ブルー・ジャーニー

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#87

アルゼンチン はるかなる国〈6〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「2大陸5カ国、無言の放浪の果てに」

 ペットの猫をどうしても飼いつづけることができなくなったとき、ブエノスアイレスの人々の多くは植物園か墓地に向かう。ここは選択肢のひとつ、レコレータ墓地。

 建ち並ぶカフェテリア、レストラン、ショッピングモール。ディスコ、キャバレー、ナイトクラブのネオン。路上に流れ出る音楽。人の流れが朝まで絶えることのないレコレータ地区。その一画の、古い煉瓦造りの塀に囲まれて広がる、耳がつんとするほどの静けさ。

 あちこちに、近所に住む老婦人の善意で満たされた器。

 丸々、艶々、のびのびの横をそっと通り過ぎる。

 

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 アルゼンチンのことわざ。

「レコレータに行くより、天国に行く方がたやすい」

 銅像、石像、彫像が建ち並び、ブエノスアイレスにある3カ所の墓地のなかでもっとも格式ある“死者たちの小さな都市”、レコレータ。住人は13人の大統領をはじめ、将軍、財閥、歴史に名を刻んだ人々など、上流階級と富裕層で占められている。

 数少ない例外のひとりが、“パンパの猛牛”と呼ばれたボクサー、ルイス・アンヘル・フィルポ。ルイスがここに終の棲家を持つことができたのは、アメリカ合衆国のヘビー級チャンピオンで「大統領の名前は知らなくてもその名前を知らないものはいない」と言われたジャック・デンプシーと対戦――試合は負けたが――ジャックをリングサイドの記者席のタイプライターの上に叩き出したからだ(8万5000人の観客が殺到。入れなかった2万人が会場を取り囲んだ。アルゼンチンでは実況中継を聞こうと、人々が街頭ラジオに聞き入った)。フィルポの墓の外には、ガウンをはおり、ボクシングブーツを履いた“猛牛”の、実物よりも少し大きなブロンズ像が建てられている。

 

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 1961年、ボルヘスはアルゼンチンの新聞にこう書いた。

「レコレータの前を通るとき、いつもそこに父や祖父母、高祖父母が埋葬されていることを思い出す。いずれわたしもそうなるように」

 8年後、フランスの公共テレビが制作したモノクロの映像のなかで、ボルヘスはレコレータの一族の墓の前に立ち、言う。

「自分の家族といっしょに埋葬されたい」

 1986年4月、ボルヘスは個人的アシスタントだった日系人、マリア・コダマとスイス・ジュネーブで再婚。2カ月後、肝臓癌のために同地で死去。享年85歳。

「レコレータに入りたいと言っていたボルヘスの意志を尊重して祖国にもどすべきだ」。ペロン党国会議員から上がった声に対して、マリアは首を横に振った。「自分のことを愛しているなら、都市(ブエノスアイレス)の通りに囲まれて苦しむ姿を見たくないはずだと(ボルヘスは)私に言ったのよ」

 どちらの発言が真意なのか確認する術はなく、遺体はいまもジュネーブのプレパレン墓地にある。

 

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 ブエノスアイレス市政府が修道院の畑を買い取り、造成した墓地に、最初の遺体が安置されたのは1822年。それまで遺体は家の庭や近くの野原に埋められていた。

 1881年、古代ギリシア建築様式のドーリア式の入り口の増築をはじめとする大がかりな工事が行われ、ほぼ現在の姿となった。2003年の修復工事を最後に手は加えられていない。

 アルゼンチンでは墓は固定資産であり、家やマンションとおなじく、売買の対象となる。もっとも高いもので1億円。持ち主は管理しているブエノスアイレス市政府に、維持費、管理費に加え、不動産税を納めなければならない。負担は小さくないが、破産などのよほど事情がない限り、人々はここに墓地を持っているという社会的なステータスを手放そうとしない。

 御影石の墓石に大理石の床、地下に掘り下げられた空間は、もっとも深いもので約10メートル。棚には凝った装飾が施された棺が安置されている。現在、納骨堂タイプの墓が約4800、約35万体が埋葬されており、敷地の余剰はない。

 

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 1976年(昭和51年)10月22日の夜明け前、完全武装の兵士を乗せたアルゼンチン陸軍のトラックが大統領官邸を出て、レコレータ墓地に向かった。トラックの後ろに救急車が、その後ろにべつのトラックがつづいた。

 肌寒い朝だった。ドーリア式の門は軽機関銃をかまえた警官に囲まれていて、善意を手にしてやってきた老婦人も中に入ることは許されなかった。

 一団はボルヘス一族の霊廟の近くに停車、兵士と特別に呼ばれたふたりの墓地作業員によってトラックの中から棺が下ろされた。棺はマットレスで覆われ、だれもガラスの蓋の向こうの顔を見ることはできなかった。

 棺は兵士たちに囲まれながら黒い大理石の納骨堂の前に運ばれ、儀式もなく、鋼鉄の扉の向こうに納められた。

 作業員は言った。「彼らは、ただそこに彼女を置いて、早く帰りたがっていました」

 ペドロ・シーラ博士によって完璧な防腐処理を施され、棺の中に横たわっていたのはアルゼンチン元大統領フワン・ペロンの夫人、エバ・ペロン、“エビータ”として世界中に知られた女性だった。

 エビータが子宮癌のために33歳で他界したのは1952年7月26日。2大陸5カ国、無言の放浪の果ての帰郷だった。

 

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 黒い大理石に刻まれた“ドゥアルテ”はエビータの――私生児だったが――旧姓。夫のフワン・ペロンはブエノスアイレスの中心地から西に10キロほどのところにあるチャカリータ墓地に納められた後、2006年に暮らしていた家の霊廟に移されている。

 1946年、念願のファーストレディになったエビータは石けんのセールスマンだった兄を個人秘書として呼び寄せ、母親のドゥアルテ死後の愛人オスカル・ニコリーニを逓信大臣に据え、長女エリーサの夫、アルフレッド・アリエトを上院議員に引き上げた。次女のブランカの夫で弁護士だったフスト・アルバレス・ロドリーゲスはまたたくまに出世を重ねてブエノスアイレス州知事に就任、最高裁判所の判事に登り詰めた。公会堂のエレベーターの操作員だった3女、アルミンダの夫は、エビータがボタンを押すと、連邦税関局長に上っていった。

 レコレータのこの一画を買い取り、ドゥアルテ家の墓をつくったのはアルフレッド・アリエトだった。(いまから約6年前、となりの墓地が約3500万円で売りに出された)

 鋼鉄の扉の向こう側に並べられているのは母親フワナとエリーサの棺。エビータは地下2階に安置されている。

 

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 エビータの死から3年後、失脚したペロンがパラグアイに逃げこむと、息を吹き返した反ペロン派は、記念碑をはじめ、エビータにまつわるあらゆるものを破壊。混乱のなか、遺体は労働総同盟(CGT)本部の一室から消えた。ペロンが追放されてまもなく大統領となったペドロ・エウヘニオ・アランブルは、エビータの遺体の隠し場所を明かさなかったために、誘拐され、殺害された。

 

(つづく)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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