越えて国境、迷ってアジア

越えて国境、迷ってアジア

#80

カンボジア側シーパンドン カンポン・スララウ〈2〉

文と写真・室橋裕和

 カンボジア北東の辺境、カンポン・スララウ。メコン河を挟んで、目の前の村はもうラオスだ。マニアにとってはたまらない国境の風景が望めるのだが、そこへ声をかけてきたのは地元のアニキであった。
「ラオスに行くなら、ボート出すけど?」
 行きたい。こんなカンボジア最果ての国境を突破した日本人は誰もいなかろう。昂ぶった。しかしこれは、違法ではないのか。密入国ということになりはしまいか……。


 

禁断の密入国に手を染めるのか

 いちおう、聞いてみる。言葉はカタコトのタイ語だ。
「イ、イミグレーションはあるのかな? 外国人が通ってもいいの?」
「誰でも行けるぞ。5分だ」
 アニキはカタコトのラオス語で答えて、片手をぱっと広げた。タイ語とラオス語は似た言葉なのだ。そしてここは国境地帯、地元のカンボジア人にはかんたんなラオス語を話す人がけっこういた。それはありがたいのだが、どう考えたってこれは密入国であろう。
 地元の人たちはきっと家族や親戚が両岸にまたがって暮らしていたり商売の用事があったり、近所づきあい的に行き来しているのだと思う。うろたえる僕の前でも、小さな小船でラオス側にこぎだしているおばちゃんがいる。向こうからやってくるおじさんもいる。たんなる隣村なのだ。
 近代的な国境の概念なんぞ誰も考えてもいない様子が実にソソられるのだが、僕はヨソモノの第3国人、ローカル国境の通過はたぶん両国ともに認められていない立場であろう。
「向こうからガソリン頼まれてるから、いま出るんだ。一緒に来るなら乗せてくよ」
 と言われて、ふらふらと誘われそうになったのだが、ラオス領の端のほうに建つ小さな小屋が目に入った。あちら側はメコン河の中洲に浮かぶ島なのだが、その東の突端だ。スマホでズームしてみれば、ラオスとカンボジアの国旗が翻っているではないか。イミグレやんけ!
 とはいえマトモに機能しているとも思えないが、形ばかりの掘ったて小屋とはいえ、国境を管理する部署がいちおう存在するのだ。危ない危ない。思いっきり密入国するところであった。小遣いを稼ぎそびれたアニキだが、断ると笑って手を振り、ラオスへと渡っていった。

 

01
手前がカンボジアで向こうがラオス。みんなスイスイ行き来しているが、左手奥の建物はいちおうイミグレーションである

 

02
村にはこんな雑貨屋が数軒あるだけで。それも夕方には閉まる

 

 

あまりにも平和な村だが……

 アニキが離岸していったあたりには、メコン河に沿って民家や小さな雑貨屋が並ぶ。土くれの道と、木造の平屋。それがカンポン・スララウのメインストリートなのであった。
 そんな道が、メコン河に平行して3本。たったそれだけの村だった。ひたすらに静かだ。小さな学校のまわりは子供たちの声がいくらか聞こえるが、あとはどこに行っても川面を渡る風の音と、そこらをつついているニワトリの鳴き声だけ。それでもなかなか立派な寺院だけはあり、爺さんたちの寄り合い場になっている。
 村の周囲は延々と田が続き、トラクターに子供たちが群がって遊んでいる。恥ずかしげな、はにかんだ顔が向けられる。カメラを構えてみると、それこそクモの子を散らすようにわっと逃げる。それを見ていた野良仕事姿の婆さんが、顔をくしゃくしゃにして笑う。
 いいところだなあ。なんと平和なのかと思った。人のささやかな営みと、すべてを包み込むメコンの偉大なる流れ。土と、水の匂い。こんな場所で暮らせたら……と思ったのだが、雑貨屋ががらがらとシャッターを下ろしているではないか。まだ5時だぞ。日も高く、暑く照りつけているのに、今度はとなりの食堂が店じまいをはじめている。
 慌てて宿に戻った。とはいえ民家のひと部屋を開放しているだけの、ほとんどホームステイである。ラオス語のわかる家の娘をつかまえる。
「な、なにか食べるものある? 夕食」
「え……もうぜんぶ片しちゃったよ。カオニャオ(もち米)ならあるけど」
 恐ろしく夜の早い村であった。巨大な夕陽がメコンに落ち、両岸のカンボジアとラオスを金色に染める頃、カンポン・スララウの木造家屋はすでにどこも扉を閉じてしまったのだ。
 暗黒の村をさまよう。夕飯を食いそびれてしまった。今夜は国境のメコンを眺めて渋いディナーを決めるはずだったのだ。宿のもち米だけでは寂しかろうと思って、ほかにどこか開いている食堂のひとつやふたつ……と探しているうちに、村は機能停止してしまった。スマホのライトを頼りに、濃密な闇を歩く。犬の遠吠えにびびる。

 

03
カンポン・スララウには、まだまだのどかなインドシナが残る。それでもちゃあんと衛星アンテナも

 

04
カンポン・スララウ最大の繁華街。ひと気はなく静まり返っている

 

 

国境のメコンに乾杯!

 これはもう、今夜はメシ抜きかあ……と覚悟を決めたとき、遠くのヤシの木立の間に明かりが見えた。早足になる。雑貨屋だった。まだ開いている。菓子やらパンも売っているじゃないか。助かった。ほっとして店内に入ると、家族がくつろぐ部屋がすぐに隣接していて、奥には暗いメコン河に面したテラスにテーブルがいくつか並んでいた。客だろうか、食事をしている人もいる。
「ごはん、食べるかい」
 ラオス語に振り向くと、店のおばちゃんが笑っていた。食堂でもあるのだ。ありがたい。そしてタイ語を話すあやしげなガイジンがうろついているという話は伝わっているようだ。さすがは小さな村である。
「簡単なものしかないけど」
 と、なにも注文していないのに運ばれてきたのは、サカナをナンプラーかなにかとレモングラスで煮込んだもの、サカナのつみれ、それと山盛りのごはんであった。ごくふつうの家庭料理なのだろう。僕にとってはごちそうだ。きっとサカナは目の前のメコンのものに違いない。
 しっかり河を見晴らす席に陣取って、もちろんアンコール・ビールも注文して、国境に乾杯。イッキに飲み干す。たとえようもない、これ以上ない達成感。勝った、という気分だ。それもこんな、外国人がぜったいに来ないような辺境で、メコンと対峙し向こう岸のラオスを眺めているのだ。アジア国境を歩く者としては、まさに大勝利であった。
 その満ち足りた気分が、まずかった。
 すっかり気持ちよく酔った僕は、お会計時に店の片隅に並ぶビンを発見してしまったのだ。
「ラオカーオだね」
 コメからつくった焼酎であった。ラオスから持ってきたものらしい。いいじゃないか。今夜はこれで晩酌といこう。
 水とソーダも買い込んで、千鳥足で暗黒のカンポン・スララウを歩き、部屋に戻ってラオカーオを空けてみた。舐めるだけでしびれるほど、強い。ラベルを見れば45度じゃないか。それでも香りが良く、飲んでみれば意外にするすると入る。いける。くいっとグラスを傾ける。ほんわかと全身が温かくなり、すっかり楽しくなってきた。よーし飲むか!
 本格的に国境酒の体勢に入ってしまった僕は、すいぶんと飲んだ。パソコンで写真を見て旅路を振り返っては飲んで感慨を深くし、グラスを持ってパンツ一丁で外に出て野良犬と語り合い、ラオス側の小さな灯かりを見つけては嬉しくなってイッキをかました。ひと瓶725mlをカラにしてしまったのだ。

 

05
カンボジア側から、メコン河と向こう岸のラオスとを祝福する。最高の気分

 

 翌日……ひどい頭痛で目が覚めると、すでに10時を回っていた。まずい! はっと思い出し、部屋を飛び出る。家の娘がぼんやりジュースを飲んでいた。
「バババ、バンは?」
「朝イチで行っちゃったよ。7時って言ったじゃん」
 迂闊であった。完全に忘れていた。これで明日まで待たなくてはならないのであろうか。
「客が少ないと、出ない日もあるよ。明日は出るのか出ないのか」
 そんなあ。そりゃあ平和でのどかでいい村ではあるが、もう一日か二日いろと言われると困る。ヒマなのだ。せせこましい社会に生きる人間には、ここでの時間のつぶしかたがわからない。
 さあて、どうすっかあ。

 

06
問題のラオカーオ。これで酔いつぶれてしまった

 

(次回に続く!)

 

*国境の場所は、こちらの地図をご参照ください。→「越えて国境、迷ってアジア」

 

*本連載は月2回(第2週&第4週水曜日)配信予定です。次回もお楽しみに!

 

 

*好評発売中!

『最新改訂版 バックパッカーズ読本』

発行:双葉社 定価:本体1600円+税

 

cover

 

 

 

BorderAsia00_writer01

室橋裕和(むろはし ひろかず)

1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発日本語情報誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを務め、10年に渡りタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。おもな著書は『日本の異国』(晶文社)、『海外暮らし最強ナビ・アジア編』(辰巳出版)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書)。

最新刊『日本の異国』好評発売中!
日本の中にある外国人コミュニティを旅するガイド&ディープルポ

紀行エッセイガイド好評発売中!!

ISBN978-4-575-31280-5

最新改訂版 バックパッカーズ読本

     

越えて国境、迷ってアジア
バックナンバー

その他の辺境・秘境の旅

ページトップアンカー