ブルー・ジャーニー

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#77

オーストリア 緑のスキー王国〈4〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

トップアスリートのあるべき姿

 チロル州、アルツル。“ベニー・ライヒ橋”という標識が立つ角を左に曲がる。まっすぐ進むと、夏になると各国のナショナルチームが集まる氷河スキー場、ピッツタールに行き当たる。

 車がようやくすれちがうことができるほどの道は、谷間に向かってどんどんと下り、ふたたび登り始める。めざすはスキー王国オーストリアのスーパースター、ベンジャミン・ライヒ、愛称ベニーの自宅。

 

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 ゼッケン1番がスタートしたときは晴れていたのに15番は吹雪の中。大自然をフィールドに行われるアルペンスキー競技は、当然のことながら、人間にはどうにもできない要素――天気、気温、雪質、風、霧、等――に左右される。しかも競う相手は見えず、勝敗を分けるのは非日常的な100分の1秒単位のタイム。

「はたしてオリンピックや世界選手権大会は、アルペンスキー競技の世界一を決めるにふさわしいステージなのか。1回限りの、毎年行われるわけではないレースの勝者を“最速”と呼んでいいのか」

 1966年(昭和41年)8月、ポルティーヨ(チリ)。アルペンスキー世界選手権大会会場に集まったジャーナリストと国際スキー連盟(FIS)役員の夜を徹した話し合いは、歴史的な結論に達した。

「シーズンを通して複数のレースを行い、その総合成績で世界一を決めよう」 

 創案者はフランスのスポーツ紙“レ・キップ”の記者、セルジュ・ラング。

呼称はフランス語圏が“COUPE DU MONDE”、ドイツ語圏が“ WELT CUP”、英語圏が“WORLD CUP”。具体的な運営方法は、自動車のF1レースが参考にされた。

 

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 ウィンタースポーツにおける最初のワールドカップ、アルペンスキー・ワールドカップは1967年(昭和42年)1月5日開幕。選手、監督、コーチ、トレーナー、サービスマン、ジャーナリストがハンドルを握り、飛行機に乗り、会場から会場へと隊列を組むように移動する様子は“白いサーカス”と呼ばれ、その成功はやがてスキー競技全域を塗り替えることになった。

 この1967年は日本のスキーブームが沸騰した年でもあった。スキー場周辺のホテル、ペンション、民宿の宿泊客の延べ人数は800万人。日本の総人口の12・5人にひとりが宿泊したことになった。

 

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 本当にこの道でいいのだろうか?

 山奥に入り込んでいくにつれていよいよ人の気配は希薄になっていき、ちょっと心細くなってきた矢先、1キロほど先の山の中腹、木々と牧草の緑の中に数十軒の民家が現れる。

 あそこかな?

 民家のほうからトラクターが1台、やってくる。すれちがいざまに運転手が、あそこだよと言わんばかりにやってきた方角を指さす。ベニーに会いに来ること以外に、こんなところに日本人がやってくる理由があるはずがない、ということなのだろう。

 ほどなくしてベニーの家を発見。入り口に“Ferienhoh Raich”の文字。Ferien(フェーリエン)は「休暇」、hoh(ホフ)は「建物」。日本のペンションに相当する宿泊施設だ。

 

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 家の前の坂の上にベニーの姿。約1メートルの重そうな鉄の棒を引きずりながら下りてくる。

「手が汚いから」

 突き出されたベニーの右腕を握手の代わりに握る。

「父親の車がパンクして、タイヤを交換していたんだ」

 フェーリエンホフのドアを開けると、中は改装工事のまっ最中。バケツを持って通りかかった、いかにも人のよさそうな母親が入り口の横を指す。

「ここに棚をつくってベニーのトロフィーやメダルを飾るの」

 部屋の奥には、やっぱり人の良さそうな父親が、ペンキ塗りと格闘中。着ているアディダスがペンキでまっ白だ。

 

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 走り、飛ぶノルディック競技は緩やかな起伏が広がるスカンジナヴィア半島で、斜面でタイムを競うアルペンスキー競技は急峻なヨーロッパアルプスで、それぞれ発達した。ベニーは先シーズン、28歳でオリンピックの金メダルふたつ(スラロームとジャイアント・スラローム)とクリスタルトロフィー(アルペンスキー・ワールドカップ総合優勝者に授与されるクリスタルガラスのトロフィー)を手にした。

 タイトルを取って変わったことは?

「家族やいろいろの人たちに祝ってもらいました。2週間ほどお祭り騒ぎがつづき、それ以後は、いつもとまったく同じ。なにも変わっていません」

 大きな成功のあとに迎える新しいシーズン、不安やプレッシャーは?

「いえ、性格的にプレッシャーや不安を感じるほうではないので。ただ、欲しいと思っていたものを手に入れてしまったので、つぎのハードルがすごく高いものになると感じています」

 自信はありますか?

「自分は強いのだという気持ちは、かなり前から持ちつづけています。十分にトレーニングして、余計な力を入れず、楽に滑ることができれば勝てると思います」

 

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 金メダルは当然の結果でしたか?

「いえ、良い感触はありましたが、100パーセントの自信はありませんでした」

 ジャイアント・スラロームとスラローム、どちらの勝利が困難でしたか?(※アルペンスキー競技には旗門の間隔の狭い順に、スラローム、ジャイアント・スラローム、スーパーG、ダウンヒルの4種目がある)

「(即答)ジャイアント・スラロームです。最初のレースだったので、壁が厚くて高かった」

 勝因は?

「思いきりアクセルを踏んだこと。自信と過信は紙一重、たいせつなのは自分の力を信じ過ぎず、だからといって押さえ過ぎずにアクセルを思いきり踏むこと。それができなければどんな試合でも勝つことはできないと思います」

 スラロームも同様に思いきりアクセルを?

「そうですね。調子はよかったけど、けっして勝つことはやさしくはありませんでした。どうしてもふたつ目のメダルを手に入れたいという思いが強かったので」

 

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 ちょっと生意気に振る舞うことがかっこいい。オーストリアの若く才能あるレーサーに共通する特徴で、ベニーもかつてはそのひとりだったのだが、栄光と名誉を手にしてから明らかに変わった。レストランの片隅にひとり座っているだけでも、人々をうなずかせるような、静かだけれど圧倒的な存在感を放つようになった。

 

 金メダルとワールドカップ総合優勝を獲得する前とはまるで雰囲気がちがう。そう感じます。

「自分ではわかりませんが、もしそう感じるのだとすれば、考えられる理由のひとつは経験を積んだこと。単にスキーの経験だけではなく、世界中をまわって、いろいろな人と会い、いろいろなものに触れ、勉強し、そうした経験をとおして人間的に成長したということはあると思います。それからタイトルを取って、まわりの見方が変わったということもあるでしょう」

 オーストリアはもとより、世界中の人からの注目をどう受けとめていますか?

「トップアスリートのあるべき姿があるとぼくは思います。そうなるべく意識的に変えた部分もあるし、自然に変わった部分もあります」

 若くして頂点に立ち、マスコミに持てはやされて自分を見失い、一気に落ちる。そういうケースはたくさんありますが、あなたはそうはならなかった。28歳という年齢が頂点に立つに適齢だったということなのでしょうか。

「そうかもしれません。アルペンスキー・ワールドカップにコンスタントに出場するようになってから8年。この8年間でぼくは学校や家庭では学べないことをたくさん学ぶことができました。技術や体力だけではなく、それらすべての上のタイトルだったと思います」

 

(次回に続く)

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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