ブルー・ジャーニー

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#97

アルゼンチン はるかなる国〈16〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「ゲリーラ・エロイコ」

 1951年12月29日、ブエノスアイレス市アラオス街2180、自宅を出たエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、アルベルト・グラナードとイギリス製のモータバイク、ノートン500cc にまたがり、南米大陸の「ものすごい驚異のすべて」をめぐる放浪の旅に出た。29歳のアルベルトは6歳年下の親友を “フーセル”と呼んでいた。ゲバラのラグビーのプレイスタイルを讃える呼び名で、“フュリアス(=猛烈な)・ゲバラ・セルナ”を縮めたものだった。

 

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『この旅は思っていたよりぼくを変えてしまった』。8カ月2万キロの旅から帰ったゲバラは、翌年の6月、医師の資格を取得。ブエノスアイレス医科大学を卒業すると、放浪を再開した。

 

 キューバ人、ニコ・ロペスと知り合ったのは、グアテマラに入国してすぐだった。

 ニコはフィデル・カストロが指揮するキューバ反政府勢力の一員であり、ゲバラを“チェ”と呼んださいしょの人間だった。

“チェ”は「おい」「きみ」といった呼びかけで、南米大陸でアルゼンチンだけが会話のはじめに使う言葉だった。

 グアテマラは改革派とアメリカを後ろ盾とする勢力が対立、中南米を象徴する政治的緊張状態にあった。ゲバラは迷うことなく改革派に身を投じ、軍医兼兵士となったが、戦いは10日も経たずに決着。アメリカ合衆国中央情報局(CIA)が据えた傀儡政権によって、改革派のグアテマラ人約9000人が殺され、あるいは刑務所に送りこまれた。

 アメリカから派遣された戦闘機を目の当たりにしたゲバラは、母親に当てた手紙に書いた。

 ───戦闘機が飛んできたとたん、人びとが狂ったように逃げまどうのを見たとき、また停電の中で町が蜂の巣にされているとき、あの魔法のような不死身の感覚がわいてきて、うれしくて舌なめずりをする思いでした。

 

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 やはりグアテマラでのことだった。

「きみはこぶしを握り、歯を食いしばって死ぬことになるだろう」。スターリン政権下のユダヤ人大虐殺から逃れてきた老人はゲバラに向かってつづけた。「憎悪をたぎらせ、戦う姿勢をとったままで死ぬ。なぜなら、きみはシンボルなどではなく、崩壊しつつあるひとつの社会のまぎれもない構成員だからだ。大衆の精神がきみの口を通して発言し、きみの行動を通して発現する。きみは私と同じように有能だ。だが、きみが社会のために役立てようとするその有能さが自分をどれだけ犠牲にするかわかっていない」

 

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 “チェ”になったフーセルがフィデル・カストロと出会ったのはグアテマラ内戦の翌年、1955年7月、メキシコにおいてのことだった。

 チェは日記に書いた。

「ふたりのあいだにはお互いへの共感があるようだ」

 1959年1月1日、カストロは、アメリカ合衆国の傀儡政権、バティスタ政権を倒し、キューバ革命を勝利に終わらせた。ともに戦ったチェは社会主義国家となったキューバの工業化の責任者となり、さらに国立銀行総裁に就任した。

 

 1962年3月4日。ベルギーから武器、弾薬70トンを積んでキューバ・ハバナ港に入港した貨物船、ラ・クプル号が──CIAの仕業だと言われている──2度に渡って爆発し、沈没、81名が死亡。

 翌年、追悼式が行われ、政府閣僚、サルトルやボーヴォワールといった賓客が登壇。後列に座っていたチェは、会場の様子をたしかめようとするかのように前列に歩み出て、ふたたび下がった。30秒ほどのできごとだった。

 フォトグラファー、アルベルト・コルダ(本名アルベルト・ディアス・グティエレス)は追悼式を記録したフィルム1ロールを『レボルシオン』紙に入稿。カストロと賓客が翌日の1面に掲載された。

 返却された1ロールに2カットだけ焼き付けられたチェの姿が気に入ったコルダは、そのうちの1枚を引き伸ばし、“ゲリーラ・エロイコ(=ゲリラ・ヒーロー、英雄ゲリラ)”と名付けて自らのスタジオの壁に貼った。

 

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「チェの写真を探しているんです」

 イタリアの新左翼系出版社の編集者、ジャンジャコモ・フェルトリネッリがコルダを訪ねてスタジオにやってきたのは追悼式から5年後、1967年のことだった。

 チェは、その2年前「ささやかなぼくの力を求めている国がある」という言葉をカストロに残し、キューバにおけるすべての地位、階級、市民としての資格を捨てて、消息を絶っていた。

 壁に貼られた“ゲリーラ・エロイコ”を見たフェルトリネッリは言った。

「これのコピーをいただけませんか?」

「どうぞ」

 翌日、焼き増し2枚ができあがった。

「いくらですか?」

 フェルトリネッリのことをチェの崇拝者だと思っていたコルダは言った。「けっこうです。あなたへのプレゼントです」

 それから2年後、チェがグアテマラで出会った老人の予言は現実のものとなった。

 1967年10月8日、ボリビアのスクレの東、ラ・イゲラ村に近い荒れ果てた峡谷で捕らえられたチェは、翌日、キューバ生まれのCIA諜報員フェリクス・ロドリゲスの命令によって処刑された。

 処刑者は銃で両腕と両脚を狙った。戦闘中に死んだように見せかけるためだった。地面に倒れ、「悲鳴をあげまいとして手首を噛みしめていた」チェの胸に最後の銃弾が撃ちこまれた。

 39歳。放浪の旅、16年目の帰結だった。

 

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 チェの死から29年後、ひとりのアメリカ人ジャーナリストがセリーチ未亡人からメモを託された。そこには封印されていた記憶──処刑前に政府側のアンドレス・セリーチ中佐がチェとかわした約45分間に及ぶ会話──が書き留められていた。

 

「司令官(コマンダンテ)、あなたはどこか悲しそうです」とセリーチは言った。「どうしてですか?」

「私はしくじった。すべておしまいだ。だから、そんなふうに見えるのだろう」とチェは答えた。

「あなたはキューバ人ですか、それともアルゼンチン人ですか?」

「私はキューバ人であり、アルゼンチン人であり、ボリビア人であり、ペルー人であり、エクアドル人であり……わかるだろう」

「なぜ、ここボリビアで戦う気になったのですか?」

「農民がどんな暮らしをしているか、きみには見えないのか?」とチェは反問した。「まるで未開人のようだ。胸が痛くなるような貧困のなかで暮らしている。たったひとつの部屋で眠り、料理をし、身にまとう服もないまま、獣のように見捨てられている……」

「しかし、それはキューバでも同じではありませんか」とセリーチは言った。

「いや、ちがう」とチェは反論した。「キューバに貧困があることは否定しない。だが[少なくとも]あそこの農民は進歩の幻想をもっている。ところがボリビアの人びとは希望がないまま生きている。ただ生まれ、ただ死ぬ。人間としての状況にいささかの改善を見ることもなく」

 

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 チェの死亡の公式発表から数日後、フェルトリネッリはコルダの写真をポスターにデザインして発売。左翼的反体制運動の波が大きくうねってヨーロッパで大きな反響を呼び、販売数はイタリアだけで100万枚を突破。さらにジム・フィッツパトリック(フィンランド)やアンディ・ウォーホール(アメリカ)などのアーティストの作品、「もっとも完璧な人間(ジャンポール・サルトル)」「世界でいちばんかっこいい男(ジョン・レノン)」といった言葉に乗って、思想、国境、人種、年齢、性別を飛び越え、なによりコルダが権利を主張しなかったために“ゲリーラ・エロイコ”は──紙幣、旗、車のナンバープレート、Tシャツ、バッグ、ボタン、マラドーナの左腕をはじめ──ありとあらゆるものに転写され、20世紀でもっと数多くコピーされた写真となった。

 

(引用参考資料:『読書礼讃』/白水社、『月刊プレイボーイ No.402』/集英社、『チェ・ケバラ 第2回AMERICA放浪日記』/現代企画室)

 

(つづく)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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