ブルー・ジャーニー

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#84

アルゼンチン はるかなる国〈3〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

ヨーロッパそのものを

 無数の会話が、コーヒーカップがソーサーに置かれる音が、ナイフとフォークが食器に当たる音が、高く低く混じり合い、空間を満たしている。

 濃密なざわめきが、心地よく、どこかなつかしい。

「ブエノスアイレスが雨の日は、なにをするべきか?」

 ここカフェ・トルトーニは、古くから正解のもっとも近くに位置づけられている回答。

 オープンは日本で安政の大獄が始まった1858年。アルゼンチンが“アルゼンチン”ではなく、スペイン語の国号“リオ・デ・ラ・プラタ”と呼ばれていたころのことだった。

 

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 銀を意味するラテン語“アルゼンチン(現地の発音はアルヘンティーナ)”という言葉が、この国で初めて使われたのは1602年、アルゼンチン文学のもっとも初期の作品、『アルゼンチンとラ・プラタの征服』(マルティン・デ・バルコ・センテネラ著)においてだった。

 作品の登場人物が自分たちをアルゼンチン人と呼んでいたことが引き金となって、スペインからの独立を望む人々のあいだにアルゼンチン人という呼称が浸透。1825年、ブラジルとの戦争に際し、挙国一致を計って成立した中央政府によって国名がリオ・デ・ラ・プラタ(スペイン語で銀の川)からアルゼンチンに正式に改名された。

 

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 南米大陸の国々のなかで、なぜブラジルの公用語だけがポルトガル語で、ほかはスペイン語なのか。その理由は、控えめに言って馬鹿馬鹿しい。

 発端は500年余り前。15世紀の後半、トルコの勢力が増大。東洋との交易が絶たれたヨーロッパの海洋国は競って大西洋に進出。

 他国に先がけて次々に新航路を開拓したのがポルトガルだった。1427年にアソレス諸島に、1434年にマデイラ島に到達し、領有を宣言。

「このままでは大西洋上の島をすべてポルトガルに取られてしまう」。あわてたスペインが法王庁に泣きついた。「なんとかしてください」

 法王庁は両国の代表をスペインのトルデシリシャ城に呼び寄せて地図を広げ、大西洋上の西経40度上、北から南に1本の線を引いた。「線の左にある島や大陸はポルトガル領、西に発見された島はスペイン領とすることでいかがなものか」

 両国がこれに合意。1500年、ポルトガルが先頭を切って上陸した島が、実は島ではなく南米大陸だったことが判明。トルデシリシャ線に従って、のちにブラジルと呼ばれることになる土地でポルトガル語が、アルゼンチンを含むそれ以外の土地でスペイン語が使われることになったのだった。

 

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 かつて、ブエノスアイレスの一部となっていたカフェだが、いまはわずか2軒。ひとつは長い閉店から復活したラビオレッタ、そして作家、音楽家、歌手、ダンサー、俳優、政治家が集まる場所だったカフェ・トルトーニ。シャンデリア、ステンドグラス、大理石のテーブル、外装も内装も、ほぼ建てられた当時のまま。トイレの銅製の配管も60年を超えて現役。今も昔も夜になるとタンゴのショーが行われる。

 

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 時の流れが止められたカフェの一画、ボルヘスの指定席を囲むのは常連客。にこやかに近づいてきたのは、ダンスの添え物だったタンゴの詞をたしかな歌に変え、“タンゴの神様”と呼ばれたカルロス・ガルデル。その絶頂期、乗り合わせた飛行機が離陸に失敗、45歳で急逝。

 そしてアルゼンチンを代表する女性詩人、アルフォンシーナ・ストルニ。当時としては珍しかった未婚の母として苦労を重ね、乳癌が引き金となって精神のバランスをくずし、46歳で海に投身自殺。直前に書き上げた詩を引用した『アルフォンシーナと海』は、フォルクローレを代表する名曲として位置づけられている。

 

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 トルトーニを出る。雨は降っていないけれど、日曜のブエノスアイレスは、いつも汚くて死んでいる。土曜日の夜はゴミの収集が行われないために町中ゴミだらけで、その上に夜を徹した大騒ぎの澱が積もっている。

 約半世紀前、ブエノスアイレスは24時間、眠らない町だった。とりわけにぎやかだったのが劇場、映画館、キャバレー、ナイトクラブ、ディスコ、レストラン、カフェが軒を連ねていたコリエンテス通り。夕方5時になると、カフェやレストランの楽団が、いっせいに演奏を開始。連日、空が明るくなるまでつづけられた。

 騒ぎ足りない若者たちや、口の開いたビールの1リットル瓶を抱えながら歩いている女の子とすれちがう。銘柄はキルメス。さらっとしたのど越しで、国内のシェアの75パーセントを占める国産ビールだ。

 アルゼンチンのワインの消費量は減りつづけている。代わって上昇しているのがビールとウイスキー。とりわけ若者の多くがワインからビールに移行しているのだという。

 

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 ブエノスアイレスのほとんどの建物や石畳は、農業国として繁栄した19世紀後半から20世紀前半にかけて、移民たちの手によって建造された。

 大量の穀物、肉、皮革、羊毛などを積み、ヨーロッパに向けてボカの港を出航。帰路、空になった船に、バランサーの役割も兼ねて積みこまれたのが、主にトリエステの石だった。(現在はイタリアでの生産が凍結。代わってパタゴニアのテッレールが産地となっていて、東京・丸の内の石畳にはここで取れたアルゼンチン斑石=ピンコロ石が使われている)

 かつてブエノスアイレスの道は、家々の間を縫う小径だった。

 建っていた家を削り、住人に退去をうながし、“大通り”がつくられるようになったのは近年のことで、カサ・ロサーダ(ピンクの家)と呼ばれる大統領府を起点とする“5月通り”が最初だった。(拡張工事が終了したのは1897年で、現在の姿になったのは1900年。この道に面しているカフェ・トルトーニのオープンは1857年。入り口は現在とは反対側にあった)

 フランス・パリを模倣してつくられた、ブエノスアイレスでもっともクラシックな大通り、5月通り。道の両側に立ち並ぶ建物も、フランスのクラシックスタイルで統一されている。

 

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 南アメリカの大部分の国々において、少数の白人と、大勢のインディオ、ネグロ、ムラト、メスティソが水と油でありながら同居していた時代に、アルゼンチンだけが南半球最大の都市ブエノスアイレスで白人社会を築き上げた。

 移民によって作られた町、ブエノスアイレスはヨーロッパの直接の延長だった。スペイン、イタリア、ポルトガル、フランスなどからやってきた人々が求めたのは新しい町ではなく、郷愁を感じてやまないヨーロッパそのものを再現することだった。

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『ジュビロ磐田、挑戦の血統(サックスブルー)』、共著に『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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編著・日本ラグビー狂会

     

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