ブルー・ジャーニー

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#57

ザ・アルプス 不可能性の抹殺〈4〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

いつでも、どんなときでも   

 ザ・アルプスの、崇高の中の崇高、マッターホルン。

 満員電車に揺られているときでも、湯が沸くのを待っているときでも、本を読んでいるときでも、息を切らしているときでも、いつ、どんなときでも、その姿は、初めて目の当たりにしたときの驚きとともに、頭の中に立ち上がる。

 

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 ブリークとツェルマットを約60分で結ぶゴットハルト鉄道。レールとレールの間に敷設されたもう1本のレール、ラックレールにギアを噛ませ、ザイルをたぐりよせるように列車は急坂を登っていく。

 エメラルドグリーンの川を渡り、牛小屋の軒をかすめ、孤島のようにたたずむ中世の遺産をのぞみ、葡萄畑を横切り、断崖と断崖の狭間を縫って、マッターホルンに近づいていく。

 

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「崇高」という概念が初めて言葉になったのは、紀元200年、ギリシャで書かれた文学論、『崇高について』においてだった。

 以後、ラテン語の世界でのみで使われていた「崇高」は、1972年、英語に重訳されたことをきっかけに、国境を越えて広がっていった。

 たとえばサハラ砂漠、たとえばシナイ半島の峡谷、たとえば荒れ狂う大海原は「広大」だが、「広大」なだけではなかった。「驚異的」や「言葉を失う」も、まちがってはいないが、表現しきるにはまったく不足だった。ラテン語圏ではない作家、詩人、批評家たちは、そのことに気づいていたが、もやもやとした領域を満たす言葉を長く見つけることができずにいた。

 英語に重訳された「崇高」は、そのもやもやを晴らし、風景についての価値観を根本から変えた。すなわち、風景の価値は、大きさや色や形によってではなく、人の心に崇高さを呼び起こす力によって決まるものとなった。

 

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 ツェルマット駅まであと1・5キロ、岩角を曲がるとマッターホルンが姿を現す。

 彼方にではない。雲を突く大男に真上から見下ろされるかのように現れる。

 標高4477・5メートル。ピラミッド型で4つの面を持つマッターホルン。落差は東壁1000メートル、北壁1200メートル、南壁1350メートル、西壁1400メートル。北壁はアイガー、グランド・ジョラスとともに3大北壁に数えられており、ツェルマットからこの北壁(右側の面)と東壁(左側の面)を見ることができる。(村のどこからでもマッターホルンが見えるように、4階以上の建物の建設は条例で禁止されている)

 

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 史上初めてマッターホルンの頂上に立ったのはイギリスの版画家、エドワード・ウィンパーだった。

 

 ――ツェルマット側からマッターホルンを見ると、これ以上登攀不可能な山はないのではないかという気がする。気がする、というより、はっきり断言してもいいくらいだ。どう冷静な気持で眺めてみても、あの切り立った断崖を目のあたりにしては、思わず息をのまずにはいられない。アルプス広しといえども、これだけの規模の絶壁はそうざらにあるものではない。「絶壁」という言葉がこれほどぴったりくる岩壁は、ほかには皆無である。中でもいちばん巨大なのはツムット氷河にのしかかるように聳え立つ北壁である。この驚嘆すべき岩山の頂上から石が落ちると、1500フィート(約457メートル)ばかりの間、まったくどこにも当たらずに落下していく。上部から落ちる石は、この絶壁を飛び越えてさらに遥か下まで落下し、そこではね返って、岩壁の末端より1000フィート(約305メートル)も先まで飛んでいく。マッターホルンのこちら側はいつ見ても陰鬱で、ものさびしく、恐ろしげに思える。崩壊、廃墟、死、といった印象が、ひしひしと胸に迫ってくる。

 

 ウィンパーはマッターホルンに8度挑戦し、8度失敗。大滑落も経験した。

 

 ──ぼくの落とした岩が下の氷河に落ちて砕ける音を聞いたときはぞっとした。あやうく、あのように完全に叩きつぶされるところだったのだ。何しろ、ほぼ200フィート(約61メートル)もの距離を七、八回もバウンドして落ちたのである。あと10フィート(約3メートル)落ちていたら、空中を800フィート(約244メートル)飛んで、下の氷河に転落していたことだろう。

 だが、今いる場所も、まだまだ油断のならない所であった。一瞬でも岩から手を離したらおしまいだ。おまけに二十ヵ所以上もの傷口からは、血が吹き出ていた。

 

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「崇高さ」は人間の力が到底及ばない力強さを前提とする。どんなに端正でも、どんなに美しくても、人間に従順な風景には「崇高さ」は宿らない。

 ザ・アルプスの4000メートル級の山々の中で、マッターホルンがさいごの処女峰となった最大の理由は、登ることがむずかしかったからではなく、どの角度から見ても圧倒的で、崇高な偉容が畏れられたからだった。

 

 ――この山を囲む谷に住む迷信深い村人たちは(この人たちの多くは、マッターホルンはアルプスの最高峰どころか、世界で一番高い山だと固く信じている)マッターホルンの頂上には廃墟となった町があり、そこには亡霊たちが住みついているのだと、口々に話していた。その話を聞いて笑いでもすると、彼らは大まじめに首を振り、それなら自分でその城砦や城壁を見てくるがいい、だがむやみに近づいてはいけない。魔物をあざ笑ったりすると、腹を立てた魔物たちが、とても攀じ登れそうもない高い場所から岩を落として仕返しをしてくるに決まっているからね、と忠告してくれるのである。

 

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 いまから150年あまり前の1865年7月、マッターホルン初登頂をめざして、イタリア側とスイス側から、ふたつのパーティが相次いで出発した(マッターホルンはドイツ語名。イタリア語はチェルヴィーノ=鹿の角、フランス語はセルヴァン)

 7月11日、名ガイド、ジャン・アントワーヌ・カレル率いる7人のイタリア人がイタリア側の村、ブリューイルを出発。

 2日後の7月13日、午前5時30分、ウィンパーをリーダーとする8人がツェルマットを出発。高度1万1000フィート(約3353メートル)でビバークし、翌日、頂上をめざしてアタックを開始した。

 

 ──斜面は次第にゆるやかになり、やがてロープを外しても平気になった。クロとぼくとは先を争って走り出し、ほぼ同時に頂上に着いた。午後一時四十分、世界はぼくらの足下となった。マッターホルンは征服されたのだ。万歳!足跡は一つも見当たらなかった。

 それでもまだ、ぼくらが勝ったという確信は持てなかった。マッターホルンの頂上は、三五〇フィート(約107メートル)ほど続く、ほぼ水平に近い尾根になっている。イタリア人たちはその向こう側の端に登ったのかもしれないのだ。ぼくは雪の上を左右に熱心に眺めながら、急いでその南側の端まで行ってみた。もう一度、万歳、と叫んだ。足跡はなかったのだ。「では、あの連中はどこまで来ているのだろう?」ぼくは半ば見えないだろうと思いながら絶壁越しに下をのぞいてみた。するとすぐに彼らの姿が目にとまった。──

 

 9回目の挑戦でマッターホルンの頂上に立つことに成功したウィンパーは、しかしその下山の途中、悲劇に襲われた。(引用参考文献『アルプス登攀記/エドワード・ウィンパー著』講談社学術文庫)

 

(アルプス編、続く)

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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