ブルー・ジャーニー

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#54

ザ・アルプス 不可能性の抹殺〈1〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

突然で、圧倒的な  

 車窓の緑が漆黒に塗り替えられる。

 急峻な山間を奇跡のように這うレールの上を、列車は力強く走りつづける。

 スイス連邦の面積は4万1293平方キロメートル。その4分の3を山地が占める。山地の中にスイス連邦があると言ったほうが実感に近い。

 国鉄が約3000キロ、私鉄が約2000キロ、九州とほぼ同じ面積を駆けめぐる約5000キロの鉄道網。鉄製の車輪をつけた電車はゴムタイヤを履いた自動車よりも急坂に弱く、7パーセント程度の勾配(70パーミル)が限界だとされていたが、スイスの鉄道はその約7倍の480パーミルをクリアする。

 

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 リグリア海から立ち上がり、緩やかな弧を描きながらフランス、イタリア、スイス、オーストリア、リヒテンシュタイン、スロベニアの6カ国を貫くヨーロッパアルプス。人びとは、その白い連なりを、畏敬の念を込めて『ザ・アルプス』と呼ぶ。

 東の端から西の端までの総延長は約1200キロ。中央部の幅の広さは150キロ。日本の本州とほぼ同じ規模のザ・アルプスは、西部アルプス、中央アルプス、東部アルプスの3つのゾーンに分けられるが、なかでも、もっとも高く、もっとも美しく、もっとも峻烈な山々を擁するのがスイス連邦を中心とする中央アルプスだ。

 

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 ホテル“アルテポスト”のオープンテラスで、グリンデルワルト日本語観光案内所の所長を務める安東一郎さんと落ち合う。

 4月。春の日差しと雪解け水を吸いこんだ土に、クロッカスがつぼみを膨らませている。

 アルテポストは日本人として初めてアイガー北壁の直登に成功した加藤滝男さんが経営するホテル。加藤滝男さんは、マナスルに日本人として初登頂、その後、エヴェレストで消息を断った加藤保男さんの実兄である。

 向かって右からユングフラウ(4158メートル)、メンヒ(4099メートル)、そして“超人”ラインホルト・メスナーも手こずったアイガー(3970メートル)。これら3山は、その山容はもとより、名前の終わりに『ホルン=山』や『ベルグ=岳』を含まないという点においても、ヨーロッパアルプスの他の山々とは一線を画す。名前の意味は、ユングフラウ『処女』、メンヒは『僧侶』、アイガーは『男』。

 

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 安東さんがグリンデルワルトに移り住んだのは1983年。

「出身は大阪です。高校のときに北海道に行き、それで人生観が変わりまして、以後、国内外を旅してまわりました。いわゆるバックパッカーです。グリンデルワルトに初めて来たのは19歳のときです。山と緑と牛。日本人がスイスに対して抱くイメージそのままの景色が広がっていて、加えてどことなく日本的で、強烈に印象に残ったんです。その後、オーストラリアやカナダに行きましたが、結局、グリンデルワルト以上のところはありませんでした。一番すばらしいと思うのは、やはり山の景色ですね。毎日、ちがう表情を見せてくれる。飽きるどころか、いつも感動しています」

「日本に帰ろうと思ったことは?」

 「一度もありません。ここは住みやすいですから」

「立ち入ったことをうかがいますが、差別のようなものはありませんか?」

 「あります。アイスホッケーのチームに入っている子どもが、試合に出してもらえないとか、たとえばそういうことはあります。でも、しょうがないですよ、そんなことを気にしても。日本にいたって同じようなことはあるでしょうから」

 

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 グリンデルワルト郷土博物館に、明治の登山家、槇有恒の山岳ガイド手帳が収められている。

 ――アイガーの東尾根! これ50年来登高する物を以て任ずる者の試みて能わざりし処。神州国の一書生、このアマター、およびストイリ、ブラバントの3案内と試みてこれを成し遂ぐ。こと小なりと言えども、日本国の名をアイガーと共に残したりと思う時、若き血の燃ゆるを禁ずるを得ず。此の書読み賜う君、希くはグリンデルワルトにて其のアイガーの東尾根を仰ぎ給え。

 1921年、槇は東稜(向かって左)のミッテレギ稜を経由する登頂に史上初めて成功した。(それまでの登山ルートは西稜のみだった)。

 記念に1万フランを投じてミッテレギ小屋を建設。槇に開拓されたルートは、現在、もっとも一般的な登山ルートとして、ミッテレギ小屋とともに多くの人びとに親しまれている。

「ルートの幅ですか? 狭いところは、靴1足分ぐらいですね。だから天気の悪い日は当然登ることはできません。足を踏みはずすと200メートルぐらい滑落してしまいますから。条件が整うのは1週間に1回ぐらいでしょうか」

 グリンデルワルトに住んだからには、一度はアイガーの畳2枚ほどの広さの頂上に立ちたい。そう思いつづけていた安東さんに、初めてチャンスが訪れたのは1998年のことだった。

 「登ったことは登ったんですけど、下りで滑落しちゃいまして。運よく途中で引っかかったので、足の骨折だけですみましたけど。でも、こっちの保険はすごいんですよ。病院までヘリコプターで運んでくれて、もちろん無料ですから。引っかからなかったらですか? おそらく死んだでしょうね」

 

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 アルプス3大北壁――グランド・ジョラス北壁、マッターホルン北壁、アイガー北壁――の中で、最後まで登頂を拒んだアイガー北壁。

 取り付き地点から垂直に伸びる1800メートルの屏風岩の表情は、Nordwand(北壁)をもじってMordwand(死壁)と呼ばれるほどに、黒々として険しい。ほとんど一日中、日陰にあるにもかかわらず雪がつかないということは、それだけ急峻であるということに他ならない。

 あらためて見上げると、神の悪戯としか思えないほど突然で、圧倒的で、どうしてこのようなものが存在するのかという思いがわき起こる。

 スイス連邦には4000メートル級の高峰が全部で34座。19世紀までにそのすべてが登攀され、処女峰征服の機会を失った20世紀のクライマーたちは、より困難なルートをたどって頂上を目指すようになり、アイガー北壁がその最後のターゲットとなった。

 とりわけ執心したのが第1次世界対戦前夜のナチスだった。“アルプスに残された最後の課題”に取り組むために、エリートを集めてクライマーを養成。国家の威信をかけて精鋭を送りこんだが、野望は黒い岩肌に完璧なまでに拒絶された。

 1937年、あまりの犠牲者の多さにベルン州議会がアイガー北壁登攀禁止令を発布したが、まもなくこれを撤回。その翌年の1938年、スキー選手(冬季オリンピック・ルミッシュ=パルテンキルヘン大会、回転競技に出場)であり登山家のオーストリア人、ハインリッヒ・ハラーが初登攀に成功した。

 

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 初登攀の翌年、ハラーはドイツ隊に招かれてヒマラヤの秀峰ナンガ・パルバットに遠征したが、入山中に第1次世界大戦が勃発。インドの援軍捕虜収容所に強制収容された。

 4年後、5度目の挑戦で脱出に成功。羊の毛皮とボロボロの衣服で厳冬の標高6000メートルを越え、2年余りの逃避行を経て、1946年にチベットのラサに到着。ダライ・ラマ14世の個人教師、行政顧問となったが、5年後、中国解放軍がチベットに侵攻。120万人以上のチベット人が命を落とし、6000余りの僧院、寺、聖地の99パーセントが破壊された。

 ダライ・ラマはインドに亡命し、ハラーもまたインドに逃れ、翌年、12年ぶりにオーストリアに帰国。

「時間は止まっていてもすべてが動いている」ラサでの生活を心から愛したハラーの数少ない不満のひとつがスキーができないことだった。

 ──私たちはもう一度スキーで滑りたくてならなかった。しかし、すでに一度試みたように手製のスキーで滑るにしても、雪のあるところまでは遠すぎて、馬やテントや召使いを連れて行くほかないであろう。人の住んでいないところでスポーツをやるのは金のかかることである──(引用参考文献『セブン・イヤーズ・イン・チベット』/角川文庫)

 

(アルプス編、続く)

 

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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編著・日本ラグビー狂会

     

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