ブルー・ジャーニー

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#55

ザ・アルプス 不可能性の抹殺〈2〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

たとえようもない喜びと、同じぐらいの危険  

 アイガー北壁。岩壁の高さ1800メートル、標高3900メートル。もっとも一般的なヘック・マイヤー・ルートでも国際基準で2番目にむずかしい“超難関2”。上部でクライマーを待ちかまえる巨大な氷雪の模様は“白い蜘蛛”と呼ばれる。

 山々の奥まったところに位置するマッターホルンやモンブランと異なり、グリンデルワルトの真正面にそびえる岩壁。生死を賭けるクライマーの耳にカウベルや北壁の中を通る登山電車の音が響き、その成功、撤退、最悪の結末は、町の人びとが手にする双眼鏡に映し出される。

 

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 1969年、加藤滝男隊長以下6名が、頂上に向かって可能な限り垂直に登る直登に成功。グリンデルワルトで売られている絵はがきには、このルートがディレッチシマ(最直線)として書きこまれている。このとき、隊員のひとりだった今井通子は、その後、アルプス3大北壁を女性として初登攀。長谷川恒雄は、1978年、厳冬期単独初登攀というもっとも困難な組み合わせを達成したが、ヒマラヤで雪崩に巻きこまれ、消息を断った。

 最悪の結末はこれまで70件余り。トニ・クルツは救助隊の数メートル上で力尽き、伸び切ったザイルの先で絶命したステファノ・ロンギの体が双眼鏡の視界から消えるまで2年を要した。

 

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  “超人”ラインホルト・メスナーが、アイガー北壁を初めて登頂したのは1969年。所要時間1日半は当時の世界最短。5年後、メスナーは自身の記録を大幅に更新する10時間で登頂した。

 

――完全に氷結したクラックにさしかかったときには、この同じ場所で六度も墜落したヘルマン・ブールのことが頭に浮かんだ。ぼくは指の温かみで氷の解けた手掛かりに、やっとの思いでしがみついた。指の幅ほどしかない岩角にあまりに長く立ち続けていると、ふくらはぎが痛くなる。中間ピトンを打ちこもうにも、片手すら自由にならない。何度か体を動かそうとしたが、そのたびにすんでのところで滑落しかかり、一歩も進めない。どちらかというと降りるほうが簡単だっただろう。下のほうのホールドは、いまでは氷もなくなっている。ところが前進しようとすると、ぎこちなく動くたびに転落危険がつきまとった。(『ラインホルト・メスナー自伝』TBSブリタニカ)

 

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 地球上から未踏の頂が消えていくにつれて、クライマーたちはより困難なルート、より困難な条件での登頂に目標をシフト、その過程で、登攀のスタイルは、ボルトや酸素ボンベなどのエイド(補助具)を大量に投入する方法と、エイドの使用を極力避ける方法のふたつに分かれた。

 後者を支持、エイドの使用は墜落防止に限り、体を引き上げるために使うべきではないとするメスナーは、1965年、“不可能性の抹殺”を世に問いかけた。

 

 ――テクニカルな器具を使えば使うほど不可能性をつぶすことになり、不可能性がなくなってしまったらクライミングはその最も重要な動機を失う。不可能なことはだれにもできないけれど、近づくことはできる。ボルトやテクニカルな器具類で不可能性を抹殺すれば、クライミングも破壊されてしまう。

 

 南チロルの古城にメスナーを訪ねたとき、“不可能性の抹殺”に触れると、メスナーは言った。

「スキーも同じことでしょう? もともと、スキーはリフトもなにもない山の中を移動する手段であり、そこにはたとえようもないほどの喜びと、同じぐらいの危険があったはずです。でも今は、すっかり踏みならされたところを滑るスポーツになってしまっている。すなわち自然を傷つけ、不可能性を抹殺しようとしているのだとわたしは思います」

 

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 ラインホルト・メスナー。1944年生まれ。イタリア領南チロルの町、ブレッサノーネ出身。父親に連れられて初めて山に登ったのは5歳の時。25歳までにザ・アルプスの難ルートのほとんどを登攀。多くは、それまでの常識の枠から大きくはみ出る単独登攀だった。

 26歳から16年間の間に、エヴェレスト北面の無酸素単独登攀を含む世界の8000メートル峰全14座の登攀に史上初めて成功。8000メートルの地の酸素の量は平地の約3分の1。気温は時にマイナス30度を下まわり、風速は60メートルを超える。

 

――クライミングの真の技術とは生き延びることだ。それが最も難しくなるのは従来行動の限度と考えられていたところまで到達してしまい、さらにもう一歩踏み出そうとするときである。だれも行ったことのないところ、だれも行きたいと思わないところ――あるいは自分がしようとすることをだれも理解してくれないようなところへ乗り出すときである。そういった未知の領域では、感覚と経験は「踏みならされた」世界で得られるよりもはるかに強烈である。(『生還――八千メートル峰全十四座』未訳)

 

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 イタリア・ミラノから北西に向かって直線距離で約180キロ。オーストリアとの国境まであと10キロ余りのところに位置する山間の村、ヴェノスタ。フォトグラファー、ステファノ・ボッツァーニがハンドルを握るボルボV90で這うように坂を登っていくと、小高い岩山の頂に“超人”が住むシュロス・ユーバル城は建っていた。周囲には有機農業の畑が広がり、馬、羊、小型のヤギ、鳥、チベット産のラマがのんびり草を噛んでいる。

 ピンと伸びた背筋、水面を歩くような足取り。鉄製の城門の向こうから姿を現したメスナーは大きく分厚く柔らかな右手を差し出し、5階建てのビルほどの高さの中世の城を振り返った。

「考古学者に調べてもらったら、わたしが思っていたよりも古く、800年以上前に建てられたようです」

 

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 ――著書のなかでクライミングを「生き延びること」だと定義づけていますね。

「ええ。正確に言えば生き延びる芸術だと考えています。山で死んでしまったクライマーは、たとえ最高の技術や実績を持っていたとしても、最高のクライマーとは言えません」

 そのまなざしはハクトウワシのように緊張に満ちていて、その声は体に聖堂を内蔵しているかのように響く。

 ――生死の境目に身を置くことがクライミングには必要なのですか?

「死の危険がないものはもはやクライミングではありません」

 ――生き延びるための条件はなんなのでしょう。

「経験、準備、エネルギー、そして直感です」

 ――運は?

「もちろん必要です」

 ――ナンガ・パルバットでのできごとも、やはり運だったのでしょうか?(ナンガ・パルバットはヒマラヤ山脈のパキスタンキルギット・バルティスタン州に位置する山。標高8125メートルは世界第9位だが“人食い山”と呼ばれるほど登頂は困難を極める。南側のルパール壁は標高差4800メートルと世界最大。1970年にメスナーと弟のギュンターが初登攀に成功したが、下山の途中、メスナーのほんの少しうしろを歩いていたギュンターが雪崩で死亡した)

「あの時、わたしは死んで雪の上に横たわっている自分の姿を見ました。おそらくわたし自身、死に片足を乗せていたのだと思います。それでも生き残ったのは、やはり運があったからなのでしょう。しかし運はある日突然、底をついてしまうものです。あてにすることはできません」

 

(アルプス編、続く)

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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