越えて国境、迷ってアジア

越えて国境、迷ってアジア

#97

東京西部「三国国境」から、国境線を分かつ川を歩く

文と写真・室橋裕和

コロナに負けず、東京を歩いて旅しよう 

 旅の原点とは、なんだろうか。
 それは歩くことだと思うのだ。遠く離れた海外でなくてもいい。日本の、自宅の近くにだって「あ、このあたりあまり歩いたことない」「こんな店あったっけ」なんて場所がきっとある。
 そんな路地を、興味のままにさまよってみる。
 あの角を曲がったら、どんな街が広がっているんだろうと、どんどん足を延ばしていく。
 旅というのは移動しながら好奇心を満たし、なにか発見をしていくものだと思っている。であるなら、コロナ渦巻く中で閉ざされてしまった海外でなくても、自宅の近所だってリッパに旅は成立するのである。
 ソーシャルディスタンスを保った散歩であるならば、「三密」には当たらない。むしろ日々の健康維持に重要であると、国の専門家会議とやらが提唱している。それならば、遥けきアジアの国境が遠いいま、僕の住む新宿区を拠点に各地を歩いて旅してみようではないか。
 もちろん当連載のテーマも忘れてはならない。まず向かうは西である。そこに広がるサブカルの街・中野区へと越境しよう。新宿区・中野区の国境地帯にはいったい、なにがあるのか。言うなれば「越えて区境、迷って東京」といったところである。

 

人が消えてしまった歌舞伎町 

 出発地点は我が家のある新大久保だ。
 コリアンタウンという枠を超えて、東南アジア、南アジア、ムスリム、アフリカ系など雑多な人々が住みつく、ごちゃごちゃな多国籍タウンだが、やはりコロナの影響は大きい。本当に人が減った。平日だって、韓流を楽しみにきた日本人女子たちで歩道があふれかえっていたものだ。3月下旬くらいまではハットグやタピオカの店にたむろす女子たちも見られたが、いまやほぼ皆無、観光客は消えてしまった。
 それでも、生活者としての外国人はたくさんいる。留学生たちは学校の再開を待ちながら、アルバイトをしてしのいでいる。コンビニやスーパーやドラッグストアでも、感染の不安を抱えながらたくさんの外国人が働く。
 そして、改めて歩いてみると、テイクアウト対応するレストランがずいぶん増えたなあ、と思う。大久保通りから、新大久保駅すぐ西の一番街を歩けば、韓国、タイ、ベトナム、インドネシア、中国、ネパール……それぞれの店がコロナに負けじと弁当で対抗し、けっこう人気になっているのだ。どうにかみんな、生き残ってほしい。
 新大久保から、職安通りを渡って歌舞伎町に入る。
 東洋一の歓楽街と言われたこの地も、夜のお店がクラスターと化し、多数の感染者を出してしまった。以来ほとんどゴーストタウンになっているのだが、それでも夜になるとシンと静まり返った暗がりから客引きが寄ってきて、
「さ、どすかヌキとか」
「ギャンブルとか興味ないすか」
 なんて話かけてくる。恐ろしいのはこの人々、マスクをつけていないのだ。声が通りにくいから、という理由らしいが、怖くないのだろうか。

 

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昼でも夜でも歌舞伎町はいまやこんな感じ。飲み屋、風俗は壊滅状態

 

かつて東京を襲った感染症があった 

 この歌舞伎町の一角は、実は明治時代にも疫病の流行に晒されている。コロナではなく、コレラであった。猛烈な下痢と高熱を伴うこの病、インドからバングラデシュにかけての地域が「原産」らしいが、19世紀に世界中に拡散し、何度もパンデミックを起こしてきた。日本には1822年(文政5年)に上陸、以降は幕末にかけて数十万の犠牲者を出し、人がころりと死んでしまう有り様から「虎列剌(コロリ)」とも呼ばれたらしい。
 やがて明治に入ると、少しずつコレラの治療法が確立していく。大事な点はコロナと同じだ。患者を隔離して、社会との接触を防ぎ、伝染させないこと。そのために、東京各地につくられたのが「避病院」、つまり隔離専門の病院だ。そのひとつが、この地にあったのだ。
 明治初期は歓楽街もなく、まだまだ畑も広がるのどかな郊外だったらしい。そこに建てられた大久保避病院は、コレラ患者が苦しみ死んでいく場所としてずいぶん忌み嫌われたという。江戸っ子は「ひ」を「し」と発音するが、だから「避(ひ)病院」は「死(し)病院」なんて呼ばれることもあり、日本がコレラを克服する20世紀初頭までは人の近づかない場所だったともいわれる。
 関東大震災によって大きく被災した大久保避病院は、その後さらに第二次大戦時の東京大空襲を経て、戦後の再開発の中で建て替えられ、地域を代表する大型総合病院、大久保病院へと生まれ変わった。
 病院のすぐ前にある大久保公園はよくフェスで使われるが、いまはイベントもすべて中止だ。公園の一角には喫煙所があったが、近隣のサラリーマンたちがマスクもせずに「密集」「密接」してタバコを吸いながら談笑していた。目の前の大久保病院では防護服姿の人々が救急車から患者を運び入れているのに、なんという温度差なんだろうかと思った。

 

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いまは人もまばらな大久保公園。その奥は大久保病院だ。かつて「避病院」がここにあった

 

新宿副都心はかつて巨大なプールだった 

 西武新宿の駅前から、大ガードをくぐって西口方面に向かう。
 副都心にそびえる摩天楼の、その足もとは、さみしく静まり返っている。このあたりの高層ビルに入る大企業の皆さまは軒並みテレワークとなっているのだろう。ぜんぜん人がいないのである。ランチどきなのに、各ビルの地階にあるレストラン街もガラガラだ。
 その代わりに目立つのはホームレスであった。高架下や地下通路などいたるところに段ボールハウスが並ぶ。これほど多かっただろうか。サラリーマンが少ないぶん目に付くようになっただけだろうか。それに茶わんや皿を置いて小銭を求めている人もけっこういる。以前はただ路上で暮らしているだけで、モノやお金を乞う人はあまりいなかったように思うのだ。あの中にはコロナで失業した人々も混じっていたりするのだろうか……。
 そんな気持ちで新宿中央公園に入ったが、実に気持ちのいい春の景色が広がっていたのだ。新緑の緑と、鮮やかな花々。穏やかな陽気。ビル街よりもむしろ、こちらのほうが人が多いくらいだった。皆さんソーシャルディスタンスを保ちながら、散歩をしたりテイクアウトしてきた弁当を食べたり、子供を散歩させたりしている、平和な光景だけど、誰もがきっと心の中にモヤモヤを抱えているのだろうと思う。
 この公園の片隅にもまた、コレラと東京との戦いの記録が、ほんの少しだけ残されていた。六角堂という洋風の東屋だ。1965年(昭和40年)まで、この建物を中心に、西新宿一帯は巨大な浄水場が広がっていたのだ。淀橋浄水場といった。
 通水を始めたのは1898年(明治31年)のこと。維新後の近代化を進めるにあたって、都内の生活用水の水質改善が叫ばれたのだ。その理由のひとつが、明治に入ってもたびたび流行したコレラだった。コレラは不潔な環境と汚染された水を好む。撲滅のためには近代的で清潔な水道システムこそが求められたのだ。
 新宿の巨大化に伴い、浄水場は廃止され、多摩地区に移っていった。いまはそこから送られてくる水を都内各地に振り分けていく、淀橋給水所へと変わった。ハブのような施設といえるだろう。災害時給水ステーションでもあるようだ。
 区の地域文化財だという六角堂のベンチに座り、近隣のインド料理店のテイクアウト弁当でランチにした。新宿に住んでいながら、この公園に来たのもはじめてだし、浄水場の存在も歴史も知らなかった。同じ区内でも発見はあるものだ。

 

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淀橋浄水場の象徴だった六角堂。ここだけは往時のまま保存されている

 

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昔の新宿副都心は一面のプールだったらしい。東京散歩はこういう案内板がたくさんあるので楽しい

 

都内国境地帯を歩く! 

 新宿中央公園から西側は、僕にとってさらに未知の領域である。西新宿五丁目駅の近辺なのだが、目の前に都庁がそびえる割には意外にも庶民的な街並みが広がっていたのだ。木造の古い民家も残る。味噌の専門店があり、布団屋がある。瀬戸物屋、小さな八百屋、おんぼろのスナック、懐かしい佇まいの美容室、不意に現れる庚申塚……ビルの谷間に昭和を見つけた気がした。
 そしてそんな街並みを進むと現れる、小さな三差路……。
 僕が進んできたほうの住所は、新宿区西新宿5丁目である。しかし左手のお宅の表札を見れば、渋谷区本町3丁目。そして正面の古びた家の前にある消火ボックスには、中野区弥生町1丁目と表記されている。そう、ここは3つの区が境界を接するレアポイントなのである。
「ほほう……」
 通りがかるママさんからの視線はやや痛いが、一眼レフ片手に3国国境をうろつきまわってみる。取りたてて、違いは見当たらない。しかしほんの数メートル離れるだけで、例えばごみ出しのルールが違う。介護保険料が違う。受けられる住民サービスも異なる。地価水準や家賃相場も当然違うわけで、最も高い渋谷区側を見てみると、新宿・中野側よりもやや豪華に見えてしまうのは気のせいだろうか。
 ここから北に進むと、神田川に出る。
 その両岸は遊歩道になっていて、葉桜やつつじが彩る。川幅は意外に広く大きく、存在感がある。この神田川を、ゆるゆると北に歩いていく。僕のように散歩をする人、ジョギングをする人、つつじを撮影している人。親しまれているのだと思った。和んだ空気が心地よい。
 川の両岸は、別の国である。東側が新宿区、西側が中野区だ。いわばこれは、タイとラオスを分かつ国境の大河川メコンと同じであろう。はるかインドシナ半島に思いを馳せながら、メコン川いや神田川にかかった橋を行ったり来たりする。パスポートは必要ない。コロナ陰性証明書も求められず、僕たちは中野区と新宿区をまたいで旅できるのである。
 しかし。
「中野の、江古田病院。コロナすごい出たでしょ。だから散歩のコースこっちに変えたんだよね。怖いから」
 マスクのお爺ちゃんたちが、そんなヒソヒソ話をしていた。特大のクラスターとなってしまった病院だった。中野では感染拡大が続いている。のどかな遊歩道のほんの数キロ向こうに、医療崩壊の現場がある。どこか現実のものとして捉えづらかった。
 旅のゴールは東西線の落合駅だ。ここはまた、駅の北側が新宿区、南側が中野区となっている。国境駅なのである。両区の国境線をずっと歩いてきたことになる。
 新大久保の我が家からぐるぐる回っておよそ6キロ。身体はぽかぽかと暑く、心地よく疲れ、気分も少し晴れていた。きっとコロナと戦う免疫力も、いくらかは上がったはずだ。

 

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ここが三国国境だ! 左が新宿区、右が中野区、正面が渋谷区。お「区」柄が出ている?

 

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右岸の新宿区、左岸の中野区を従えて神田川は流れる。この遊歩道は実に気持ちがいい

 

 

*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」

 

*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

 

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室橋裕和(むろはし ひろかず)

1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発日本語情報誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを務め、10年に渡りタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。おもな著書は『日本の異国』(晶文社)、『海外暮らし最強ナビ・アジア編』(辰巳出版)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書)。

 

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