ステファン・ダントンの茶国漫遊記

ステファン・ダントンの茶国漫遊記

#50

ーステファンが旅する東京ー  中野から高田馬場へ

ステファン・ダントン

 

 

 
 1986年の自分を振り返ろうと中野区にかつて住んだアパートを訪ねた私は、さらに母校のある高田馬場へ向かった。
 

 

 

 

通学電車で高田馬場へ

 

 

 夕方5時過ぎの西武新宿線。新井薬師駅から高田馬場駅の車内は学生で一杯。学生時代を思い出してきた。
「電車で5分。歩けば30分。節約したくて歩いたこともあったよな」
「学校のそばまで行ったのに、面倒になってさぼっちゃったこともあったよな」
「ひげをはやした校長先生がエネルギッシュでユーモアがあって。お世話になったよな」
 でも「高田馬場で一番思い出深い場所はどこ?」と聞かれて迷わず「シェーキーズ!」と答えた。
 当時本当に貧乏だった私の食生活を支え、命をつないだのはピザだった。校舎の近くにあったバイキングをやっているピザハウスに週に1度通うのが習慣になっていた。たらふく食べるのはもちろん、もう時効だから白状すると、持参したビニール袋に1週間分のピザを入れて持ち帰っていた。ピザは具材の水分が少なければ日持ちする。そんな貧乏ゆえの悪巧み。あの頃の自分にとっては生きるための創意工夫だった。
 そんな話をするうちに、電車は高田馬場に到着した。
 

西武新宿線の車内にて

西武新宿線「新井薬師駅」から「高田馬場」に向う電車内にて。

 

 

 

母校をさがして

 

「せっかくだから当時通った学校に行ってみようよ。覚えてる?」
「たぶん大丈夫。ピザハウスのあたりを左に曲がって、路地を入っていくんだ」

 

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当時の通学路を歩く。ピザハウスはもうなかった。

 

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この路地を抜ければ母校があるはず。

 


 高田馬場の駅から歩き慣れた、でも33年ぶりの坂道を上っていく。左手にあったはずのピザハウスはもうなかったが、細い路地を抜けて、住宅街の中の小さな校舎にたどりついた。
「新宿日本語学校2号館。ここが私の通った学校」
 もう夕方の6時前。明かりはなく人影もないが、母校は確かにそこにあった。

 

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少し迷ったけれど、たどりついた母校、新宿日本語学校2号館。

 

 

 高田馬場一帯は、有名な早稲田大学だけでなく1986年当時からたくさんの日本語学校があって、多くの留学生が行き交う街だった。私は、フランス大使館から「比較的欧州の学生が多く、歴史ある学校だ」と勧められて新宿日本語学校に通うことにしたのだった。
「いい学校だったのに、さぼりがちなあまりよい学生ではなかったな」
 ひとまず母校があるのにほっとしたら、昼間から歩き通しなのに気がついた。
「どこかでビールでも飲もう!」
 

 

 

パンデュール

 

 

 歩いていると1件の喫茶店が目に入った。「cofee&wine パンデュール」と書かれた看板も、店先に出された黒板のメニューも私の好きな昭和の香り。早速入店すると内装もしゃれている。テーブルを挟んだソファーと椅子が数脚とキッチンカウンター。出てきたマダムにピザを注文すると「釜が壊れてしまってお出しできないんですよ。新たに買うことも考えましたが、この先何年使うかわからないんで断念しました」と寂しいことをおっしゃる。マダムとご主人お二人で何十年も切り盛りしているんだそうだ。「ではサンドイッチを1皿とビールを」と注文。歩き疲れた体に染み渡るビールは最高。そしてサンドイッチは丁寧に作られた100点満点のビジュアルと味。これぞサンドイッチの王道。食べ終わる前に「必ずまた来ます!」と宣言してしまった。

 

 

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パンデュールの看板。フォントも素敵だ。

 

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パンデュールの店内。シックな内装で、これぞ、ザ・喫茶店。

 

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 王道のサンドイッチをつまみにビールをいただく。

 

 

 

 一緒にサンドイッチをつまんでいた友人の一人が「新宿日本語学校に電話してみようか。学校があるんだから懐かしい校長先生に会いたくない? 後日のアポイントを取ってあげるよ」と言って、電話を片手に店外へ。
 興奮した様子で戻ってきて
「校長先生、今日会ってくださるって! 30分後にアポ取れたから食べ終わったらすぐに行こう」
 なんという急展開。私たちは新宿日本語学校の本館へ向かった。
 

 

 

新宿日本語学校へ懐かしの校長先生に会いに

 

 

 新宿日本語学校の本館にたどりつくと、もう夜の7時をまわっているのにスタッフの方が笑顔で出迎えてくれた。

 

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新宿日本語学校の入り口にて。

 

 「校長がお待ちですので会議室へどうぞ」
 明るくきれいな校舎。楽しい授業が想像できる教室。昔の自分を思い出しながら会議室で江副校長を待つ。
 長髪にヒゲを生やしたかっこいい人だったと記憶している。たしかお父様と一緒に学校を運営していたはず。そして奥様はフランス人だった。記憶を辿りよせながら待っていると、爆発的な明るさとともに江副校長が入ってきた。

 


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校長先生との33年ぶりの再会を果たす。

 

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江副校長ファミリー。後列は奥様と息子さん。

 

「どうもどうも。いつの卒業生だっけ?」
「1986年に在籍していたステファン・ダントンです。卒業後、いったん帰国して1992年に再来日しました。今は日本橋で日本茶専門店をやっています。今日は当時が懐かしくなって校長先生に会いにきました」
 緊張しながらそこまで一気に話した。
「北海道ホームステイの一期生だよね。よく覚えているよ。久しぶりだね」
と校長先生。そして、
「君も日本で頑張っているんだね。日本茶の世界で有名になれたのかな? 日本に残っている卒業生の有名人はラモス瑠偉と君かな?」
と続ける。昔と同様、ひげを生やして、でも当時よりもダンディになった校長は、以前と同じように冗談を交えながらフレンドリーに話しかけてくれた。
「あの頃は今のような教材も教育メソッドも確立していなかったから、うまく教えてあげられなくてごめんね」
「いい授業でした。私の日本語が下手なのは学校のせいじゃなく、私がさぼっていたからです」
 奥様と息子さんもご紹介いただいて、すっかり打ち解けた私に、校長が開発した直感的にわかる日本語教育メソッドをどんどん紹介してくれて、いつのまにか先生の授業が展開されていた。
 校長の開発したメソッドと教材はすばらしくて、外国人向けの日本語教育だけでなく、視覚的な日本語理解によって聴覚障害を持つ方の国語教育にも活用されているそうだ。また、日本語が「情報」と「述部」からなるという特性に着目した新たな日本語理解を提示するなど、単なる語学学校の枠を超えた活動をされている。
 私が紹介してもきっと伝わりにくいから、一度「新宿日本語学校」で検索してみてほしい。何しろおもしろい活動をしている学校だから。
 そうこうするうち、校長の熱量と話のわかりやすさに圧倒され、あっという間に1時間が過ぎていた。
「一度、在校生の皆さんに日本茶講座をさせてもらえませんか?」
「ぜひやってください。一度改めてお話ししましょう」
 こんなやりとりで今回の再会はいったんおしまいにして母校を後にした。

 

 

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最新鋭の自作の日本語テキストを紹介する江副校長。

 

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校長先生とこれまでとこれからのことを話し合い、あっという間に1時間が過ぎる。
 

 

 

東京を振り返る旅

 

 

 興奮冷めやらず、向かった高田馬場の居酒屋で、ビール片手にこの日を振り返った。一人の留学生として日本という異文化に飛び込んだ私が感じたあの頃の東京と今の東京を見比べたときに、何が変わったのだろうか。もちろん時間、時代の変化はある。しかし、変わらないものもある。そして変わってほしくないことがある。
 

高田馬場の居酒屋にて

高田馬場の「鮮魚と居酒屋 漁介」にて、今日(33年)を振り返る。

 

 

 これから月に1回、東京のあちらこちらを歩きながら、変わりゆく東京と変わってほしくない東京について考える小さな旅をしようと思う。
 1986年に私が暮らした中野から始まった旅は、どこへ向かうのか。また歩きながら考えるとしよう。
 次回の旅は高田馬場から神楽坂にでも行ってみようか。みなさんもよかったらご一緒に。
 

 

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高田馬場駅前にて、今日を後に、明日へ向う。

 


 

 

*この連載は毎月第1・第3月曜日(月2回)の更新連載となります。お楽しみに! 

 

写真/ステファン・ダントン    編集協力/田村広子、スタジオポルト

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ステファン・ダントン

1964年フランス・リヨン生まれ。リセ・テクニック・ホテリア・グルノーブル卒業。ソムリエ。1992年来日。日本茶に魅せられ、全国各地の茶産地を巡る。2005年日本茶専門店「おちゃらか」開業。目・鼻・口で愉しめるフレーバー茶を提案し、日本茶を世界のソフトドリンクにすべく奮闘中。2014年日本橋コレド室町店オープン。2015年シンガポールに「ocharaka international」設立。著書に『フレーバー茶で暮らしを変える』(文化出版局)。「おちゃらか」http://www.ocharaka.co.jp/

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