ブルー・ジャーニー

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#93

アルゼンチン はるかなる国〈12〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「カミニートよ 愛の小径」

 音楽辞典のページをめくれば、タンゴに関する、簡潔で、だれでも理解できる定義を見つけることができる。秘密めいたことや、特別なことは見当たらない。

 だがこの定義を鵜のみにして、フランス人やスペイン人の作曲家がタンゴを作曲すると、結果に唖然とすることになる。われわれ(ポルティーニャ=港っ子=ブエノスアイレスっ子)の耳が認めず、記憶が受け入れず、身体が寄せつけない妙なしろものができあがるからだ。

 ブエノスアイレスを愛し、タンゴを愛したホルヘ・ルイス・ボルヘスはこう結ぶ。

「おそらく、ブエノスアイレスのたそがれ時とその夜を体験したものでなければ、タンゴは作曲できないにちがいない」

 

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「カミニート」

 カミニートよ 愛の小径

 ふたり歩みし小径

 君の胸によりて 微笑みし忘れえぬ道

 白き花こぼれ 咲いて道に匂う

 花のいまは 散れど

 夢の未だ醒めず

 

 アルゼンチンタンゴのコンサートで、かならずといってよいほど演奏される『カミニート』。1903年、ガビーノ・コリア・ペニャローサがつくった詩に、1926年、フワン・ディオス・フィリベルトによって曲がつけられた。

 フィリベルトはボカ生まれの移民3世で、ボカの風景を世界に伝えた画家、キンケラ・マルティンの親友だった。

 小さな道、路地、小径を意味するカミニート。ボカに同じ名前の場所がある。

 

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 ブエノスアイレスのさいしょの港はボカにつくられた(以後、すこしずつ北へ移動していき、現在の港はサンマルティン広場の正面に位置する)。

 カミニートは港に面した一画にある。石畳の小径、その両脇に立ち並ぶトタン屋根の家。明るく派手やかな色彩の間に人々の生活が垣間見える。

 かつて長い航海からもどってきた船は、かならずさび止めを船体に塗装、余った塗料を下がり受けた人々の手で壁や窓枠や扉に化粧が施され、カミニートは形づくられた。

 ほとんどがコンベンティジョ(=長屋)だった。住人は大きな家族の一員で、子どもたちは大家族の子どもだった。炊事場、洗濯場、トイレは共同。毎日、いたるところでコンベンティジェリオ(=井戸端会議)が開かれていた。

 世界に知られる観光地となったいま、長屋はすべて取り壊された。いまも住人はいるが、増改築には許可が必要で、ペンキ塗りは役所の仕事となっている。

 

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 アルゼンチンの至宝、キンケラ・マルティンは捨て子だった。

 修道院の捨て子台に置き去りにされた男の子を、修道女が抱き上げたのは1890年3月20日。きれいなカゴ、真新しい産着、刺繍が施された絹製のおくるみ、ボカの子どもではないことは明らかだった。かたわらに麻のハンカチの半分が置かれていた。のちに残りの半分を持ってきたひとに引き渡す習慣だった。「この子は洗礼を受けています。名前はベニト・ファン・マルチンです」と紙に書かれていた。

 ハンカチの残り半分の持ち主は現れず、5歳のとき、ボカの貧しい炭屋の夫婦マヌエル・チンチェジァというイタリアからの移民の養子になった。

 両親を手伝うために学校をやめた。炭袋をかついで船から下ろし、配達に走り、すこしでも時間があると土間に転がっている炭を手に新聞紙に向かった。やがて木枠に張った麻布がキャンバスになった。船、働くひと、朝日に照らされた港。夕暮れの桟橋、ボカの港の風景だけを描きつづけた。

 

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 1916年4月、ボカの雑誌『フライ・モチョ』が26歳の“炭屋画家”の作品を掲載。

「ある煙るような細雨の日、一隻の帆船の舳先に腰をかけて描いている画家が、それはもう描くなんてものではなく、燃えるような眼差しで、色をキャンパスにぶっつけ、ヘラが縦横に動くと、その先から形が生まれ、色の階調が出来てくる。グロテスクとも見えるものが、汚いリエチュエロの岸を美の世界に変えていった……」

 記事が出てまもなく、アルゼンチン国立美術院主宰の個展が実現。称賛と感嘆はブエノスアイレスからアルゼンチンに広がり、海を越え、ヨーロッパ各国に広がっていった。

「物欲にばかり引きずられている人々から見ると、われわれのような人間は“ロコ(異常な人間)”だろう。その評価をわれわれは甘んじて受ける」

 マルティンは入ってくるお金をボカに注いだ。小学校、病院、乳児院、歯科医院、劇場、美術館を建て、親友フィリベルトの曲を永遠に人々のこころのなかに残したいとカミニートという名の公園をつくった。

 

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 夜の1時を過ぎ、観光客の姿が消えたブエノスアイレスのあちこちでミロンガと呼ばれるタンゴセッションがはじまる。

 多くのミロンガではレコードが使われるが、小編成のタンゴ・オーケストラが演奏するところもある。熱心なミロンガ愛好者“ミロンゲーロ”はあちこちのミロンガを渡り歩く。高級ワインのように種類が豊富で、ふたつとしておなじところはないのだという。

「タンゴを踊るのは3分間だけのガールフレンドを持つことなんだ。女性もその間だけ男性を自分のものにする。抱き合う相手がたがいにいるということだ」  

 ひとりの男が、向こうのテーブルに座っている女に会釈する。女もそれに答え、男がフロアを横切って誘いに来るのを待つ。腕を組んだふたりは、数秒間軽く体を揺らしながら音にのる。そしてダンスが始まる。男と女が抱き合う恍惚の3分間。音楽が終わると、男は女をテーブルまで送り、席にもどる。

 

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「タンゴが生まれた土地、いや国でさえも、それぞれにちがっていた」

 ボルヘスはタンゴの誕生地を明らかにしようと、厳格な研究者、一流の作曲家や演奏家、パレルモの事情通など、信頼できる人々をめぐった。

「タンゴは場末のスラム街、棟割長屋で生まれたことになっている。ボカ・デル・リアルチェロが舞台によく選ばれるが、それは、このあたりが映画に適した土地柄だからである。(中略)しかし、わたしが訊ねたひとたちは、(誕生地はばらばらだったが)基本的な点で意見が一致していた。すなわち、タンゴは売春宿で生まれたというのである。タンゴが生まれた時代についても一致しており、だれもが1980年代もしくは90年代から遠くさかのぼることはないだろうと語っていた」次号につづく

(引用参考文献:『ボカ共和国見聞記』中公文庫、『ブエノスアイレスの熱狂』大和書房、『ナショナルジオグラフィック』2003年12月号)

 

(つづく)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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