内のひとりが、ひどい切り傷を負っていた。

 ハドソンがニワトリの卵ほどの大きさの雹に遭遇したのは7歳のときだった。飼っていた羊50頭、雌牛3頭、馬1頭が死に、数え切れないほどの家畜が負傷。近所の6歳の少年が、草葺きの屋根を突き破って飛びこんできた雹に頭を打たれ、即死した。

 

1705

 

 バイーア・ブランカを出たゲバラとグラナードは海岸線を離れ、パンパのまっただ中へハンドルを切った。迂回しなければならない山も谷もないから、道はどこまでもまっすぐだった。

 やがて舗装路は終わり、ポデローサ2号は焼けるような砂にタイヤをとられ、1日で11回、転倒した。

 夜になると、ポデローサ2号の横に簡易ベッドを並べ、「カタツムリのように」小さく丸くなった。

「僕らはそわそわ心楽しく先のことを思い描いていた。向こうの方、冒険の方から吹いてくる、もっと軽い空気を、もっと自由に吸っているみたいな気分だった」

 

(つづく)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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