ブルー・ジャーニー

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#94

アルゼンチン はるかなる国〈13〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「ムーファのなかから」

 ──幸せな家族はいずれも似通っている。だが、不幸な家族にはそれぞれの不幸な形がある。

 

 アルゼンチン生まれの作家にして稀代の読書家、アルベルト・マングェルはトルストイの『アンナ・カレリーニナ』の冒頭の言葉を、都市の表情に重ね合わせて言う。

「幸福な都市はどれもよく似通っているが、憂鬱な都市はそれぞれに憂鬱である。リスボンのサウダージ=郷愁、トリノのメスティーツィア=憂愁、ウィーンのトラウルヒカイ=哀愁、アレクサンドリアのアンニュイ=倦怠、ボストンのディサピアー=落胆、グラスゴーのグルーミィ=陰鬱、プラハのビードゥニィ=陰惨、ブエノスアイレスのムーファ=憂鬱」

(※18歳のとき、ボルヘスの恋人だった作家エステラ・カントと午餐をともにしたマングェルは、ボルヘスがブエノスアイレスの街を歩き、路面電車に乗り、あてもなくさまようことが好きだったことを聞かされた)

 

1301

 

 1880年(明治13年)、ブエノスアイレスが首都に認定されると、移民の流入は洪水となった。この年のブエノスアイレスの人口はネイティブが約6万人、外国人が約3万3000人。17年後、人口は約4.6倍増の約43万3000人。ネイティブ20万4000人、外国人22万8000人と、比率は逆転した。

 タンゴは、こうした時代に、ラ・プラタ川沿いの港街の、場末の売春宿で生まれた。

 当時、ブエノスアイレス大学医学部教授であり作家を志していたフランシスコ・シカルディは、「売春婦、売春斡旋業者、泥棒、贋作製造者、詐欺師、姦夫や姦婦、人殺しといったあらゆる人間的な悪臭」が漂う場末の夕暮れを論文に書きとめた。

 

 ──その夕暮れ時をわたしは忘れることができない。ざわめきたつ長い昼が消散していって薄暗がりが降り立ち、あらゆるものをすっぽり包み込む。真っ暗な街区と闇の片隅では恋人たちが逢い引きし(中略)不安な影のような売春婦たちが光乏しい街を通りすぎていく。危険な時間がやってきた。薄暗がりはよりいっそう降り立ち、あらゆるところでその濃さを増し、売春宿の明かりがともる。(中略)街灯のしたを馬車が通りすぎ、路面馬車がうなりをあげてレールの上を走り去る。夜空はひどく暗い。

 

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 1832年、ファン・マヌエル・デ・ロサス将軍が、私兵を率いてブエノスアイレス州に住んでいたインディオを一掃。この“荒野の征服作戦”と呼ばれた軍事行動によって殺害されたインディオは約6000人を数えた。

「ここに住む人はだれでも、今回の戦争が野蛮の者たちを倒すための戦いだと、確信している。文明化されたキリスト教の国で、こんな虐殺がいまどき行えるとは、だれが信じるだろう? けれども事実は事実、命だけは助けられたインディオの子も、売られるか、あるいは召使い──というよりも奴隷にされるかのどちらかなのだ」。ビーグル号で南アメリカ大陸を訪れ “荒野の征服作戦”を目の当たりにしたチャールズ・ダーウィンは思った。「インディオたちがスペインの征服者たちに討ち亡ぼされる過程を振り返ると、わたしは気分が暗くなる」

 それから約30年後、フリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍が、パンパからインディオを一掃しようと“砂漠の征服作戦”を実施。(どちらが残酷かはわからないが)アメリカ合衆国がインディオを特定の地域に移住させ、生き延びさせたのに対し、アルゼンチンの殺戮は徹底的だった。インディオは20万人から2万人に減少。取り上げられた土地は、征服に参加したごく一部の人間に分配され、大土地所有者と一般の人々の差は決定的に拡大。生き延びたインディオはアンデス山脈に姿を消し、あるいは奴隷としてブエノスアイレスに送りこまれた。

 

1304

 

 アルゼンチンでは、真に勇敢な男らしい男は“オンブレ・ガウチョ(男らしい男)”と呼ばれ、ガウチョらしい男は“ガウチャーダ”と言われる。

「パンパのガウチョは、数カ月というもの牛肉以外になにも食べないのだ。(ダーウィン)」移民の第一世代の子孫であるガウチョは、野宿を重ねながら野生の牛や馬を追い、アルゼンチンの経済の発展を支えた。

 ガウチョの性格を知り抜いていたロサス将軍はガウチョを集め、訓練して“荒野の征服作戦”の最前線に送りこんだ。

 ガウチョによって組織された騎馬軍はスペインの軍隊と戦い、ウルグアイ、チリ、ボリビア、ペルーをスペインの支配から解放した。

 2度に渡るイギリス軍のアルゼンチンへの侵略を撃退したのもガウチョで構成された軍隊だった。

 ガウチョにとってなにより大切なことは、ガウチョであることだった。だれかやなにかのためではなく、純粋に勇敢で自由でありきることだった。

 だが時代は変わり、勇気を証明する機会は失われた。牧場に有刺鉄線が張り巡らされ、パンパを横切る鉄道に自由を奪われたガウチョの多くは場末の労働者になった。

 

1303

 

 大土地所有者をはじめとする上流階級はブエノスアイレスとロンドンに大邸宅を構え、ブエノスアイレスにパリの再現を夢見た。

 一方、遅れてやってきた移民には夢を見る自由もなかった。

 

 ──祖国! いったい誰の祖国なのか! 何百万もの人間がスペインの洞窟から、イタリアの寒村から、ピレネーの山から海を越えてやってきた。世界のあらゆる賤民(バーリア)たちが船底に積み重なって、だが、あそこには自由が待っている、もうすぐ自分たちは家畜ではなくなるのだと夢見ながらやってきたのだ。(中略)だが、待っていたのは過酷な労働、僅かな給料、十二時間、十四時間という労働時間。貧困と涙、軽蔑と苦痛、ホームシックに郷愁こそが、大半の者にとって真のアメリカだった。(『英雄たちと墓』サバト)

 

1305

 

 タンゴが初めて海を渡ったのは1911年。

 翌年、駐仏アルゼンチン大使は言った。

「タンゴはブエノスアイレスの最下層の人々の踊りで、決してサロンで踊るようなものではありません」

 だが、場末のガウチョの、ガウチョと戦ったインディオの、遅れてやってきた移民たちのムーファのなかから生まれた、それまで耳にしたどの音楽とも異なる旋律はヨーロッパの人々のこころをわしづかみにした。

 1913年、イタリア。あまりに急激な流行を心配したローマ教皇ピオス10世が「野蛮な踊り」として禁止令を出したが、まったく守られなかった。

 おなじく1913年、ドイツ。皇帝ウィルヘルム2世が「タンゴは軟弱なものでドイツ軍の士気に悪影響を及ぼす」として禁じたが、すぐ撤回することになった。

 1918年、第一次世界大戦が終結すると、アルゼンチンの上流階級にタンゴが流れるようになった。パリで爆発的に流行していることを知ったからだった。

 1961年、アルトゥーロ・フロディシ第34代アルゼンチン大統領が来日。

 その第一声。

「タンゴはアルゼンチンの魂です。このタンゴによってわが国を理解してほしい」

 

(つづく)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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