ブルー・ジャーニー

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#88

アルゼンチン はるかなる国〈7〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「カサ・ロサーダに向かう道」

 アルゼンチンのスペインによる支配からの独立運動は1810年5月18日に始まった。その出発点となった場所はブエノスアイレスのほぼ中央に位置し、“5月広場”と呼ばれている。

 大統領就任の狂信的なまでの祝賀、政権への支持あるいは抗議、サッカーの勝敗をめぐる歓喜や怒り、ことあるごとに数万の熱狂で埋め尽くされる5月広場は、だから、ブエノスアイレスに数ある公園のなかでもっとも汚い。ふだんは車もひとも通行可能だが、大統領府に熱狂が押し寄せてくると、鉄柵で大統領府への道を封鎖。熱狂の潮が引くと、ゴミの収集車が駆けつけ、石畳や芝生が貼り替えられる。

 

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 カサ・ロサーダ(Casa Rosada=ピンクの家)と呼ばれる大統領府。当初は向かって左側の低い部分だけだった。中央は道路が通っていて、右側の建物は郵便局だった。

 道路を閉鎖してアーチのある高い建物をつくり、3つをひとつにすることが決まったのは1884年。6年後の1890年、牛脂と血を混ぜ合わせた塗料が外壁に塗りこまれ、カサ・ロサーダは完成した。

 1946年6月4日、フワン・ドミンゴ・ペロンが第29代アルゼンチン大統領になったとき、カサ・ロサーダに向かう道に押し寄せた熱狂は100万を超え、ふだんなら5分の道のりに1時間以上も要することになった。

 ペロンとファーストレディ、エビータは、ことあるごとにカサ・ロサーダのバルコニーに姿を現した。

「彼は神です」。映画でマドンナが演じたエビータは中央のもっとも高いバルコニーに立ったが、ミンクとダイヤモンドの輝きに包まれた実際のエビータは左手のもっとも低く、群衆に近いバルコニーから話しかけた。「ペロンなしには、われわれは天国を想像することができません。彼はわれわれの太陽であり、空気であり、水であり、生命です。ペロンの心(ハート)になること、それだけがわたしの願いなのです」

 

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 のちにエビータと呼ばれることになるマリーア・エバ・イバルグレンは1919年5月7日、カサ・ロサーダから約310キロ西の田舎町、ロス・トルドスのはずれの日干し煉瓦を積み重ねた、いまにも崩れそうなあばら家で生まれた。

 一部屋に母親のフワナ・イバルグレンと5人の子ども(1男4女)。中庭に鶏とヤギ、それが世界のすべてだった。

 5人の父親であるフワン・ドゥアルテはロス・トルドスから約90キロ離れたチビルコイに妻子と住んでいた。資産家が愛人を持つこと、借り上げた家に愛人を住まわせることは当たり前のことだった。

 15年間つづいたふたりの関係は、エビータが7歳のとき、フワンの死によってピリオドが打たれた。フワンはドゥアルテの姓を名乗れるよう、5人を認知したが、資産は残さなかった。

 ロス・トルドスのあるブエノスアイレス州はパンパ最大の州――日本の国土面積37万8000キロよりひとまわり小さい約30万7000平方キロ――だった。

 日本が昭和に入ったころ、このブエノスアイレス州は、事実上、65の家族――約4000平方キロ(埼玉県が約3800平方キロ)の土地を所有する15家族と約200平方キロ(東京23区約620平方キロの約3分の1)を所有する50家族――のものだった。

 エビータがメイドとして働くことになった大農園はまるで王国だった。独自の学校、礼拝堂、病院を持ち、農園主の一家は1年の半分をブエノスアイレスで、半分をパリで過ごし、農園には暑い夏が始まるクリスマスに馬車に乗ってやって来るだけだった。

「貧しいひとの存在自体よりも、同時に豊かなひとが存在しているのだと知ったことのほうがわたしにはショックだったのです」

 エビータがカサ・ロサーダに向かって歩き始めたのは、おそらくこのときだった。

 

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 アルゼンチンで若い娘がスターになれる場所はただ1カ所しかなかった。女優になろうと決めた15歳のエビータは、公演にやってきた若くてハンサムなタンゴ歌手に近づいてその車に乗りこみ、ブエノスアイレスに向かった。

 知り合いも推薦してくれるひともなく、服装は貧しく、つよい田舎なまりの少女に興味を示す人間はいなかった。底辺をさまよい、ようやく映画の端役にありついたのは16歳の3月だった。

 ぽつりぽつりと入ってくる仕事の合間を、ナイトクラブでのアルバイトでつなぎ、ようやく飢えの心配がなくなった矢先、銀行に勤めていた兄フワンの使い込みが発覚、刑務所送りを止めるために持ち物をすべて売り払って送金、場末の下宿屋に逆戻りすることになった。

 

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 1930年代後半、ヨーロッパと太平洋に戦雲が濃くなっていくなか、“世界の貯蔵庫”と呼ばれたアルゼンチンは、鋤の刃で戦車をつくっている国々を相手に稼ぎまくり、不夜城となったブエノスアイレスで、シャンパンやワインが湯水のように流された。タンゴの音色は港の周辺から町の中心街に移り、劇場はいつも満員、ラジオ局は外資系の大会社のコマーシャルで潤った。

 金持ちの石けん製造業者が20歳のエビータに一目惚れしたことのはそんなときだった。それを知ったラジオ・アルゼンチンのオーナーは、制作部長を呼んで言った。

「これからは、この娘がうちのトップスターだ」

 オーナーがエビータに会うのはこの日が初めてだった。

 エビータはソープオペラ(石けん会社が主婦に向けて送った連続“昼メロ”ドラマ)の主役となり、石けん製造業者がスポンサーとなっているべつのラジオ局にも出演するようになった。

 のちにラジオ・アルゼンチンの制作部長は言った。

「ひどくへたくそな女優でね、どこから手をつけたらいいのか見当もつきませんでしたよ」

 

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「みんな、ちょっと聞いていてよ」。1943年7月、24歳のエビータは楽屋にいた女優たちに声をかけると、ダイヤルをまわした。「もしもし、官邸? ラミーレス大統領につないでちょうだい」。好奇の視線が注がれる中、エビータは受話器に向かって言った。「こんばんは、大統領、わたしエバ・ドゥワルテです……そう、明日の晩、ぜひともお食事をご一緒したいわ。10時、ええ、いいわ。じゃ、その時、また。さようなら、ペドロ」

 その電話の話がラジオ局のオーナーに伝わると、エビータの月給は30倍余り跳ね上がった。

 恐妻家の大統領とは長くつづかなかった。つづいて国のラジオ局を一手に仕切る逓信大臣と知り合うと、月給はさらに跳ね上がり、大臣に用意された高級住宅地のマンションに移ることになった。

 

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 1944年1月15日、ブエノスアイレスの西800キロの町、サン・フワンで大地震が発生。ラジオ界のスターのほとんどが集まった――エビータが逓信大臣に開催を提案した――チャリティ・イベントの会場で、エビータの視線は、アルゼンチンで1、2を争う美人女優と話をしている背の高いハンサムな陸軍将校に吸いこまれた。フワン・ドミンゴ・ペロン大佐、軍事政権を動かす将校のなかで、もっとも実力があると噂される男だった。

 挨拶のために女優がマイクに向かうと、エビータは空いた席に体を滑りこませた。

 死の間際に出版された自伝『わが生涯の根拠』のなかで、エビータはこのときのことを、いつものように芝居がかった口調で述懐している。

「彼が話を聞いてくれそうなタイミングを見はからって、できるだけ言葉を選んで話しかけたのです。『もし、おっしゃるように、民衆の願望がすなわちあなたの願望なのでしたら、いかなる犠牲を払おうとも、わたくしは死ぬまであなたのおそばを離れません』」

 暖かな春の宵だった。ふたりは会場を抜け出して郊外のリゾート地に向かった。

 翌朝、リゾート地の別荘を出たエビータは、国防省のリムジンでラジオ・ベルグラーノに出勤した。(引用参考文献『エビータ』新潮文庫)

 

(つづく)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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