ブルー・ジャーニー

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#86

アルゼンチン はるかなる国〈5〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

「ヨーロッパそのもので、ヨーロッパ以上の」

 空が広い。

 ブエノスアイレスの空港に降り立ったときに最初に抱いた印象は、少しも薄れることがない。建物に囲まれていても、アラスカの見わたす限りの原野で見た空よりも広く、どこまでもつづいているように感じられる。

 そして青い。

 ナミビア北部の遊牧民、ヒンバ族の世界は5つの色で成り立っていて、 “ブロウ(burou)”という言葉は緑、青、紫を現す。ローマに灰色はなかったし、ウェールズ語のピンク、茶色は輸入されたもので、もともとはない言葉だった。

 色の識別はたとえばこのように場所によって異なるが、例外が“青”と“黄色”。遠い昔、海で生活していたわれわれの祖先が、自分がいる場所の深度を知るために青や黄色を見わける必要があったからだという。

 1799年から5年間を費やして南アメリカ大陸の自然を調査したドイツの博物学者、アレクサンダー・フォン・フンボルトは、この青を数値に置き換えようと、空の青さを計るシアン計を携行した。

「空の青さは大気の透明度と大気に含まれる水蒸気の量で決まる。(南アメリカ大陸の)空の深く濃い青さは、熱帯の大気のなかで靄が比較的完全に解消することから生ずる」

 

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 広く、整備された大通り、建ち並ぶ古典的装飾様式の公共建築、居心地の良さそうなレストランやカフェ。ブエノスアイレスは南アメリカのほかの国々の首都とは異なる。ただひとつの“白人の町”であり“気まぐれな運命にもてあそばれてアメリカ大陸の片隅に島流しにされたヨーロッパ人だと思っているポルティーニョ(港の住民=ブエノスアイレス市民)の町”だ。

 ヨーロッパからやってきた――多くは下層階級の――人々がこの地に実現しようとしたのは、彼らにとってのユートピア、すなわち端正で、上品で、小粋でみやびやかなヨーロッパ都会のブルジョアジーの生活であり、2代目のコロン劇場はその象徴となっている。

 

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 江戸幕府が開国を迫られていた1857年(安政4年)、初代コロン劇場は現在、国立銀行がある場所に建てられた(ボルヘスをはじめ、作家、アーティストか集う場所だったカフェ・トルトーニはその翌年、開業した)。当時、ブエノスアイレスは人口約14万人の小さな町だった。

 1961年、国家が統一され、主導権を握った自由主義者が西欧化のためにヨーロッパから大量の移民を導入。その一方、土着文化を徹底的に攻撃し、ロカ将軍による“沙漠の征服作戦”によってパンパの先住民、インディヘナは20万人から2万人へと、絶滅の淵に追いやられた。

 移民と外国資本の奔流は年を追って勢いを増し、1800年代の終わりにはブエノスアイレスの人口は70万人に肉薄。移民たちの夢と希望を受けて、1889年、2代目のコロン劇場の建設が、中央銀行を手がけたイタリア人、タムリーニによって開始された。

 めざしたのはヨーロッパそのもので、ヨーロッパ以上の劇場だった。

 

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 ところが、わずか6カ月でタムリーニが病死。タムリーニのアシスタントで、イタリア人のメアノが引き継いだが、1904年に夫人の浮気相手に殺害され、ふたたび中断。後を受けたベルギー人のドルマーチスによって――当初は1892年完成予定だったが――着工から19年後の1908年5月25日、コロン劇場は完成した。こけら落としはヴェルディの“アイーダ”。パリのオペラ座、ミラノのスカラ座とともに世界の3大劇場に数えられる仕上がりはポルティーニョを大いに満足させた。

 イタリアのルネッサンス様式を基盤とした7階建て。収容人数は座席客2487人、立ち見を会わせると3978人。建材はすべてヨーロッパから取り寄せられた。大理石はイタリアのシエナ、カッラーラ、ボローニャ産。2階の天井のステンドガラス、シャンデリアはすべてフランス製。緞幕、垂れ幕、舞台装飾をはじめ、バレーやオペラに使われる衣装、かつら、シューズ等は、ひとり一人の体形に合わせて、すべてコロン劇場の地下工場で制作。現在、約7万5千着の衣装、約2万2千足のシューズが保管されている。

 

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 1958年、当時の外務大臣、藤山愛一郎の依頼を受けて、民間人として初めてアルゼンチン駐在特命全権大使に就任した津田正夫もコロン劇場に魅了されたひとりだった。

「内容が豊富であると同様、その建物、ことに内部装飾は現在の時点でこんなに『良き時代』を現しているものは世界にない。ウィーンのオペラ座、ローマのアウグスタス、ナポリのサン・カルロ座、ミュンヘンの歌劇座など、みな今次の戦争で爆撃に遭い、すっかり新しい建築様式で再建され、昔の観念でのオペラハウスと程遠いものになってしまった。ところがコロン劇場はちがう」

 それまで一度も日本の芸術家が出演していないことに気づいた津田が、公邸に招いたコロン劇場の支配人にそのことを聞くと、支配人は言った。

「推薦できる日本の芸術家はいますか?」

 3つの著名な国際コンクールに日本人として初めて入賞、娘の友人でもあったピアニスト、田中希代子の名を挙げると、支配人は言った。

「私はその方を知らないが、明日、調査の係に聞いてお返事しましょう」

 翌日、支配人は電話口で言った。

「調べてみましたが、皆を納得させるいい材料がありません。しかしせっかくの大使のお申し出だから引き受けましょう。シーズン中はだめですが、シーズンの始まる5月25日前の1週間、各国の演奏家の音楽会を予定していますからその中の一夜を田中さんに差し上げましょう」。最後に支配人は言った。「しかし謝礼はいっさいできません。旅費も駄目。コロン劇場が旅費と謝礼を出して来てもらう音楽家は、世界に20人といません。世界の演奏家は、ここに出演することでその履歴に箔がつくのです」

 

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 ――コロン劇場に、出演者やそこで働く人々のための理髪師がいた。もう三十幾年務めているという年輩の男だが、無類のオペラ好きで、すべてのオペラを舞台裏や舞台の袖で聴くことを許されていた。この男はまた素晴らしい美声の持主で、また幾年もオペラを観ているので仕種も大したものだそうだ。彼の一生の願いで舞台の上に立ちたいといい、それを機会ある事に舞台支配人に懇願した。それで支配人、あまり熱心な彼の申し出にほだされ、また彼の美声もよく知っているので、やらしてみよう、と思って、名は忘れたがあるオペラのかなりの役をやらせることにして舞台稽古に入った。ところがそのテナーの美しさ、動作の科(しぐさ)のうまいのに感心し、支配人の心は少なからず動いたところ、二幕終わって三幕目になったら急に息が続かなかったので、それで支配人は彼の採用を諦めた。

 

 アルゼンチン駐在特命全権大使としての5年間に渡る経験が記された『ボカ共和国見聞記』には、ポルティーニョにとってのコロン劇場を物語るエピソードも取り上げられている。

 

 ――彼もこれでは務まらないとわかったらしく、帰宅後、支配人や舞台の上で付き合ってくれた人々、オーケストラの指揮者、舞台の裏方などに一々お礼の手紙を書いて自殺したそうだ。

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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