ブルー・ジャーニー
#58
ザ・アルプス 不可能性の抹殺〈5〉
文と写真・時見宗和
Text & Photo by Munekazu TOKIMI
下山
世界の8000メートル峰全14座の登攀に史上初めて成功。“超人”と呼ばれたラインホルト・メスナー(イタリア)は言った。
「パノラマにはあまり興味はありませんし、登頂の喜びもほとんどありません。頂上は通過点にすぎませんから」
1980年、クレバスに滑落するというアクシデントに見舞われながら、エヴェレスト北面の無酸素単独登攀を成し遂げたメスナーの手記は、つぎの3行で終わる。
──ぼくは自分のやったことがまだぴんとこなかった。ただ、もうこれ以上なにもできないことはわかっていた。ぼくにできることは、立ちあがってこの山を降りていくことだけだった。
メスナーとのやりとりをエヴェレスト3度目の登頂を80歳で達成した三浦雄一郎に話すと、三浦は言った。
「メスナーには2度ほど会ったことがありますが、もしパノラマに興味がないというのが本当なら、ちょっとかわいそうな気もしますね。ぼくの場合は、景色をどれほど楽しめるかがいちばん大切なことで、ああ、あそこを滑ってみたいな。この斜面はいいなと思いながら、いつも登り、下っている。そういう感性を持てたことは幸せだと思います」。三浦は弾むような口調でつづけた。「つぎにエヴェレストに登るときは、7000メートルまでスキー板を持っていこうと思っているんですよ」
メスナーはこうも言っていました。『アムンゼン、スコット、三浦雄一郎といった大冒険家と呼ばれる人たちの精神は、旅立ちの時、錯乱した状態にあったはずです』と。
「これをやったらやばいかな。でも飛びこんじゃえ。子どものときの、遊びの感覚がつづいているということなのではないかと思います。死ぬかもしれないし、実際何度も死にかかっているけれど、山が呼んでいるから行こうと。下界にいても、交通事故に遭うかもしれませんからね」
2度目のエヴェレストについて『5回、10回、深呼吸をしてようやく一歩を踏み出す』と振り返っていますが、想像することもできない世界です。
「越えなければならないから越える。越えると、またつぎが現れる。その繰り返しです。まあ、どこかで終わるだろうと」
限界に挑むという感覚はありますか?
「自分の限界というより、人類の限界を超えてみたいという思いはあります。なんでも大げさに考えるほうなので」
もうだめだと思うとき、次の一歩を踏み出す原動力は怒りですか? コンチクショーというような。
「怒りはありません。あるのは悲しみです。三浦雄一郎が登れずに終わったら悲しいなと」
1953年、エヴェレスト初登頂に成功したエドマンド・ヒラリー(イギリス)はインタビューにこう答えている。
頂上ではどんな気持ちがしましたか。
「ある程度の満足感はありましたが、人が考えるほど有頂天にはなりませんでしたね。二人(※ヒラリーとシェルパ頭のテンジン)とも疲れていました。私がいちばん興奮したのは、山を下りて役目が終わったときでした。でも、すばらしい山でした」
楽しみましたか。
「楽しみましたよ。でも、七六〇〇メートルを超えるともう楽しんでなんかいられませんね。体力も元気も、低いところのようには保てないのです。三、四千メートルのアルプス登山のほうがずっと楽しい。ヨーロッパ・アルプスなら頂上に着いたら岩の上に寝ころがって昼寝することができますが、ヒマラヤではそんな話は聞いたことがない。すぐに降りてきてしまいます。長居しすぎたら降りてこられなくなることがわかっていますから」
中世、ザ・アルプスは神や悪魔が住む場所だった。
18世紀に入ると、文明から離れて自然に帰ろうというムーブメントが巻き起こり、イギリスをはじめ、ヨーロッパの上流階級の関心はザ・アルプスに向けられた。人びとにとって、白い雪を抱いた崇高な山々は残された最後のユートピアだった。
眺め、抱かれる対象だったザ・アルプスが“登山”の対象になったのは18世紀後半で、動機は地理観測だった。1786年8月8日、モンブラン(4807メートル)がザ・アルプスのなかで最初に登頂された。
以後80年間に高峰のほとんどが登頂され、最後に「見えない遮断線の向こうには、魔物や妖怪が住んでいると想像されていた」マッターホルンが残った。
1865年7月14日午後1時40分、イギリスの版画家、エドワード・ウィンパー(25歳)が、9度目の挑戦で、マッターホルン初登頂に成功。頂上で「輝かしき生涯を圧縮したような1時間」を6人のメンバーとともに過ごす。
──さて、ぼくらは、頂上の南端に戻って積石(ケルン)を作り、それから眺望をじっくりと楽しんだ。悪天候が訪れるすぐ前にはとてつもなく静かで、晴れ上がった日があるものだが、この日もそんな日だった。大気はそよとも動かず、まるきり雲も靄もなかった。五〇マイル──いや一〇〇マイルも先の山々がはっきりと、間近に見えた。しかもそのあらゆる細部──山稜、岩膚、雪、氷河──が、見まちがえようもなく、くっきりと見えるのだ。以前登ったなつかしい山が目にとまるたびに、過ぎ去った日々の楽しい登山の思い出が心の中に浮かび上がってくる。あらゆる山々が姿を現していた。──アルプスの主な山々で見えない山は一つもなかった。今でもあのときの展望がありありと目に浮かぶ──アルプスの巨峰が内陣のように円を描いて並び、その背後にはいくつもの山系、山脈、山郡が折り重なるようにして聳え立っていた。
帰路、アクシデントは山頂直下の難所で起こった。足を滑らせたひとりに、ひとりが跳ねとばされ、それに引きずられてふたりが落下。結ばれていたザイルが一度は4人の落下を止めたが、支えつづけることはできなかった。
──数秒間だけ、ぼくらの仲間たちが、不運にも仰向けになり、両手を広げ、必死にもがく姿で滑落していくのが見えた。まだ怪我はしていないようだったが、そのまま一人ずつ視界から消えていき、四〇〇〇フィート(※約1220メートル)下のマッターホルン氷河目がけて、断崖から断崖へと落下していったのである。ロープが切れた瞬間にはもう、彼らを救うことには絶望になっていたのだった。
事故の発生を知ったスイス当局は、ただちに査問委員会を立ち上げ、「自分たちが助かるために故意にロープを切ったのではないか」という疑いで、ウィンパーを始め、生き残った3人をツェルマットに拘束した。
初登攀から10日後、タイムズ誌につぎの社説が掲載された
──なるほど、すばらしいことだ。だが、山登りと人生と何の関係があるのか? どうしても山に登らなければならない事情でもあったのか? とにかく正気の沙汰とは思えない。
英国山岳会会長ウィルスはウィンパーに宛てて手紙を書いた。
──ご自分の手で事実を発表することです。ありのままを、堂々と、確固とした姿勢で書くのです──どんな非難を受けようと(批判をするものがあればの話ですが)、言いたい者には言わせておけばいいではありませんか──だが、あなたが沈黙したままでは、ほとんどの人は勝手に悪い想像ばかりに走ってしまいそうです。そんなことを放っておいてはいけません。
裁判を経てウィンパーたちへの疑いは晴らされた。
ツェルマットのマッターホルン博物館に収められた証拠品──切れたマニラ麻のロープ──は、驚くほど頼りない。今のクライミング・ロープだったら、あの滑落事故は絶対に起こらなかっただろう。
だが、最先端のエイド(補助具)のサポートを得てエヴェレストに立つクライマーに、マッターホルンの頂上に立ったウィンパーのような無邪気な喜びは薄い。
マッターホルン初登頂から約150年。科学とそれに伴う技術の進歩はわれわれになにをもたらし、なにをわれわれから奪ったのだろう。(引用参考文献『アルプス登攀記/エドワード・ウィンパー著』講談社学術文庫、『ビヨンド・リスク/ニコラス・オコネル著』山と渓谷社)
(アルプス編、了)
*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。
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時見宗和(ときみ むねかず) 作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。 |