ブルー・ジャーニー

ブルー・ジャーニー

#89

アルゼンチン はるかなる国〈8〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「歴史は別荘の寝室で分岐点を迎えることになった」

 1943年6月4日、アルゼンチン陸軍の将校で組織された秘密結社、GOU(統一将校団)がクーデターを組織、戦車と装甲車が市内に突入すると保守派の政府はあっけなく崩落した。

『シカゴ・トリビューン』紙の特派員は――ブエノスアイレスからは検閲のためにできなかったので――チリ・サンチアゴから打電した。

〈新たに大統領となったラミーレスを陰で操っているのは、賢くて冷酷な、しかしほとんどその名を知られていない若手大佐である。その中はフワン・ペロン〉

 それからまもなくエビータと出会ったペロンは、新聞記者を集め、言った。

「いまの政府はGOUの政府である。そしてGOUとはすなわちわたしのことだ。わたしの机の引き出しには、陸軍の5600人の士官のうち3300人の署名入りの、日付未記入の辞表が入っている。これだけで十分なのだ」

 

0801

 

 1940年代初頭、アルゼンチンの人口約1400万人の約3分の1がブエノスアイレスとその周辺に居住。住民の約60パーセントが貧困から抜け出せない労働者たちだった。

 なにより労働者を苦しめていたのは“基準制”と呼ばれる賃金制だった。仕事量が最低基準ラインを下まわると解雇され、家族を養うためにがんばると最低基準ラインが引き上げられた。

「機械には休みが与えられ、油が注がれ、手入れをされるが、われわれは“基準制”にエネルギーをしぼり取られ、健康を損ねたものには病気と失業しか残されていない」。食肉缶詰労組の最高責任者は言った。「結核、リューマチ、不眠症、精神障害、いつまでもつづく無気力、悲惨、おんぼろアパート、飢えた子どもたち、憔悴した妻、これがすなわち“基準制だ”」

 耐えかねた食肉缶詰労働者がストライキを決行し、雇用者側と手を結んでいた警察と衝突。怒号と銃声が交差し、道路脇の溝に血が流れこむなか、腕を組み、労働者の行進の先頭に立ったのはペロンとエビータだった。

 衝撃は全国の労働者にさざ波のように伝わった。「ペロンは俺たちの味方だ」

 翌日、ペロンは強制的にストライキを終わらせ、缶詰会社に対し、解雇した全労働者の再雇用、30パーセントの昇給、2週間あたり60時間の保証労働時間を命じ、“基準制”に終止符を打った。

 

1204

 

 1945年10月9日、『ニューヨークタイムズ』につぎの見出しが踊った。

〈アルゼンチンで軍事クーデター。ペロンが全権―――副大統領、国防大臣、労働福祉庁長官―――を放棄〉

 強引な独裁が原因ではなかった。エビータの意見に従って政治的判断を行うようになったことが、将校たちのプライドを傷つけたからだった。エビータが母親の新しい恋人に逓信局長の座を用意したことが――国中の情報網を握ってしまいかねないために――決定的な引き金となった。

「あなた、どうするつもりなの?」

 辞表を書き、マンションにもどったペロンは肩をすくめ、エビータに言った。

「どうすることもできないよ」

 エビータは受話器に手を伸ばし、ペロンの力で昇進した若手士官を呼び集め、言った。「国の運命はまさにあなたたちの掌中にあるのよ」。忠誠を誓った将校たちが出ていくと、新たに呼び集められた将校たちの熱気が部屋を満たし、日付が変わってもなお繰り返された。

 翌日、ペロンが私物を引き上げるため労働福祉省に向かうと、エビータは労働指導者たちに、できるだけ多くの労働組合員を集めるように指示。仕上げに母親の恋人に言った。

「労働福祉省に集まった人々に向かってペロンは最後に語りかけるでしょう。いまの立場を失いたくなかったら、彼の言葉を国営放送ネットワークで全国に伝えなくてはなりません」

 5月広場を埋め尽くした3万人の労働者に向かってペロンは言った。

「もし君たち労働者が既得権を守ろうとするなら、わたしは資本家の少数支配から守ってゆくつもりだ。わたしについて来なさい。そうすれば勝利はわれわれのものだ」

 群衆から「ペロンを大統領に!」の声が沸き起こるなか、ペロンとエビータは町を抜け出した。

 

0803

 

 数人の海軍士官を従えた警察長官がぐっすり眠っているふたりを発見したのは、夜中の1時過ぎだった。

 殺される。ペロンは震え上がった。

 出ていかないと本当にぶつわよ。エビータはわめき散らし、つばを吐きかけた。

 ふたりの逮捕を命じられていた海軍士官たちだったが、興奮しきっている女性をどう扱っていいのかわからず、ペロンだけを連行。歴史は別荘の寝室で分岐点を迎えることになった。

 少し泣いてからブエノスアイレスにもどったエビータは、食肉缶詰労働者のリーダーたちのもとに足を運び、ひとり一人に言った。「あなたには貸しがあるわ」

 やがて、あちこちの路地から現れた労働者は合流を重ね、ペロンがいるブエノスアイレス中央軍隊病院に向かう流れとなり、軍隊の壁を突破。郊外からバスでやってきた労働者が、途切れることなく後につづいた。権力の座に返り咲いたペロンは、翌日、1945年10月18日、エビータと結婚した。

 

0804

 

 1946年6月4日、ついにファースト・レディとしてカサ・ロサーダのバルコニーに立ったエバ・ペロンは人々に言った。「エビータと呼んでちょうだい」

 それからまもない日、公共市場の検査官への昇進を知らせる通知を受けたボルヘスは市役所に行き、聞いた。

「図書館にはたくさん職員がいるのに、どうしてわたしが?」

「あなたは連合国を支持していましたね――ペロンはヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアを支持していた――それでまだなにか?」

 翌日、ボルヘスは9年間務めた図書館に辞表を出した。ペロンを批判した作家、サバトは教鞭を執っていた大学を追放され、コルタサルは逮捕されていた。

 ペロンとエビータの政府は銀行と株式取引所を国有化し、最高裁判所全員を弾劾にかけた。アメリカとイギリスが所有していた事業――ガス、電気、電話、ついには鉄道――を接収。主要6大学を管理下に置き、学生の政治活動を規制。国内の33のラジオ局のニュースをすべて検閲し、電話を盗聴した。『ニューヨークタイムズ』『ライフ』『タイム』は空港で没収され、1951年まで100以上の新聞や発行停止となった。

 口伝てにこんな話が広まっていった。

 ――やせ細ったチリの犬がアルゼンチンをめざしてアンデス山中の国境に差しかかると、向こうから丸々と太ったアルゼンチンの犬がやってきた。

「どうしてチリなんかに行こうとしているんだい?」

「簡単なことさ」アルゼンチンの犬は答えた。「吼えたいんだよ」

 

0805

 

 アルゼンチンで働く者は例外なく「自発的に」エバ・ペロン財団に2日分の賃金を献金しなければならなかった。さらに賃金アップ――エビータがその裁定者だった――の一部が、国営宝くじの利益の20パーセントが、各省庁の予算の一部が、個人や企業の「自発的な献金」が繰り入れられるようになった。

 会社の役員や組合の幹部や内閣閣僚の前でエビータはひとりごとのように言った。

「手に接吻されれば、それはそれでいい気分だけど、ダイヤモンドやサファイヤのブレスレットなら永遠に残るわ」

 大統領官邸のクローゼットは宝石と最新のパリ・ファッションで、スイスの銀行の口座は現金で膨れあがっていった。

「どのようにして金庫に流れこむお金を記録しているのでしょう」

 アメリカの出版関係者の質問にエビータは答えた。

「わたしはただ、貧しい人々のためにお金を使っているだけです。いちいち勘定している暇なんかあるもんですか」

 エビータは貧しい人々のために1000を超える学校を建てた。病院は57から119に倍増。ディエゴ・マラドーナもまた“エバ・ドゥアルテ・ペロン社会救済財団”と刻まれた病院で生まれた。孤児院、未婚の母の家、老人ホーム、公園、労働者のための海辺のレクリエーション・センターを建てた。列を成して窮状を訴える人に寝具、家具、薬、50ペソ(約10ドル)を与えた。

 ディオールのドレスの上にミンクのコートを着て、言った。「あなたたちも、いつかはこういう服を着られるようになるわ」

 “盗人”“扇動家”といった非難の声が上がる一方、多くのアルゼンチン人はエビータを“ダーマ・デ・エスペランサ(希望の淑女)”だと信じた。

 

0806

 

「あなた方にたくさんお話がしたいのですが、お医者様にあまり話してはいけないと言われました。ですから、あなた方にわたしのこころを残していきます」。1951年10月17日、エビータはペロンときつく締めたコルセットの助けを借りてカサ・ロサーダのバルコニーに姿を現した。「わたしはすぐにもどれると信じていますが、もし、健康がそれを許さない場合には、ペロンを助けてあげてほしいのです」

 翌年7月26日、すっかりやせ細ったエビータは女中に言った。「わたしが死んだら、赤いマニキュアをはがして、代わりに地味なのを塗ってちょうだい」 

 その日の夜、午後8時25分、大統領官邸の2階の部屋から出てきたペロンは言った。「エビータは死んだ」。33歳、子宮癌だった。

 ペロンが推進した重工業化政策は失敗に終わった。憲法を改正し、強引に再選を果たしたが、エビータを失ったペロンは民衆を振り返らせることができなかった。さらには離婚と売春法を合法化する法案を通過させたことが原因で、信徒の数が全人口の90パーセントを占めるローマ・カトリック教会と敵対。ローマ教皇から破門され、翌年、軍部のクーデターで追放された。

 ペロンはパラグアイに亡命したが、エビータは大衆のなかに生きつづけた。その死から3年後、神話を恐れた軍部は、防腐処置が施された遺体を〈ラジオセット〉と書かれた梱包ケースに移し、船でドイツ・ボンのアルゼンチン大使館の倉庫に移送。そこで棺に移し替え、ふたたび船に乗せてローマに運び、セント・ポール会の女修女ジュゼッピーナ・アイロルディに託した。「この遺体は故郷ミラノに埋葬してくれるようにといい残してアルゼンチンで死亡した、あるイタリア人寡婦のものなのです」

 マリーア・マッジが本名を回復し、レコレータ墓地のドゥアルテ家の墓に安置されたのは、それから9年後のことだった。

 2大陸5ヵ国、無言の放浪の果ての帰郷から44年、いまも訪れるひとは途切れることがなく、多いときは200人が列を成す。(引用参考文献『エビータ』新潮文庫)

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

blue-journey00_writer01

時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

ノンフィクション単行本 好評発売中!

blue-journey00_book01

日本ラグビー 凱歌の先へ
編著・日本ラグビー狂会

     

ブルー・ジャーニー
バックナンバー

その他の辺境・秘境の旅

ページトップアンカー