ブルー・ジャーニー

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#52

グランド・キャニオン 時を歩く〈3〉

文と写真・時見宗和 

Text & Photo by Munekazu TOKIMI

世界の中心  

 

 

 どれほど眠ったのだろうか。ガサゴソという音で目が覚める。たぶん犬たちが草むらのなかを歩きまわっているのだろう。

 テントのファスナーを開け、体半分だけ這い出る。

 ホピ(=平和の民)族はグランド・キャニオンを“母なる大地の裂け目”と呼び、切り立った崖に四方を囲まれたこの一帯に“トゥワナーサビィ=世界の中心”を見る。

 億単位の時間のふるいにかけられた砂が背中にやさしい。

 嵐の日にガラスを叩く雨音とおなじぐらいたくさんの星が瞬いている。

 夜空は崖の黒々としたシルエットに囲まれていて、大きな井戸の底から見上げているような気分だ。

 

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 煙るように夜空を渡る天の川(ミルキーウェイ)をたどると、ギリシャ神話に行き着く。

 ――オリンポスに住む女神がヘラクレスに乳を与えたところ、あまりに強く吸われ、夜空にほとばしった乳がガラクシア(=ミルクの道)になった。

 仰ぎ見る場所によって、天の川は、さまざまに姿を変える。カラハリ沙漠のブッシュマンが住む場所では“夜の背骨”に、古代スカンジナヴィアでは“幽霊の道”に、フィンランドでは“光の橋”に、ヘブリディーズ諸島では“秘密の通路”に、パタゴニア地方では“幽霊がアメリカダチョウが狩りする白い草原”になり、アメリカの先住民は、光りの道を渡っていく魂を見る。

 見つめるほどに、星との距離があいまいになっていく。

 伸ばした手の指のほんのすぐ先で瞬いているように思え、星々のなかに体が浮かんでいるようにも思える。

 

 ぼくたちは網膜に映し出される2次元の像を、脳のなかで3次元の世界に翻訳する。 

 翻訳の手がかりはさまざまある。たとえば、一軒の家がもう一軒に隠れている場合、隠れているほうが遠くにあると思い、水平線に近い船のほうが水平線から離れている船より遠くに浮かんでいると判断し、おなじ大きさのものがふたつある場合、小さく見えるほうが遠くにあると脳は翻訳する。

 2本の並行の直線は遠くにいくにつれて間隔が狭まり、電車のスピードは遠くいくにつれてゆっくり走っているように見える。

 知識も翻訳の大きなヒントになる。目に映るキリンの大きさによって、キリンとの距離を推し量る。キリンを知らない脳のなかでは3次元は成立しない。

 空気中に浮遊している水分やほこり、汚染物質などの細かい粒子に邪魔されて、遠くにあるものはぼやけて見える。空気がない月面に降り立った宇宙飛行士は、だから遠近感をつかめずに苦労した。

 ここグランド・キャニオンには空気はあるが、空気中の浮遊物は地球上でもっとも少ない。

 

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 いま、頭上を通りかかった宇宙船の飛行士は、きっと、ここから北西に約50キロ離れた沙漠のなかの、夜の地球でもっとも明るく光る場所に視線を走らせただろう。

 光で飾りつけられたエッフェル塔、自由の女神、スフィンクス、ピラミッド、古代ローマの神殿。30分間隔で噴火する火山。火柱を上げながら戦闘を繰り広げる海賊船と英国海軍。コンピュータの指示を受けて、さまざまな絵を浮かび上がらせるアーケードの1250万個のLEDライト。

 まわるルーレット、ひるがえるトランプ、読み上げられるビンゴ・ゲームの数字、鳴りつづけるスロットマシン。カジノのドアは開け放たれ、24時間眠ることがない。

 どうしても治安が気になるのならば、となりのスロットマシンの受け皿の硬貨に手を伸ばしてみることだ。人の群れから抜け出てきた無表情な私服の警官たちに手足を持たれ、ドアの向こうに引きずり出される。にぎわいに痕跡が残されることはない。

 年間の観光客の数は、ハワイの5倍の約5000万人。ラスベガスでは、とくべつな事情がある日を除いて、パブリックスペースに時計とテレビを置くことを禁じられている。もっとも特別だったのは1963年11月22日だった。ジョン・F・ケネディが暗殺されたこの日、大きく落ちた売り上げを前に経営者はため息をついた。

 

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 自然はコロラド川にグランド・キャニオンを造り、人間はコロラド川でラスベガスを造った。

 1931年、アメリカ合衆国政府はコロラド川をせき止めるフーバーダムの建設に着手。万里の長城を再現できるほどの岩を掘り出し、西海岸のサンフランシスコと東海岸のニューヨークを結ぶハイウェイの建設が可能な量のセメントを流しこみ、1936年に完成した。

 日本の全250基のダムの総貯水量は約250億トン、琵琶湖の水量は約280億トン。フーバーダムの総貯水量はこれらをはるかに上まわる約400億トン。完成後、世界最大の人造湖ミード湖に水が満たされると、生態系はダムの上流、下流を問わず傷つき、流れはカリフォルニア湾に届かなくなった。

 建設中、膨大な数の建設労働者がラスベガスのカジノに金をつぎこみ、完成したダムはラスベガスに電気を供給した。

 宇宙飛行士、野口聡一は記した。

――先進国の大都市の夜景は人工の光に満ちていますが、それ自身が「光害」であるだけでなく、その光を生み出すために膨大なエネルギーが使われていることは想像に難しくありません。

 

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――ミラーラについていくには、かなりの高レベルが要求されます。肉体的な面だけじゃなくて、心理面、精神面も大事なんです。アトウォーター・トレイルには、かなり急な岩場がいくつかあって――たとえば足下は五百フィート(約150メートル)もの赤い断崖、見上げると二百フィート(約60メートル)の絶壁、立っているトレイルは靴の幅がやっと、というようなね。気をしっかり持たなくてはやってられません。それが心理面、精神面というのは、彼女と一緒にいると自分の信じるものについて、考えさせられるんです。彼女が何を信じているのかはよくわかりますから。動作の中に表れます。彼女はキャニオンの崖をどんどん走っていく。脚の動き、腕のバランスを注意して見ていれば、それが大地と完璧につりあっていることがわかります。全く無駄がない。みとれてしまうほどです。『ランナー』(バリー・ロペス)

 

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 グランド・キャニオンにはノースリム(北側の崖の縁)にもサウスリムにも、端ともう一方の端を結ぶ1本道は存在しない。

 トレイルをつなぎ合わせながら、さいしょに歩き通した白人は、25歳のリバーガイド、ケントン・グルア。1976年の冬のことだった。

 それから約40年。全行程をいくつかの区画に分け、中断期間をはさみながら走破した者が25人足らず。中断期間を入れず、一気に歩き通した者は2015年の時点で8人。月面に降り立った人間の数(12人)より少ない。

 

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 人や馬がそばにいても景色の大きさがわからない。

 形も色についても、たとえる言葉を知らない。

 緑と水の匂いといっしょに、わからず、知らないまま、記憶に焼きつけたいと思う。

 

(グランド・キャニオン編、続く)

 

*本連載は月2回配信(第2週&第4週火曜日)予定です。次回もお楽しみに。

 

 

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時見宗和(ときみ むねかず)

作家。1955年、神奈川県生まれ。スキー専門誌『月刊スキージャーナル』の編集長を経て独立。主なテーマは人、スポーツ、日常の横木をほんの少し超える旅。著書に『渡部三郎——見はてぬ夢』『神のシュプール』『ただ、自分のために——荻原健司孤高の軌跡』『オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー蹴球部中竹組』『[増補改訂版]オールアウト 1996年度早稲田大学ラグビー 蹴球部中竹組』『オールアウト 楕円の奇蹟、情熱の軌跡 』『魂の在処(共著・中山雅史)』『日本ラグビー凱歌の先へ(編著・日本ラグビー狂会)』他。執筆活動のかたわら、高校ラグビーの指導に携わる。

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編著・日本ラグビー狂会

     

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