ステファン・ダントンの茶国漫遊記

ステファン・ダントンの茶国漫遊記

#49

ーステファンが旅する東京ー 始まりは中野区

ステファン・ダントン

 

 

 
 

 ふと思い出す夏がある。うっそうとした緑に囲まれたテニスコートで白い玉を追う有閑マダムをフェンス越しに見るともなく眺めていた。中野区にある哲学堂公園のテニスコート。
 1986年の夏。23歳だった私は本当にわずかな資金と夢だけを持ってバブル前夜の東京で暮らしていた。
 あの頃、街行く人はみんな明るい未来を確信したように斜め前方を見て歩いていた。この先の1週間をどうやってしのいでいくかが頭の大半を占めていた私にはそんな風に見えていた。タクシーの行列を横目に、私はいつだっててくてく歩いていた。電車賃すらももったいなかったし、時間だけはあったからとにかく歩いた。東京中を歩いた。
 あれから33年。東京もずいぶん変わった。私も変わった。もちろん変わらない部分もたくさんある。変わってはいけない部分もたくさんある。  
 貧乏留学生だった自分とその頃の東京を振り返りながら今再び東京を歩いてみよう。きっとおもしろい発見があるはずだ。
 そう思い立ち、この6月、友人を誘って私の日本生活の出発点、中野区に足を運んだ。

 

 

 

 

江古田駅から昔住んだアパートを目指して

 
 梅雨の晴れ間の太陽の下、降り立ったのは西武池袋線の江古田駅の南口。駅舎はずいぶん新しくなっていたけれど、駅前の風景はまだ昭和だったあの頃のムードを残している。


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江古田駅前で昔のようにたばこに火を点けかけ、思いとどまる。

 

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駅前のスーパーは昔と変わっていなかった。

 

 

「なつかしい?」と聞く友人に「私が住んでいたアパートまでは20分くらいあるけど、ここまでよく歩いてきたよ。池袋のアルバイト先までここから電車に乗ったんだ。お金がないときは池袋まで歩いたけどね」と答えながら、多分、いや間違いなく33年前からあった喫茶店に入って本日の作戦会議。

「日本に来たばかりの頃、早稲田の外国人用のシェアハウスに転がり込んで、それからすぐに哲学堂の近くのアパートを借りたんだ。4畳だったかな。トイレは外。お風呂なし。家賃は2万円ちょっと。銭湯に通ったよ。大家さん、いい人だったな。アパート、まだあるかな。道は多分わかるから、探してみたいな。行ってみよう」

 

思い出しながら描いたアパートの間取り

当時を思い出しながら描いたアパートの間取り。

 

 

 

哲学堂まで

 

 商店街を歩く。街の匂いは変わらない。江古田は学生の街らしく、ボリュームたっぷりな定食屋や居酒屋がたくさんある。店先から漂う魅力的な匂いについ寄り道したくなるけど、目的地はここからずいぶん先だから我慢だ。

 

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江古田銀座のゲート。ここから哲学堂までは20分くらい。

 

 

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目白通りを渡って中野方面に向かう。

 

 

 目白通りを渡って、中野通りを南下する。少しずつ下る坂道の両側は静かな住宅街。遠くに中野のランドマーク「野方配水塔」が見えてくる。どこからでも見えるこのランドマークの屋根を「モスクみたいだな」といつも眺めていた。誘われるように配水塔の足元まで行ってみた。たしかアパートはすぐ近く。いつも見ていたこの配水塔の足元が気持ちのよい公園になっていることをはじめて知った。

 

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「野方配水塔」にて。その足元で休憩しながら、景色を眺める。

 

 

 

 

あのアパートを探して

 

 野方配水塔からさらに南へ下ると哲学堂公園の緑が見えてくる。

「思い出した。あの角にナポリタンのおいしい喫茶店があったんだ」

 今はまったく別の店になっていたけれど、はじめてナポリタンの味を知り、日本の喫茶店のよさを教えてくれた店の内装やマスターの様子が頭の中に蘇った。
「ここからしばらく行くと、山崎パンがあって。その角を曲がるとアパートだよ」
 山崎パンはもうなくて、少し迷ってしまった。
「33年前だってそれなりに古いアパートだった。たしか1963年にできたと聞いて、私と同い年だなと思ったから。もう建て替えられているかもしれない」
 不安になりながら、それらしき角を曲がると
「あったよ!」
 アパートはそのままあったんだ。

 

 

 

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アパートを発見し、懐かしくなり近くまで近づいてみる。

 

 
 靴を脱いで下駄箱にしまう。鉄砲階段を上ると両側に中廊下が伸びる。私の部屋は左に曲がって突き当たり右側だった。鮮明に思い出す4畳の部屋。窓の外には公園の緑が見えていた。風もよく通った。部屋には何もなかった。二つりんご箱をもらってきて、一つは机、一つは物入れにしていた。あとは布団。それだけ。冬、食料の保存は窓の外。ただただ生きていた。日本語を勉強し、アルバイトをして、大好きな本を読んで、たまには友だちを呼んで、お金はないけどそれなりに楽しく暮らしていた。
 アパートがあるなら通った銭湯もあるだろうと、記憶をたどって歩き始めた。「銭湯の壁には富士山の絵があってね、自然とできた風呂仲間の背中にも絵が描いてあったよ」なんて思い出話をしながら記憶の場所に向かったが銭湯は見当たらなかった。
「あの当時はこの付近にたくさんあった風呂なしアパートが減って、銭湯もなくなったんだろうね」

 

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銭湯があったあたりはずいぶん変わっていた。


 

少し残念だった。でも時間は過ぎる。時代は変わる。

 

 

 

哲学堂公園にて

 

「留学生だったころ、ステファンは毎日何をしていたの?」
「もちろん学校やアルバイトも忙しかったけど、よく近所の哲学堂公園に行ってテニスコートを眺めてぼんやりしていたな。すぐそこだから歩こう」 
 哲学堂公園は妙正寺川を望む小高い丘の上にある。東洋大学を創設した偉い哲学者が精神修養のために作ったんだそうだ。気持ちのいい緑に囲まれた散歩道を歩くと、精神修養のことはわからないが気持ちが落ち着く。
 北西の角から公園の敷地に入ると、左手に野球場、右手にテニスコートがある。ここはまったく変わらない。フェンスの脇には昔と同じようにベンチがあって、懐かしくなって腰掛けた。
 テニスコートは平日昼間というのに埋まっていて、中年の男女が球を追っている。以前と違うのは、庶民的な感じが強まったことくらいか。今目の前にいる人たちはずいぶんカジュアルなスタイルだが、昔は真っ白なテニスウエアを着こなしたマダムたちが実に“お上品”にテニスに興じていた、ように思う。
「ビールを買って、ここに座って野球を見たりテニスを見たりしながらいろんなことを考えたよ。思いつきで日本に来て、学校は行かないといけないけど、ついさぼることもあって。遊びたいけどお金がなくて。将来のこともまったくわからなくて、ぼんやりしたくなるとここへ来たんだ」
「お金がないとき、マダムのテニスを見てクソッとか思ったりした?」
「自分の現在と将来に不安はあるし、自分以外の人は余裕がある。そのことに苛立つことはあった。なんだか自分が最底辺の人間みたいな気分にもなりかけたけど、何も持っていないことがかえって爽快だな、とも思ったりしたよ」
 私は今もフェンスのこちら側からテニスを眺めている。

 

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テニスコートの反対側は野球場。どちらを見るかは気分次第。

 

 

 

 

当時の通学路をたどって高田馬場へ

「さあ、ここから西武新宿線の新井薬師駅まで行こう。当時通っていた語学学校は高田馬場にあったから、昔の通学路を歩いてみよう」
 歩き出した私たちは、一路新井薬師駅へ向かった。哲学堂通りをまっすぐ南下。通りがかった駄菓子屋は、50年以上続く店。こんな風景がそこここに見られるとほっとする。

 

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通学路の駄菓子屋で昔懐かしいゲームに挑戦.

 

 

 新井薬師の駅から高田馬場まではほんの5分ほど。
 降り立った高田馬場は、今も昔も大勢の学生でいっぱい。今は「若いな。楽しそうだな」と思えるけれど、当時同世代だった私は「金持ち学生が楽しそうにしやがって。イライラする」なんて尖った気持ちになったのを思い出した。
「ずいぶん歩いたから休憩しよう」
 

 

 

 

高田馬場の喫茶店にて

 

 少し歩くと、高田馬場には古めかしい看板の店がたくさんある。定食屋、ラーメン屋、喫茶店。学生の街で長年愛されてきた店の数々。雰囲気のいい喫茶店を見つけたので一休みすることにした。
 ここで、高田馬場での学生生活について話すうちに思わぬ展開になったのだが、その話はまた今度。

 

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歩き疲れて喫茶店に立ち寄ることに。


 

 

*この連載は毎月第1・第3月曜日(月2回)の更新連載となります。お楽しみに! 

 

写真/ステファン・ダントン    編集協力/田村広子、スタジオポルト

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ステファン・ダントン

1964年フランス・リヨン生まれ。リセ・テクニック・ホテリア・グルノーブル卒業。ソムリエ。1992年来日。日本茶に魅せられ、全国各地の茶産地を巡る。2005年日本茶専門店「おちゃらか」開業。目・鼻・口で愉しめるフレーバー茶を提案し、日本茶を世界のソフトドリンクにすべく奮闘中。2014年日本橋コレド室町店オープン。2015年シンガポールに「ocharaka international」設立。著書に『フレーバー茶で暮らしを変える』(文化出版局)。「おちゃらか」http://www.ocharaka.co.jp/

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